彼女のお願い
次の日の部活の時間再び、僕は木の下に居た。梅雨が完全に抜けたのかジメっとした暑さはなくなりカラッとはしたが、熱いことには変わりはなかった。木陰でもこの暑さのだから、インドアな僕なんかが、外に出れば体の真から溶けてしまうだろう。
「この暑さのなか、彼女は一体どれだけ跳ぶつもりだ?」
僕が言う彼女…… 篠原空希は今日も暑いグランドの上で跳んでいた。僕がここにきて、かれこれ三十分は経つが彼女は一切の休みを取らずに一心不乱に跳び続けていた。しかし、今、僕の目の前を跳んだ後、疲れたのだろうか膝に手を置いている。ハァ、ハァ、と荒い呼吸がこっちにまで聞こえてきそうだ。彼女はまだ跳ぶつもりか、再び棒を拾い直す。棒を支えに歩み始めた彼女に、陸上の顧問が彼女に駆け寄ってきた。
何か言い合っている…… というより、彼女が顧問に一方的に何か言われているように見えた。顧問は何かを伝えたのか、彼女の話も聞かずにその場から立ち去った。彼女は顧問が立ち去るのを目で見送ると、フラフラと僕のいる木の下まで歩み寄ってきた。
ドサッ と、力なく彼女は座り込む。隣から、彼女の息が整えるスッ、ハァ、スッ、ハァと、呼吸リズムが聞こえてくる。
「これ、飲む?」
彼女は僕が差し出したペットボトルを受けとると、荒い息を押さえるかのように一気に体に水分を注いだ。
グッ、ゴホッ、ゴホッ!
彼女はむせながらも、体が欲するままにペットボトルを、飲み干す。
「はぁ…… 疲れたー!」
「運動したあと、すぐに倒れこんで大丈夫なの?」
「さぁ……そんな事、どうでもいいよ。今日も空が綺麗だから」
彼女が見ている空が彼女の瞳に写る。
「結城は、今日の空、好き?」
「どうかな…… 今日は少し,日差しが強くて僕には眩しい」
僕は空を見ながらも、太陽の日差しを手で隠した。それでも、太陽の日差しが手の隙間からこぼれ出て眩しかった。
「そう、私は好き。眩しいけど、雲がなくて空の奥まで見える。多分、今日は高く飛べる」
「空が、何か関係あるの?」
「気分の問題…… かな。空がもし、曇天なら私は飛ぶ気になれない。それは空がいつもより低く感じるから、逆に今日見たいな綺麗な空なら私はどこまでも高く飛べる」
「なら、今日は飛べるんだ」
僕の言葉に彼の後、彼女はなぜかグランドの方を見つめ、ムスッとした。
「そのはずなのだけどね。さっき、先生に止められたから、今日はもう終わりなのよ。まったく、棒高跳びの先生でもないのに分かった口してさ」
彼女は更にムスっとした。なるほど、だからグランドを見つめているのか。今、グランドには陸上部の短距離選手達がタイム走をしている。そのタイムを計っているのが先程、彼女に注意をした顧問だった。顧問もオーバーワークを心配してことだと思うが、彼女にとっては要らぬお世話だったらしく、横からぶつぶつと草をむしる音ともに先生に対する不満が聞こえてくる。
「これから、どうするの?」
「うーん。もう少し、ここにいるかな。帰ってもやることないし……あっそうだ!」
彼女は何かを閃いたのかぽんと手を叩くと、じっと僕を見てきた。
「な、なに……」
僕は少し後退りした。別に彼女が怖いからというわけではないが、何か良からぬ気配がした。
「結城は美術部よね」
「そうだけど…… 」
「ならさ、私を描いてよ」
「は?」
僕の予想の遥か上をいった彼女の提案に僕の声はいつもの声よりワントーン高くなった。
「いやさぁ。一度、絵のモデルってやつ? やってみたかったのよ」
そう言って彼女は立ち上がると、跳ぶ前ではないのに、体のあちこちを伸ばし始めた。
「じょ、冗談でしょ?」
「本気よ」
僕の喉は跳んでもいないのにからからだ。
「だ、だったら、他の美術部の仲間呼んでこようか! そっちのほうが…… 」
「いやよ。ねっ、ポージングはどうすればいいの? こうかな? いや、こっちのほうがかわいいかな?」
彼女は僕の話など、聞かずに雑誌モデルのようにウインクや手を腰に当てたりしてポージングを取り始めた。
「本当に止めといたほうがいいよ……」
「どうして?」
「僕は空を描けても人は描けないんだ。だから…… さ。僕が君を描くと君は駄作になる」
絵は描きたいものを描くものだとしたら、僕にとって人はそれに当てはまらない。絵は自分の心との合わせ鏡。心に嘘をつけば絵は嘘をつく。嘘を描いたもの作品はどれだけ上手く描いても駄作だ。そして、嘘をついた絵師は必ず…… 嘘の絵からしっぺ返しを貰う。
「駄作…… ね。私、美術のことはよく分からないのだけど…… この人は駄作?」
そう言って、彼女は僕のスケッチブックをめくりあるページを開けた。彼女がトントンと叩いたページにはバーを華麗に飛び越える彼女姿があった。
「そ、それは……」
「私は駄作ではない…… と思うよ。だってさ、私、この絵を見たとき感動したもん。跳んでいるときの自分の姿は何回もビデオや写真で見てきたはずなのに、結城が描いてくれた私は違った。躍動感…… ううん、違う。そう、ね…… そう! 飛んでいたわ! 鳥がバタバタって翼をはた目かせながら、空に飛んでいく感じ! あんな、自分見たことなかった。絵の中の自分は止まっているのに、今にも絵から飛び出してきそうな…… そうね、あとは……」
「わ、わかった。少し、落ち着いて! もう、十分だよ。恥ずかしいから!」
彼女がまだ、僕の落書き程度の絵に賛辞を述べようとしたので、彼女の口を止めた。こうもしなければ、僕の顔の日照は頭上の太陽のようにギラギラに熱をもつところだった。
「分かった? 私にとって結城の絵は駄作でないの! だから、私を描いてよ!」
「でも……」
「何?」
「本当に描けないよ?」
僕は念を押すかのようにチラッと彼女を見た。彼女は僕の目線にジロリと睨み返してきた。
「まだ、言う? よし、ならもう一度……」
彼女は、またスケッチブックを捲り始めた。
「もういい十分だから! 描くよ! 描いて見せますよ!」
僕は言ってしまった。彼女はしかと聞き届けたと言わんばかりに、ニヤッと頬を緩めた。もう、こうなったらやけくそだ。本気で僕が出来るだけのことをやってやる!
「うん。なら、お願いね。で、私はどうすればいい?」
「うーん。そうだな、とりあえず、木の幹にもたれるように座って……」
「こう?」
「うん、そう。そして、その綺麗な金色の長髪を生かしたいから、そのゴム取れる?」
「綺麗…… 」
「うん、取れる?」
「と、取れるわ。ちょっと待って…… 取ったわ」
彼女が髪のゴムをとると、縛り上げられていた金色の髪がなびく。太陽の日差しが強さも相まって、いつもより彼女の髪は輝きを増す。
「その、陸上競技用のユニフォームを生かしつつ、女性らしさも出したい。そうだな、片足を立膝にして、耳に髪の毛を片方だけにかきあげてくれる?」
「こうかしら?」
「いや、もっとこう……」
僕は何気なく彼女の腕を持った。そう、何もその時はやましい感情などなかった。しかし、彼女のムニっとした女性特有の肌の柔らかさを感じると、急に恥ずかしくなってきた。
「こうね」
「そう…… そんな感じ」
彼女の真剣な眼差しを見たら、ここで僕が恥ずかしがるわけにもいかず、僕は平然を保ったが内心はドキドキだ。絵を描く前から手が汗ばんでいる。
「なら、描くよ」
僕は鉛筆を手に取ると、彼女を描き始めた。じっと彼女を見つめ、時々目を合うと恥ずかしくて目を逸らす。心がドキドキし続ける。空を描くのに、もちろんドキドキする。今も、空が一番なのは変わりない。ただ、たまにはこういうの事もいいとは思った。