空を飛ぶ
「やっぱり…… て、どういうこと?」
僕の頭上から聞こえる男性よりも高い声。その声は、部活が行われている熱い熱気に包まれたグラウンドでは不釣り合いな透き通ったものだった。僕は突然の出来事に、動かしていた手を止めた。僕の心臓は突然聞こえた声に不安と期待の両方の感情に反応しドクドクと心臓を高鳴らせた。
「それ、私でしょ?」
僕の返事を待たないまま透き通る声の主は僕のスケッチブックを指してきた。僕が描いていたのは確かに、人だった。そして、僕の絵を見て私という表現するということは今、僕の目と鼻の先にいるのはあの彼女ということを意味した。僕はそれを理解すると、やっとのことで、顔を上げた。この時、僕の感情に不安というものはなかった。あったのは期待。しかし、心臓は先程よりも高速に脈を打つ。
「こ、この絵が分かるの?」
情けないほど、かすれた声だった。唇はグランドの地面よりも乾き、体はこのグランドの熱気よりも暑い。手は汗ばみ、僕自身この時、僕は緊張しているのを肌で感じた。
「自分の跳び方ぐらいは分かるわよ。それに、その絵…… 私の跳び方の特徴をしっかり抑えられている。あなた、美術部?」
「そうだよ。君は陸上部?」
僕の返しがおかしかったのか、彼女は口元の口角を上げ、目を細め笑った。
「ふふふ。描いた本人が分かり切ったことを聞くわね。あなた、おもしろいわ。そうよ、あなたの言う通り、私は陸上部。そして、この学校唯一の棒高跳び選手でもあるわよ」
そう言って彼女は自分の身に着けている服を僕に見せつけるように、くるりと回った。彼女のなりの表現の仕方だろうが、陸上の知識に乏しい僕はさっぱりと分からなかった。分かったのは、陸上部のユニホームは少し、目をどこに当てればいいか迷うということだった。
「君の名前は?」
「あなたの名前は?」
会話が成り立っていない。人の名前を聞く前にまず、自分の名前を名乗れということなのか。彼女は見ると別に、機嫌が悪い顔はしていないが僕を明らかに待っている。
「僕は宮城結城。三年生だ」
「私は篠原空希。同じく、三年生よ」
同じ学年か。僕は彼女を知らないから違うクラスということになる。
「ねぇ、それでさ。私の跳び方のどこがおかしかった?」
「え?」
「だからさ、私の跳び方のどこがおかしかったのか聞いているの。昨日も、あなたこの木の下にいたでしょ。今日と昨日で私の跳び方のどこが変わった? 昨日見たいに全然、飛べないのよ」
彼女は悔しそうに高くそびえるバーを見つめている。飛ぶか…… 確かに昨日の彼女は空を飛んでいたな。
「踏み切るのが遅かったよ」
「踏み切りね…… なるほど。ということは助走の距離を短くいや、棒を構えるタイミングを……」
僕の言葉に彼女自身思い当たることがあったのか、彼女は何かブツブツと呟やき始めた。僕の耳には呪文にしか聞こえなかったが、彼女はパシと手を叩くと再び彼女はグランドへと駆けて行った。バーの正面に立つと、彼女はこちらを向き、手を高く振って来る。どうやら、僕は彼女に臨時コーチとなってしまったらしい。
コンコンと靴を地面に当てる。足を前後に、アキレス腱を伸ばす。手をぶらぶらしながら軽く飛ぶ。素人と目から見ても、彼女の跳び方にはバネのあると分かった。手を滑り止めで真っ白に染めると、彼女は自分のバネを最大限に生かす長い棒を手に取った。スタートラインに立ち、一息つくと棒を顔の横辺りに構える。二度三度、体全体を前後させタイミングを計り、彼女は飛び出した。
傍から見れば、飛ぶまでの時間は数秒。けれど、その数秒に棒高跳びの選手は自分の全てを出し切る。タッ、タッ、という小刻みに彼女が地を蹴る音が聞こえてくるのを感じてすぐ、ガシッという力強い音がした。ボックスに支えられた棒が彼女の全ての力を受け止める。ギシギシという今にも折れそうなぐらい棒がしなり、彼女の体は今にも地につきそうだ。棒が跳ね、勢いよく彼女の体が空へと舞い上がり、彼女は飛んだ。バーに近くなるにつれ彼女は空を見ながら弧を描き、バーを越える。バーと彼女の体の間は僕の手が入るかどうかというぐらいしかない。けれど、彼女は体を反らしながらバーをうまくかいくぐった。バーを越えた彼女の体は地球の重力に従って落ちていく。ボスッとマットの乾いた音がする。
「飛んだ……」
彼女は跳んだのではなく、飛んだ。
「よっしゃー!」
彼女は、今度は男にも負けない歓喜の声を上げると、先程までいた空に向かって拳を突き上げた。
彼女はこの瞬間、僕にとって一番空に近い存在となったのは確かだ。その証拠に、僕の右手にはいつの間にか鉛筆が握られていた。