第2話『朱麗』
北に六山、南に嬰都、西に大河、東に広大な高原が広がる大地の恵みに恵まれた場所。それを、麗州と言う。
大陸で最も古く、最も神秘を秘めた麗州。太古よりその地を治めてきた何百代もの領主の裔、現在の主人の名を朱麗と言った。
母の名は麗藍。父の名は朱麗は知らなかった。もとより、彼らの一族は婚姻による血の存続を示さない。つまり、領主が認めたものが跡を継ぐことになる。能力そのものにしか人の価値は示されないと考える特徴を持つ一族であった。
もっとも、朱麗の母は前領主。その前の領主は朱麗の母の父なのだから、大抵は血の繋がった者に継がれている。
その麗州でかつて無いほどの大事件が息を潜めているなどと、いったい誰が知ることができただろう。
***
朱麗の統治から百度目の春が来た。
風に揺られて散ってきている桜の花びらが作る桃色の絨毯の上、見知った金色の後ろ姿に思わず顔が綻ぶ。
百回のどの春も朱麗には同様に美しく映った。独りではなかったから。
朱麗は少し遠くに見える金色の後ろ姿の人と、母親から譲り受けたこの屋敷でともに暮らしていた。
その人の名は桜花。
朱麗にとってとても大切な人だった。時に友となり、姉となり、恋人のようでもある不思議な女だった。
「桜花。お茶にしないか。」
普通に話し掛けると聞こえていたようで振り返って微かに微笑んだ。 それはいつ見ても不思議な光景で、どんな風に聞こえているのだろう、と朱麗は思わないでもなかったが、どうでもいいことでもあった。どのみち桜花であることにかわりはないのだから。
午後の一時に、木陰にティーセットを運び込んでゆっくりとお茶を啜る。
二人きりの時はいつもそこには居心地のいい沈黙がある。朱麗が大切にしている時間の一つだ。
いつもは無愛想な顔ばかりする桜花も、この時ばかりは薄く微笑んでいる。美しいと思った。木漏れ日を浴びてときどきキラキラ輝く人の微笑みが。
こんなにも穏やかな日々を送るたびに朱麗はただ願った。
この穏やかな日々が長く続くことを。人々が幸福であることを。それは名誉や富を大事にする人には些細なことなのかもしれない。けれど、本当に人に必要なものだから。
ただ、領地を守ることしかできない自分。
朱麗は無力なる自らを感じながら、祈り続けた。
この世界のために。