「遅すぎた帰還」
翌朝が来て、習慣づいたいつもの時間にサロは目を覚ます。規則正しく生活する人間の体内時計というのはかなり正確であり、特に起床時間に関して言えば、時間が来ると勝手に目が覚めるという人間は少なくない。
だから、実は生まれて間もない天使であるミカエルよりも早く目覚めたのはある種の道理と言える。
ついでに言えばサロは寝起きのいい方、深く眠る方で、山歩きをしてきた身にもかかわらず、前日の疲れの全く残っていないさっぱりした気持ちで洞穴から出た。
太陽の光がサロにエネルギーを与え、爽やかな風が木々の香りを連れ立って吹き抜ける。昨日ほど汗もひどくないし、実に快い。
「~~~っ、今日もいい天気」
伸びをした彼女の言う通り、感じる通りのいい天気。快晴である。
「……今日は帰れるかな」
どの程度の距離を意図せず転移してしまったのか。それを正確に知る術はミカエルにもサロにもなかったが、そろそろ山を越えられる頃だというアタリはついている。
村の皆は心配してるのかな。心配かけた人達にきちんと謝らないと。この数日のことを話す必要はあるけど、ミカエルさんの秘密は極力伏せなきゃ。中腹には手慣れた山賊がいることも報せないといけない。
故郷のことを考えると、帰ってからやらなければならないことが意外とあることに気がつき、彼女は苦笑する。
「さ、お寝坊さんを起こさなきゃ」
それでも、きっともうすぐ帰れる。彼女はウキウキしながら洞穴へと戻った。
「…………」
「…………」
無言。昨日まではミカエルもサロも気分が沈んでしまわぬよう明るく話しながら歩いていたのだが、今日は違った。
朝、歩き始めの頃はサロの方から積極的に話しかけていたのだが、この日はミカエルが挙動不審で話に乗ってこなかった。
その理由など、当然サロにも解っている。
「ミカエルさん」
「は、はいっ!?」
ビクッと身体全体で飛び跳ねるように反応するミカエル。まるで、捕って食われるとでも思っているかのような反応だった。
「そんなに驚かなくても……傷つきます」
「え、あ……すみません」
「はあ……」
立ち止まって溜め息を吐くと、ミカエルは非常に申し訳なさそうな顔で再び「すみません……」と言う。
彼は解っていない。そう思ったサロはミカエルの頬を人さし指でつついた。
「もう。わたしは普通にしてるのに、どうしてあなたが緊張するんですか」
「それはその……」
「ちょっと黙っててください」
「え、でも今」
「黙って」
「……はい」
ミカエルは「理不尽だ」と嘆きたかったが、有無を言わさぬ言葉に押し黙る。
彼女の微笑みに、天使であるはずの彼は不思議と恐怖を覚えた。
「わたしは普通に暮らしていきたいだけなんです。今までとなんにも変わらず、あの家で」
「変わらず……」
「変わらずです。あなたが旅立つ日まで。恋人でなくていい。普通にしてください」
子どもに諭すような笑みで「そんなことが簡単に出来ない、真面目過ぎるところが好きなんですけど」と加えた。
ミカエルはまた反射的に謝りそうになって慌てて口をつぐむ。堅すぎる性格は簡単には治りそうにないな、とミカエル本人もサロも思わず考えた。
サロはミカエルの手を握る。土や汗に汚れた温かい手。やや強引に引いていく。
「さ、帰りましょ。もうすぐそこです」
彼らの視界には、黄色く染まる葉を枝いっぱいにたたえた大きな木が見えてきていた。
ミカエルにとっては、いつかここを去らねばならないことを思い出させるシンボル。
「サロさん」
「なんですか?」
「危ないですから。私……僕が先に行きます」
「ぁ……はい……!」
生真面目な天使は思う。
いつか。それは何年か後でもいいのだろうか。少なくとも、彼女の花嫁姿を見てからでも遅くはないはず。
その隣には、立ってあげられないが。別の誰かと結ばれてもらうしかないのだが。その誰かを見つけるくらいのことはしてあげるべきだ。
僕は、天の使いだから。
黄色い大樹さえ越えてしまえば、あとは2人にとっても慣れた道。危惧していた山賊にも遭遇することはなく、見慣れた草木に安心を得る。
「よかった……」
なんだかんだ緊張していたのか、ほう、と息を吐きながらサロはそう漏らした。
対して、ミカエルはその表情にこそ安心し、笑顔を見せた。
ここまでくればもはや安心。たとえ何かに襲われても駆け下りることも可能で、村はもう目と鼻の先。
知らず知らず、2人はにこにこしていた。一応、帰りつくまでは気を引き締めなくてはならないと思いつつ、しかし我慢しきれずに笑顔は漏れてしまう。
「ふふ、ミカエルさん、顔がニヤけてますよ?」
「サロさんこそ」
だが。
ミカエルは考えもしていなかった。ゼウスが何故この村へ彼を送り込んだのか。その本当の意味はなんだったのか。
浅慮だと謗ることなかれ。仕方のないことだ。人の中に暮らし、人の幸せや意外な強さを知った彼は、それを見守ることこそが天界の本来の仕事だと悟った。
人というのは弱い存在ではなく、互いに助け合って生き、発展していける存在なのだと、既に彼は認識を改めている。天界から手を出すばかりが、人間の為ではない。頭でなく、心で解っている。
だから、それこそがゼウスの伝えたいことだったのだとミカエルが考えてしまったのも当然といえば当然。間違いなく、彼は成長したのだから。
その異変に気づいたのは、ついに木々を抜けようとした時だった。
「なんか、変なにおいしません?」
「におい? ……僕は解りませんが」
くんくんとにおいを嗅ぎとったサロの顔は少し浮かない。まるでそのにおいが不安を煽っているかのように。
ミカエルが表情を引き締め、彼らは頷きあって少し早足で行く。山を抜ける。木々のトンネルはついに終わり、数日ぶりに人里が見えた。
「えっ……?」
信じられないというような声をあげたのはサロだ。ミカエルの目は覚えている。この景色、この構図は人間界に来てサロを背負いながら見た景色。目の前に見えているのは、間違いなく彼女の故郷だ。
ただ、その時と違うことがあるとするなら。
サロはミカエルの背ではなく隣にいて、同じ光景を目にしていること。
そして、彼女の故郷の村は真っ黒に染まり、所々から黒い煙を上げていること。
モノが燃え、焦げた後の嫌な臭いがミカエルの鼻を刺激する。
「っ!」
「サロさんっ!」
走り出したサロのあとを、混乱したままのミカエルが追った。




