「優しさの代償」
「えっ……?」
サキュバスの幼女、エカテリーナ・テレサは困惑していた。
辺りは、見たことのない景色。木、木、木。……ここは、森だ。上を見ても木々の葉が空を隠している。本当に、木しか見えない。
けど、それはおかしい。私は今まで普通に町にいて、帰りに出会ったディロンさんを探してる人に図書館を教えてあげて、それで……っ!
「ここは、魔界最大の森。君の知らないようなモンスターもたくさんいる」
「えっ!? あの、えっと!」
人間の青年は、すぐ隣にいた。エカテリーナは景色にも彼にも驚いたが、彼はまるで驚いておらず、微笑みながら言う。
「初めて来ただろう?」
「は、はい……?」
エカテリーナはつい普通に返事をしてしまったが、そうではない。ここがどこだとか、初めて来ただとか、そんなことはどうでもいい。なのに、驚きのせいか上手く言葉が出てこない。
その間も青年はマイペースに言いたいことを言い続ける。
「これはお礼さ。見たことのない世界を知ることは、何物にも代えがたい、経験という名の貴重な財産だからね」
「そ、そうじゃなくてっ!」
「図書館には、よく行くのかい?」
「え? あの、はい……って、違」
「じゃあ、この本もあげる。魔界について詳しく書かれているよ。もちろん、この森のこともね」
は、話が通じない! パパとママ、ディロンさんくらいとしか話してこなかったから知らなかったけど、魔族ってこんな感じの人ばかりなのかな……。ていうか今、どこから本を出したの……?
「それと、パンもあげる」
「あ、ありがとうございます……」
パンもくれた。でも、肝心なのは、早く家に帰してと伝えることだ。パパとママはきっと心配する。
「あのっ、私、帰らないといけなくて……」
「もうすぐ夜だからね」
「はい! だからあの」
「だから、僕は帰るよ。……1人でね」
「…………え?」
貼り付けたように微笑んだまま、青年は意味の解らないことを言った。今、なんて……?
「じゃあね、エカテリーナ。また会えることを願っているよ」
青年が、闇を生み出す。まるで世界に穴を空けたような、彼の背丈ほどの闇。空間を歪めたような、見ているだけで不快感すら感じる闇。青年は、その中に消えていく。
「待っ、待って下さい!」
「アイテムはあげたんだ。ゲームオーバーには、ならないようにね」
エカテリーナは手を伸ばすが、青年を呑み込んだ闇には届かず、虚しく空を切る。
「えっ……」
……静寂が訪れた。
「誰か……誰かいないの……?」
周りを見ても、誰もいない。知っている者も、知らない者すらも。
「パパ……ママ……? ディロンさん……?」
知らない土地にただ独り、取り残された。見たことのない木々の葉が、その事実を嫌でもエカテリーナに認識させた。
(私は、独りぼっちなの……?)
寂しさが先に立った。それから、帰れないという事実が……見たくもない現実が浮かび上がる。
ここは、知らない土地だ。それどころか、こんなに植物だらけの地があるなんて少女は想像すらしたことがない。彼女にとってここは、異世界と言っても過言ではない。
(帰れない……じゃあ、ここで……)
子供が、森に取り残される。そんなもの、見えてくる結末は1つだけ。
死だ。
何も食べなければ餓死する。モンスターがいると言っていた。襲われれば死ぬ。
独りで死ぬ。もう、誰にも会えないまま、ここで寂しく死んで……その亡骸も誰にも見付けられることなく、自然に溶けていく……。
……歯の根が、合わない。震える身体を抱き、それでも震えは止まらない。当たり前だ。知らない土地にワケも解らず連れてこられ、帰る術もなく、死が渦を巻く中にただ独り、取り残されている……怖いに決まっている。
怖い……怖いよ……誰か……っ! 誰かぁ……!
「やだぁ! 誰かぁ! 誰か助けてよぉ!」
エカテリーナがどんなに泣き叫んでも、返事をする者など、当然いない。青年がまだいるんじゃないかと少しの期待もあったが、木々の中に己の叫びが響くだけで、余計に現実に押し潰されそうになる。
パニックになりかけていた。呼吸は過剰になり、足腰に力も入らない。腹から喉へとせり上がってくる恐怖に、吐き気を催す。
やだ、やだやだやだ! こんなの嫌! 私は……! 私はっ!
「なんで!? 私が悪い子だから!?」
答える者のない問いがこだまする。ディロンさんですら、私のことは悪い子だって言った。だから、私はこんな所で死ぬの? 生きていちゃ、いけないから……?
幼いエカテリーナに、突然叩き付けられた絶望。死にたくなどない。しかし生きる方法も解らない。……少女は、自身が死ななければならない理由を探し始めている。生きるという選択肢が、薄れていく。
(なんで……私がこんな目に……)
受け入れがたくも近付いてくる死。無力感と悔しさで無意識に握りしめた手には、青年がくれた1冊の本と、パンの入った袋があった。
空腹など感じていない。それどころではない。でも、心の拠り所に出来るものも、それしかなかった。
不安を消し去るには不十分だったが、エカテリーナはパンを1つ取り出し、夢中で齧りつく。
なんの変哲もないただのパンだ。しかし、幼いサキュバスは涙を流しながら、喉に詰まらせ咳き込みながらも、そのパンをあっという間に平らげる。
(はぁ…………はぁ……)
食べ物を口にしたおかげか、少し気持ちが落ち着く。荒れた息をやっとの思いで整えながら、エカテリーナは思う。
(やっぱり死にたくない……やだよ……)
ただのパンは、少女に自身が生命そのものであることを思い出させた。同時に死への恐怖も強くなるが、それに抗うのに十分な生への執着を彼女に与えた。
(私は、死にたくない……死にたくない!)
生命に根付いた、最もシンプルな欲求。それは、生きている意味だとか、幸せな生き方だとか、後悔しない人生だとか、そんな下らない思想を容易く凌駕していく。自分はまだ死にたくないんだという自覚が、少女に生きる目的を作らせる。……生きていく理由など、後付けでもこじつけでも十分だ。
……まだ、死にたくない。パパとママに恩返しをしてない。
……まだ、死にたくない。魔法を当てたことがない。ちゃんとシェイドを使えるようになるんだ。
……まだ、死にたくない。ディロンさんに……会いたい。
帰らなきゃ……私の……自分の力で!
エカテリーナは優しい子であったが、なかなかの負けず嫌いでもある。無論それは強がりで、虚勢で、見栄でしかない。
まだ手足は震えているし、頭の中も整理がつかないでぐちゃぐちゃだし、本音では怖くて仕方ない。
それでも、気持ちを自ら奮い立たせた。それだけで、生還する確率は0%から確実に上昇する。
そしてエカテリーナは、5歳にしては賢い子だ。ディロンが、10歳ほどの子ではないかと感じるくらいには。
ちゃんと、考えなきゃ……。頭の中を、整理するんだ……。大丈夫。私なら大丈夫。魔法だって、使えるんだから。
心の中でそう自分に言い聞かせながら、気持ちを落ち着ける為、そして生きて帰る為に、少女は本を開く。
戦いにおける特別なセンスや才能はない。
初陣で突如才能が開花することもない。
主人公特有の特殊能力なんて持ってない。
いざという時に前世の記憶が蘇ったりもしない。
ご都合主義な神様は天界の勢力だから魔族を助けない。
理不尽な人生の終わり方をしたって記憶を残して転生なんてしない。
彼女の手元にあるのは、本と、少しの食糧。
彼女が使えるのは、日に2度しか使えない最下級魔法と、火と水を起こせる魔力。
彼女を突き動かすのは、小さな勇気と本能に謀られた悲しい偽りの恋心。
エカテリーナと現実との戦いが始まる。




