「血の臭い」
「グルルルルル…………」
ファイロウウルフは、本で見た通りの歪んだ形状の爪を持ち、本で見た通りの黒く大きな身体をしていた。
だが、本には書いてなかった。こんなにも殺意を向けてくるなんて。エカテリーナの様子を窺うようにゆっくりと歩いてくる獣。その眼光の鋭さが、威圧感が尋常ではない。
獣も生きるのに必死なのだ。エカテリーナは知る由もないが、このファイロウウルフは草食モンスター達に逃げられたばかり。ここで少女を取り逃がすことはファイロウウルフにとって致命にすらなりうる。逃がすわけには、いかない。
「嫌……来ないで……っ!」
少女は、自らが予め立てておいた計画もシミュレーションも思い出せない。背中の翼でファイロウウルフには届かない高さへ上がる。たったそれだけのことで、彼女は安全を確保できる。
「あ……あぁ……」
だが彼女は、身体も精神も完全に萎縮していた。蛇に睨まれた蛙のように、逃げ出すことも戦うことも出来ず、ただただ怯える。立ち上がることすらも、出来ない。
(逃げなきゃ……でも足が、身体が動かない……!? どうして!? やだ、怖いよ、怖い怖い怖い怖い!)
逃げ出したいのに、恐怖で固まった身体はついてこない。身体が動かないことが死を連想させ、さらに心を恐怖に染めていく。そんな、負の循環が生じていた。
「グルル……グァゥ……!」
威嚇しているのかなんなのか。黒い狼はエカテリーナにゆっくり、ゆっくり近付きながら唸る。その1歩が踏み出される度、エカテリーナは狼の殺気に呑まれていく。
殺気。殺意。魔力ですらないそれに、現実を歪める力などない。ファイロウウルフはただ、「お前を絶対に殺す」と言葉ではない何かで語りかけているだけ。その意志が、向けられる者を圧倒し、呑み込む。
「はぁ、はぁ……やだ……嫌……」
エカテリーナは腰を抜かしたまま、動かない。黒い狼はエカテリーナの出方を窺いながらも、着実に歩を進めていく。やがてその距離は10メートルを切った。
……ファイロウウルフが立ち止まる。うなり声も止め、身を低く屈める。思い切り飛びかかる前兆であることは、少女にも感じられた。エカテリーナの肩が、ビクンと震える。
「……ガァッ!」
「ひっ!?」
跳躍。空中で獣がとったのは、右前足を振り上げて、エカテリーナをその巨大な爪で引き裂かんとする姿勢。
死ぬ。少女は感じた。考えたのではなく、思ったのでもなく、感じた。頭の中なんて真っ白だ。その一瞬で、狼に対する恐怖や萎縮……全ての余計なモノが消え去り、死にたくないという生物としての本能だけが最後に残った。
「嫌あああぁぁぁぁぁっ!」
エカテリーナは絶叫する。反射的に頭部を庇うように振り上げた腕。そこから闇属性の魔力が乱暴に放出され、飛びかからんとしていた大きな獣の身体を弾き飛ばした。
「ッ!?」
至近距離でそれを浴びたファイロウウルフの右前足が、肩口からごっそり消え失せる。傷口からは鮮血が吹き、血の雨となってエカテリーナを赤く赤く濡らしていく。獣は声にならない悲鳴をあげ、のたうち回った。
「嫌! 嫌ぁ! 死にたくない! やだぁ!」
我を忘れ、パニックになりながら、とにかく魔力をぶつける。無意識に刷り込まれた球状の魔力。至近ですらまともに当たりはしない。形状の固定もされていないから威力もすぐに減衰してしまう。
それでも、彼女の蓄積魔力が尽きるまで魔力をぶつけられたファイロウウルフは、右前足全てに加え、上顎から頭部にかけてを失い、息絶えていた。
「はぁっ、はぁっ……っ!」
エカテリーナは、無我夢中だった。必死に生きようとした。今、彼女の命を救ったのは魔法なんて格好のいいモノじゃない。半狂乱になりながら、情けなく叫びながら必死に放った、ただの魔力だ。
歪な形に抉られた獣の死体から流れる血。池を作り始めたその赤い血が鼻につく嫌な臭いを発し、強烈な吐き気を誘う。
「うっ……うえぇぉ、ゲホッ、うえぇぇ」
咳き込みながら、エカテリーナは胃の中のモノを吐き出す。狼のグロテスクな死に様、恐怖に締め付けられた神経。その負担に耐えられず吐いてしまうのは、当然のことだった。
過呼吸気味だった息が多少整い、吐き気が収まるまでエカテリーナはその場にいたのだが、彼女は自らが殺した生き物の方を見ることが出来なかった。それでも、背後からはっきりとした血の臭いが、現実感を伴って漂ってくる。
(……ここを、離れなきゃ……)
不確かな意識で、ぼんやりとそう考えた。虚ろな目で血に濡れた本とパンの入った袋を手にし、フラフラと飛び上がる。どの方向へ向かうべきかなんて考えられなかった。とにかく、血の臭いがしない方へ。
どれくらい飛んだかも解らなかったが、今朝目を覚ました所と同じような高さの空洞を見付け、そこに入り込む。
「私……生きてるの……?」
真っ暗な洞の中で膝を抱えて丸くなると、ようやく自分の生を実感できた。命のやり取りを終えたばかりの彼女に、涙を流す余裕などない。
「魔法で……殺した……?」
さっきの光景が、フラッシュバックする。殺しに来る爪と牙、消え去る狼の足、自分を濡らす血飛沫、頭を失って脳みそを曝す死体……。
「おぇ……」
まぶたに焼き付いた、直前まで生きていたモノの成れの果てが、再び吐き気を誘う。が、さっき全て吐き出した彼女の身体には、もはや吐き出すモノなど残っていなかった。
怖かった。怖くて怖くて、頭が真っ白になって、ただ死にたくなくて、夢中で魔力を投げ付けた。……今、私は生きてる。
「生きてる、けど……」
血の臭いがする。自分のではない。身体中に浴びた、返り血。死んだファイロウウルフの残した、死の臭い。
その臭いが、着ている服は元より、身体にまで染み付いて離れないような気がした。
「……それに私、魔法を使えなかった」
あんなのは魔法じゃない。ただの魔力。形の固定だとか、そういうのはどこへ忘れたのか。しかも、怖くて目を閉じていた。狙うべき相手を見てすらいない。すごく無様で、格好悪い。
「あ……れ…………?」
思い返してみると、それどころか、空も飛べなかったし、走って逃げることすら出来なかった。身体が言うことを聞かなくて、頭の中も真っ白で。
「あれが、戦い……」
命のやり取り。自分が死ぬか、相手が死ぬか。失敗することが、そのまま死に繋がる……その恐怖から、空を飛ぶとか、走って逃げるとか、そんな当たり前に出来ていたことすら出来なくなる。……エカテリーナの身体は、まだ震えていた。
穴から身体を出し、自分の小さな手を見る。傷もないのに血だらけで、震えていて、でもちゃんと動かせる。……生きている。
「怖いよ……」
あんなに必死で、怖い思いをこれからたくさんしないと、この森では生きていけない。故郷には、帰れない。
「やだぁ……もうやだよぉ……」
暗闇の中、死を間近に感じた幼い命は膝を抱える。
血の臭いが、彼女の意識からずっと消えなかった。




