彼女の存在
「じゃ、いってきます」
学校に行くために再び僕は玄関を出た。今度は運動靴ではなく、学校によって支給された靴を履いている。時刻は七時四十分―― バスの出発時間まであと五分だった。外は先程とは一変し、どんよりとした雲に覆われて今にも雨が降りそうな雰囲気だ。
「結城、傘持っていきなさいよ!」
二階の窓からからお母さんの声が聞こえてくる。お母さんは忙しそうに掃除をしていた。僕は玄関前に立て掛けてあった傘を目では確認したが、持たずに出た。お母さんの言いなりになるのが嫌だったのか、僕の小さな反抗だ。
バス停には僕と同じ学校の制服を着た生徒たちが毎朝並ぶ。バスを待つなか、友達としゃべったり、音楽を聞いたりしている。僕はそんな彼らにある共通点を見つけた。みんなスマフォを手に持っているということだ。一歩引いて見てみたら奇妙な光景だ。この光景を絵にしてみようか? とふと思ったがすぐに断念した。頭の中で構図を考えて見たものの『スマフォ歩き禁止!』などを書いたただのポスター絵にしかならないと思ったからだ。
―― コンクールの絵、どうしようか……
それは、学校が近づくほど強く感じる。この悩みのせいで最近、僕は下ばかり見ているような気がする。
プップー 、キー 、プシュー
学校行きのバスがバス停に到着する。前から順番にバスの中へと乗り込んでいく。その流れに身を任せ僕もバスに乗り込んだ。そして、適当に空いている窓際の席に何気なく座った。
人の絵か。僕が人に芸術性を感じるときが来るのだろうか? 昨日だって結局……
と昨日の放課後の光景を思い出す。
―― 夕日によって照らされた空、そのなかに飛び立つ彼女。
そんな光景が僕の頭に浮かんだ。昨日の記憶に、人が出てきたことに自分でも驚いた。
―― なんで、彼女が出てくるのだ? 僕は昨日空を見ていたはず……
自分の狂った感覚に不思議に思いながらも、頭の片隅には昨日の彼女の光景があるのは事実だった。彼女にいや、人に芸術を感じたのだろうか?
「す、すいません! そのバス乗ります!」
バスが出発しようとしたとき、一人の生徒が駆け込みで入ってきた。
プッ、プシュー、プッ、プー
駆け込みの生徒を乗せバスは学校へと出発した。学生が利用する学生バスではこのようなことは日常茶飯事であるから、誰も見向きはしないがその時は少し違った。
「ねぇ、あの娘って……」
「あぁ……」
周りがざわざわと騒ぎだす。僕は、いつもと違うバスの雰囲気を感じ、駆け込んできた生徒を見た。
—— か、彼女は、確か昨日の……
駆け込んできた彼女は、周りの様子なんか気にも止めずバスの中をさっそうと歩いていきた。そして、彼女は僕の席で立ち止まった。
「あのーここ空いていますか?」
彼女は僕の席の隣を指で差している。僕の隣の席は、偶然にも空いていた。僕は断る理由もなく、軽く頭を下げ返事をした。そして、すぐに窓の方を向く。彼女は僕の返事を待ってから席に座った。バスは、彼女が座るのを確認すると再び動き出した。それと同時に周りの生徒たちもスマートフォンを触りだした。
ハァ、ハァ、と乱れた息づかいが僕の耳に聞こえてくる。駆け込んできたのだから当然と言えば当然なのだが……
彼女はバッグをガサガサと探り、中から音楽プレイヤーを取り出しイヤホンを耳にあて音楽を聞き始めた。チラッと横目で彼女を見る。昨日結んでいた髪の毛を今日は背中辺りまで下ろしている。走って来たというのに乱れを感じない清潔さを持ちながらも存在感がある金髪。その目を見れば誰もが引き込まれてしまいそうな魅惑的な目。そして陸上をやっているとは思えない雪のように色白とした肌。確かに、この子は女性を知らない僕からも見ても魅力的な女性かもしれない。しかし、空よりも魅力的とは思わない。けれど、あの時僕は彼女を見ていた。
矛盾だ……
僕は心中複雑のままどんよりと曇った雲をバスの窓越しに見上げていた。
プップー、キー、プシュー
『こちら、学園前バス停、学園前バス停』
バスが学校前に止まり、生徒たちはゾロゾロと席を立ち学校に向かう。彼女も席を立ち、列の後ろに並んだ。僕も彼女に続き生徒達の列に入った。
下駄箱に下靴を閉まっていると
「結城、おはよ!」
僕の頭をポンと叩いてくる一人の生徒。僕はその行為になんの嫌気を感じることなく、隣にいるセーラー服姿の女の子に挨拶を返した。この女の子の名前は新里 実咲 (にいざとみさき)。同じ学校に通うクラスメイトで、しかも同じ美術部に所属している。性別は女の子。こんな女の気がない僕が唯一、下の名前で呼んでいるでもある。まぁ、もうかれこれ十八年の付き合いになるのだからよそよそしく『さん』付けの呼び方もおかしいというものだ。
美咲は少し背を伸ばしながら脱いだ靴を片付けている。足が不安定なのか上体がフラフラと不安定だ。その度に首元まで伸ばした髪の毛がユラユラと揺れる。髪が揺れる度に僕の鼻に女の子特有のシャンプーの匂いが付く。僕は美咲が靴を片付けるのを見てから美咲と歩き出した。
「ねぇ、結城。コンクールの絵書けたの?」
美咲が黒ぶちの眼鏡からまんまるとした目をガラス越しにのぞかせてくる。チワワのように人なつっこい目をしているのに朝から痛いとこを突いてくる幼なじみだ。
「まぁ…… ある程度 」
実咲の質問をかわすかのように顔を逸らす。
「あ、顔逸らした! まだ、全然できてないのでしょ!」
—— ハァ…… まったくもってなんで実咲にはどうして僕の嘘が通じないのか
その眼鏡には嘘発見機でもついているのかと思うぐらい僕の嘘は美咲には通じない。これも幼なじみがなせる技なのか? それはないか。なぜなら、僕は美咲の嘘が全くもって見破れないからだ。
「あぁ…… まだだよ! 人を描くなんて僕には無理だ!」
「また、そんな強情なこと言って! 最後のコンクールなのだからやる気出しなさいよ!」
朝から、多くの生徒たちが行き交う廊下でにらみ会う僕と実咲。何人かの生徒が何事かと目を向けてくる。
「はい、そこまで!」
パンと手を叩く音が聞こえた。その音で僕と実咲はにらみ合いを止めた。
「ハァ…… 朝練はどうしたのだ。貴己?」
「しっかりとしてきたよ。最後の夏の大会が控えているからな」
僕と実咲を止めたこの男子の名前は 南矢代 貴己実咲と同じく昔からの付き合いで同じくクラスメイトだ。ただ、この男は超絶にモテル。サッカー部のキャプテンで爽やか系男子を彷彿とさせるルックス、おまけに高身長だ。さらに勉強もできるときた…… もう非の打ち所がない。バレンタインでは校門の前で出待ちまで現れる始末だ。
「結城も少しは見習いなさい! この部活への情熱を!」
美咲が貴己を指で指しながらまた僕にうるさく言ってくる。
「あぁー、もう分かったよ! 描いてみせますよ、部長さん!」
そう、いい忘れていたが実咲は美術部の部長である。絵の腕前に関しては数々のコンクールで賞を取るほどの腕前だ。サッカー部の男前と美術部の部長に挟まれた幼なじみはとても肩身が狭い。
「楽しみにしとくわ。美術部の部長としてね!」
美咲は、部長というと機嫌悪くなる。本人曰く、柄でないため恥ずかしいらしい。再びにらみ合いを始める二人に貴己は能天気に
「お前ら、本当に仲がいいな!」
と笑顔で言うのだから貴己は少しずれていると思う。
廊下をまっすぐに進み二回へと続く階段を上り左に行くと三年生の教室がある。僕らは二つ目の教室の二組だ。ガラッとドアを開ける。もう、見慣れた風景に何も思うことはない。僕は自分の特等席の窓際に座ると、外からまた空を見上げた。