臨時のコーチ
「どうだった?」
彼女は一時の喜びを握りしめ、再び僕の所へと駆けてきた。棒高跳びは一回の跳躍に余程体力を使うのか彼女の首筋に汗は流れているが、彼女 からは疲れを感じられない。まだまだ、飛べそうな雰囲気だ。
「見てたよ。飛べたね」
「うん。飛べた…… けど 」
僕の言葉に笑顔で応じつつも、彼女はまだ自分に満足していないのか歯切れが悪い。
「けど?」
「まだ、空には届かない」
彼女はまるで、恋人のような熱い視線を空に送る。空に触れたい。その気持ちは僕だって何十年も持ち続けているけれど、それは……
「無理なんじゃ……」
思わず、僕は自分の本音を吐露した。その声は自分の一人言のようなものだったが
「無理じゃない!」
彼女は力強く、僕の言葉を否定した。声の強さもあったが、それよりも否定した後の彼女が僕に向けた目の方が強かった。一切、僕から目を逸らさず、眉間にしわを寄せている。
『どうして、そんなこというの?』
そんな、彼女の声が聞こえてきそうだ。
「僕、余計なこと言った。君のことをよく分からないのに、ごめん」
「いいわ。みんな、そう言うから」
彼女は口ではそう言いつつも、彼女はまだ名残惜しく空を見つめている。
「君は空が好き?」
初めて、この質問を自分から他人にしたと思う。会って数時間…… もっと他の質問があるかもしれないけど、今、僕が一番彼女から聞きたい答えがあった。
「好きよ」
彼女の迷いもない答えに、僕の身体は彼女のたった一言で震えた。僕はこんな近くに空を好きと言ってくれる人がいることを嬉しく思い、誰かに愛の告白されたかのように僕の心は踊った。
「あなたも好きだよね、空」
彼女はまだ、空を見ている。
「どうして、それを?」
僕も空を見る。
「ここの木陰は、空の好きな人しか座らないのよ。私もここが、特等席だったからね」
そう言って、彼女は目線を僕に戻し僕の足元を指差した。
「もしかして、僕が君の場所取っちゃった?」
僕は詫び入れつつ聞いた。
「ううん、そんなことない。最近、部活動が忙しくてなかなか休めないだけ」
彼女は軽く首を横に振った。部活が忙しい…… 貴己も忙しいのだから間違いではないだろう。それに比べて僕は呑気なものだ。
「なんかごめん」
今度は深く詫び入れる。
「なんで、謝るの? ふふふ。それより、あなたえっとー…… 宮城結城君はこれからもここに来るの?」
「同じ学年だから、結城でいいよ。多分、来るかな」
今日もまだ、何も絵が決まってないのだから多分ではないのだが、一応多分にしておこう。もしかしたら、いい題材がこの先僕の頭に浮かぶかもしれない。
「そう。なら、結城。これから毎回とは言わないから…… 私の跳び方見ててくれないかな? さっき、言った通り私だけなんだよね、棒高跳びの選手。だから、この高校には棒高跳び専門の先生がいないのよ」
「いや、僕も専門…… というより生徒だし、美術部だし、棒高跳びのこと何も分からないよ」
今度は僕が首を横に振りながら、大げさに彼女からのお願いを断った。とてもではないが、僕の手に負えるお願いではない。
「それでもいいのよ。少し、おかしかったところを私に教えてくれるだけでいいのよ。結城の邪魔はしないからさ」
彼女は手をすり合わせ、僕を拝んだ。男の端くれの僕としては、女の子にここまでされたら引くに引けない。しかも、美少女…… だと思う人に……
「わ、分かったよ。僕に、できるだけことはするよ」
僕は結局、彼女に押し切られる形で彼女のお願いを受けることにした。僕が首を縦に振ったとき、彼女は跳ねるように喜んだ。彼女は何度も、僕にありがとうと言った。僕が分かったと言ってなだめても彼女はありがとうと言っていた。お礼を言われた人が、お礼をする人をなだめる…… おかしなことだ。今、思い出しても笑ってしまう。
「今日も、夕日が綺麗だ」
帰り道、夕日に手を伸ばす。
『空に届きたい』
僕も本当にそう思うよ。この光景をもっと間近で触れられることができるならば、僕は絵なんて描かない。
夕日は昼もよりも、熱く燃えているのに今はひんやりと肌寒い。僕が家に到着する頃には夕日は空に輝く一等星に出番をゆずり、山の陰に隠れていった。
ピ、ピ、ピ、ピ。
僕が玄関の扉を開けると同時に腕時計のアラームが鳴る。夕方の六時半を知らせる音だ。相変わらず、この無機質な音を聴くと頭が痛くなる。僕は音を止め、はぁと一息吐き、憂鬱な気分で家の中に入ると
「おかえり」
お母さんがいつものように仁王立ちで立っていた。ありがたみもない親の挨拶が僕の耳に聞こえる。
「ただいま……」
僕のはっきりしない挨拶にお母さんはムッとするが、僕は目を合わさずお母さんの脇を抜け、二階の自分の部屋に帰った。僕の家での帰宅は決して玄関なのではない。この腕に付けた腕時計を自分の机に戻すまでが僕の帰宅だ。腕時計のベルトを外し机の上に飾る。殺風景な机に上に飾られる僕の小さな頃の家族写真と腕時計はいつ見ても僕を悲しくさせる。
―― お父さん…… ごめん。
僕は見るに絶えず、写真をパタリと机の上に伏せた。制服から部屋着に着替え、荷物を片付けた後、部屋の電気を消し僕は写真を直すことなく一階のリビングへ下りていった。
「結城、帰ったのか」
「あ、おじいちゃん。ただいま」
家に帰ってきて唯一、僕の顔がほころぶ瞬間だ。
「おかえり、結城。今日の空はどうじゃった?」
「今日も綺麗だったよ。帰りも夕日が見えてさ…… でもやっぱり一番はあの丘からの朝の空だよ。あの場所は特別!」
「ほほう。結城も分かってきたようじゃな。また、一緒に見に行きたいのう」
僕が小さい頃、一緒にあの丘を登ったことを覚い出しているのか、おじいちゃんがなつかしそうに目を細めている。その時の記憶は僕にも頭のなかに一つの写真として根強く残っている。
「そうだね。おじいちゃんの体が良くなったら一緒に行きたい。そのとき、また絵を教えてよ」
「あぁ、またその時な」
そう、言いながらおじいちゃんは心臓を気遣うように胸に手をやった。おじいちゃんからしたら何気ない動作かもしれないが、僕にとってはその動作全てが心配だ。人が目の前で倒れるのは何度見たって慣れるものではない。気が動転し、頭を抑え、ただ泣き叫ぶことしかできなくなる。もう、あんな思いはこりごりだ。
「じゃ、おじいちゃん。僕、ご飯食べてくるよ」
「おぉ、行ってこい。今日のご飯もおいしかったぞー!」
おじいちゃんが最後の言葉だけボリュームを大きく話した。僕はおじいちゃんと顔を見合わせた。おじいちゃんの表情がニッと微笑む。本当におじいちゃんはこういうことに抜け目がない。お母さんは今、台所にいるから聞こえるようにおじいちゃんは大きな声を出したのだろう。案の定、台所からはお母さんが口ずさむ声が聞こえてきた。
「さぁ、夕御飯じゃ」
「うん!」
僕がこの後、おじいちゃんのお陰でお母さんとのいざこざを起こさず夕食を食べられた。夕食を食べ終わった僕は、お風呂に入った後、宿題を済ませ就寝した。寝る前に写真は元に戻した。
次の日の部活の時間再び、僕は木の下に居た。