「甘い日」
意外なほどあっさり朝はやってくる。ミカエルは窓から射し込む朝日に薄く目を開いた。
「ん……サロさん、朝ですょ……」
昨夜隣合って眠った女性を真っ先に気にかける。ベッドは埃やカビが酷くて使えたものではなかった。横になって眠ることは出来なかったが、身体を痛めていないだろうか。
「っ!? サロさん!?」
いない。彼女の使っていた毛布だけが残され、彼女の姿はどこにもない。
その床を触れれば、まだ暖かい。彼女が立ち去ってからいくらも時間は経っていないらしかった。自分になんの被害もないことから、外部の誰かによる誘拐などでないことはすぐに理解した。焦るような状況にあって、さらに寝起きでありながらも彼は冷静に状況を把握していた。
「サロさん! どこですか!」
名を叫ぶ。窓に駆け寄るが、見える範囲に彼女の姿はない。
「ミカエルさん? 起きたんですか?」
「サロさん!?」
か細く聞こえてくる声。その方向は山小屋の出入口。出入口付近は何かの液体によって濡れており、それがか細い声と相まって「危険」を想起させた。彼は取るものもとりあえず、外へと飛び出す。
ミカエルの心配に反し、そこに彼女はいた。外傷の類などなく、どこからどうみても全くの健康体のようである。
ただし、下着姿だったが。
「……え?」
間抜けな声を出したのは、ミカエルの方。サロは火を焚いて服を乾かしている体勢で固まっている。
完全に思考停止したミカエルとサロ。沈黙が流れ、やがてサロの顔が朱に染まる。
「あの、サロさん、これは」
「いいから早く戻ってください!」
「ごめんなさいっ!」
彼もまた顔を真っ赤にして、慌てて小屋の中へ身を躍らせたのだった。
「本当にすみませんでした」
誠意を見せるために頭を下げるというのは、天界でも人間界でも共通である。実際にはそこまで頭になかったミカエルが自然と頭を下げたのだから、やはり頭を下げるという行為は自身の立場が低いことを明確にするという意味で自然発生的に生まれた文化に相違ない。
単純に言えば、彼は心の底から謝っている。
サロはきちんと服を着て、その謝罪の姿を前にそっぽを向いていた。まだ少し耳が赤い。
「ま、まあ、わたしも悪かったですしね……」
この日、サロはミカエルよりも早く起床した。起きてみれば結構汗をかいており、服はベタつくし蒸れるしで大変不愉快であった。
故にそっとミカエルの隣を抜け出し、彼の荷物の中から、自由に使っていいと言われていたタオルを持ち出し、外へ出た。
そこで彼女はハタと気づいた。タオルを濡らして身体を拭くつもりだったが、これは魔力で水浴びをしてしまえばよいのではないか。ここは山の中。どうせ見る者などいないのだから。
ということで早速服を脱ぎ、しかし下着に手をかけたところで恥ずかしくなり、下着姿で手を天に向け、適当に水を降らせた。身体もさっぱりしたし、満足した彼女はタオルで身体を拭きながら気づいた。脱いだ服に、水がかかっていることに。
迂闊にも、服を適当に放ったまま適当に水を降らせてしまった。元々日帰りの予定だったのだ。替えなど当然ない。
そこでサロは山小屋の裏へ回り、薪を発見。運よく使える状態だったそれに火をつけ、服を軽く乾かしていたところで運悪くミカエルが目を覚ましてしまった。
「もういいですから。顔を上げてください」
「はい……」
ミカエルは目に見えて落ち込んでいる。頭を上げるのも渋々といった風情であり、非常に居たたまれなかった。
そんなことがあり、彼らは恥ずかしく思いながらも互いを少し意識しながら移動を開始した。
これがミカエルとサロでなければ。あるいは、このタイミングでさえなければ、こんな出来事も「思い出」として美しく補正され、彩られて記憶に刻まれたのかもしれない。
山を進むというのは、往々にして危険な行為である。足を滑らせれば転げ落ちて死ぬ可能性もあり、それでなくともケガをしてしまえばそこから雑菌の侵入を許し、取り返しのつかない事態になることもある。
その防止のために多くの荷物を用意して山越えを行う者もいるが、それは実は間違いである。
自身の力に見合わぬ大荷物は逆に足を取られる原因となり、それを背負っている場合は背中に力がかかってしまった際に踏ん張りきれずに滑落する。
かといってあまりに備えが少ないと今度は何か事故があった時に対応できないことがある。それはそれで意味がない。
だから、山や森に入る際には、軽く、汎用性の高いモノを厳選して持ち込むことが肝要となる。
つまるところ、何事にも適切な量、適切な質というのがある。そういうことだ。
「へえ。知りませんでした。サロさんは物知りですね」
「お父さんの受け売りなんですけどね」
そんな話を、サロはミカエルにしていた。足下には十分注意を払わねばならないが、別に黙っていなければならないということもない。
視線を交わらすことはなく、声だけが交わされる。
「ポーレンさんも山に?」
「昔は来ていたみたいです。わたしが生まれる前かな」
「屈強な身体つきですもんね」
「若い頃は冒険家だったみたいです。カタネロウの登頂にも成功したなんて言ってました」
「それはスゴいですね」
カタネロウというのは人間界で最も高い山のことだ。標高の高いエリアは気温が低く吹雪も多い。モンスターも住み着いており、人間が登頂するには非常に厳しい地とされている。
「ポーレンさんはもしかしてとても強い戦士なのでは?」
「どうでしょう。わたしが生まれてからはずっと平和ですし、お父さんが見栄を張ったかもしれませんし」
「ポーレンさんはそういうところありますからね」
「あ、そんなこと言って。帰ったらお父さんに言っちゃお」
「えっ! そ、それは勘弁してください!」
どうしましょうねー、と小さく笑い、サロは正面のそれに気づいた。
木々の隙間から見える青い空。白い煙が上がり、細い線としてたなびいている。ミカエルを引き止め、それを指差す。
ミカエルもそれを認識し、顔を引き締めて分析する。
「……人が火を焚いている煙ですね」
「どうします?」
真っ先に浮かぶのは山賊の存在。避けるのが無難だろうが、その煙は真正面だ。回り込むにしても結構大きめに迂回しなければならず、大幅な時間のロスになるのは間違いない。
が、ミカエルは一切迷わなかった。
「迂回しましょう」
「はい」
安全確保が最優先。幸いまだ陽が高く、寝床を探すにしても時間的な心配は少ない。2人は山賊達にうっかり出くわさないことを祈りながら回り込むのだった。
夜になり、2人は洞穴を見つけてそこで一夜を明かすことにした。ミカエルが中を確認すると、さほど広くはない。草の塊や生き物の骨、フン等はなく、安全であると判断してからサロを招き入れた。
「暗いですね……」
「待っててください。今カンテラを出します」
荷物を漁り、カンテラを取り出す。
「これで大丈夫ですね」
小さな明かりが灯り、少しの熱を発する。
特にすることもない彼らは昼間のように他愛のない話を続けた。そんな折、ふとミカエルがこんなことを言い出した。
「サロさんは好きな人とかいないんですか?」
「す、好きな人ですか?」
ミカエルにとってはなんでもない質問。23だという年齢、働き者で器量もよい彼女に男の影がないのがなんとなく疑問だっただけ。
サロは少し考え、逆に問いを返した。
「恋愛ってなんなんでしょう?」
「私も疎い方ですが……この人と長く一緒に居たい、ということなのでは?」
「長く一緒に?」
「一緒に」
その言葉を受け取った彼女は深く考えず、カラッとした顔で結論を出した。
「わたし、ミカエルさんが好きです」
「……へ?」
口を大きく開けてアホみたいな顔をするミカエルをよそに、サロは世間話でもするように言葉を続ける。
「ミカエルさんは優しくて、真面目で……結婚するならミカエルさんがいいです」
「ちょ、ちょっと待ってください! いくらなんでもそんな急に!」
「でもわたし、ミカエルさんと家庭を作ってみたいですよ? 同じ村で暮らしてきた誰よりも、ミカエルさんの子が欲しいです」
あっさり。混乱しているミカエルの方がおかしいかのようにサロは平然としており、それにミカエルは余計に混乱する。
カンテラの淡い明かりに照らされたサロが微笑みかける。
「わたしは、あなたが好きみたいです。ずっと一緒に、隣に居たい」
「え、えぇ? でも私達は会ったばかりですし」
「ミカエルさんはわたしのこと嫌いですか?」
「そ、その訊き方はズルいですよ」
「ふふ、ごめんなさい」
サロの心の中には、スッキリとした気持ちが広がっている。意識したことはなかったが、気づいてみればなんてことはない。そんな気持ちが。
好きだと解ったからどう変わるということもない。サロからしてみればただこのままミカエルとあの家で暮らせればいいなー、という程度のモノ。
真面目で堅物が過ぎるミカエルにはイマイチ理解が及ばないらしかったが、それもいつものことだと思うと笑いが漏れた。
「で、ですが私には旅もありますし……」
「解ってます。だから、もし旅が終わってもわたしのことを覚えていてくれたら」
明かりのせいではなく顔の赤いミカエルにスッと顔を寄せ、その頬に口づけをした。
「その時は、わたしと結婚してください」
驚き、唖然とし、言葉が出てこないまま硬直しているミカエルを放置してサロは明かりを消し、ミカエルに背を向けて横になった。
「明日もありますから、もう寝ましょう?」
その時の彼女がどんな表情でいたのか。それは闇に紛れて誰にも見えなかった。
ただ、「心音がミカエルにも聞こえているのではないか」という緊張が、眠るまで彼女を苛んだことを添えておく。




