僕の朝
ジー、ジッ、ジッ、
「うーん……」
朝から、僕を夢の中から起こそうと目覚まし時計が音を立てながら僕の部屋に鳴り響く。僕はもぞもぞと直ぐには布団から出ず、手探りで目覚まし時計を探す。何回か外した後、ポンと目覚ましを止めた。
「ふぁー、眠い。もう、朝か?」
時間を確かめようと目覚まし時計を見るが、ぼやっとして見えない。
「あ、そうだ。メガネ掛けてなかった」
普段はコンタクトだが、家では眼鏡を掛けている。遺伝のせいか目はあまりよくない。そこらに落ちているはずメガネを手探りで探す。すると、コツンとメガネのフレームらしき感触を感じる。
「お、あった」
メガネを掛け、もう一度目覚まし時計を見る。
「え、えーと。ご、五時…… じゅ…… やばい!!」
急いで布団から抜け出し、すぐに着替えられるようにと用意したジャージに着替える。時間は朝の五時十五分を示していた。もちろん、学校に遅れそうになっているわけではない。僕は階段をまだ、寝ているだろう家族を起こさないように、静かに降りつつも足早に降りて行った。運動用の靴に履き替え、まだ靄が残る外へと駆け出して行った。
「間に合えよ!」
僕は家の近くの小高い丘を目指した。その丘は僕の家から三百メートル先にある。春先になるとその丘には桜が咲き乱れ多くの花見客であふれるが、僕はそんなものに興味はない。まだ体が起きてないのか、自分が思うよりも足が遅れて前に出てくる。僕はそんな足に拳を打ち込むと再び走り出した。足が起きたのか、自分の感覚と体が合ってくる。足スピードが上がり、呼吸が乱れてくる。僕はなにふり構わず、さらにスピードを上げた。呼吸が激しく、スッ、ハアッ、スッ、ハアッ、と乱れる。その呼吸の負担に耐えかねて肺がキュッと苦しくなったが構わなかった。
―― 早くあの丘へ
その思いが僕を突き動かした。新聞配達のおじいちゃんが何か話かけてきたが自分の呼吸音によって耳には届きはしなかった。
ハァ、ハァ、ハァ、
丘の上り坂が見えた。僕は目で確認すると、足を更に前に出した。僕の心がざわつく。
―― あともう少しだ!
周りの木々がざわめき、鳥のさえずりが清々しい朝を知らせている。いい雰囲気だ。けれど、僕にとってはただの前座だ。僕は目もくれず、ただ頂上を目指した。
―― あともう少しで…… あの場所に!
木のトンネルの出口が見えてきた。朝日の光だろうか一筋の光が射し込んでいる。いつも通り、いい時間だ。
「つ、着いた……!」
膝に手をつき、呼吸を整えようとするがなかなか思うようにはいかない。当たり前だ。今、僕は興奮している。心臓が僕の興奮に共感してドクドクと激しく脈をうつ。心臓がもう僕の中から飛び出そうだ。僕の目の前にあるのは空だけ。電線、建物、人工物が邪魔をする日常ではありえない光景だ。空を色付かせる朝の太陽の光が雲の隙間からほのかに漏れだしている。僕の周りの朝露も光に導かれるように輝きを増し、僕の世界は一変した。
―― ここは、本当に現実なのだろうか……
僕はいつもこの光景を見る度に本当にそうではないかと思う。
「やっぱり、空は芸術的だ!」
空全体を見るために仰向けになった。朝露によって体がひんやりとしたが気にしない。僕の目が余すことなく空になる。僕の目がこの光景を焼き付けようと何回もパシャ、パシャとシャッターを切る。
「・・・・・・」
何も言葉が出てこない。この光景に言葉なんて、不要なのだろう。とてもではないが、この光景を言葉になんて表すことができない。僕は目をつぶり、今度は肌でこの光景を感じた。
あぁ、このままでいたい。
ここに来る度そう思う。しかし、それは叶わぬ願いだ。カチッという音とともに腕時計がピッ、ピッ、ピッ、と僕の願いをかき消すかのように鳴り始めた。
「もう、こんな時間か」
この腕に付けた時計は朝六時三十分になるとアラームが鳴るようにセットされてあるのだ。このアラームはもちろん僕がセットしたものではない。それでもこのアラームは絶対に守らなくてはならない。
空を見るためにも……
僕は体を起こし、体全体についた草などを手で払い落す。今になって朝露を含んだ服が冷たく感じて少し寒気を覚える。僕は丘を下りる前にもう一度、名残惜しく空を見た。そのときの空には厚みがかったどんよりとした雲一つできていた。
「ただいま」
ガチャと玄関を開け、玄関に置いてある椅子に腰かけ靴の紐を解いていると――
「結城! 今もう何時だと思っているの!!」
怒気を含んだ声が僕の後ろからした。思わず、僕は体をビクッとさせてしまう。僕は恐る恐る、後ろを振り返る。振りかえると、鬼の形相で僕を見るお母さんがいた。
「七時十分です。お母さん……」
僕は萎縮して声がボソボソとしかでてこない。
「私は、なんのためにあなたにこの時計を与えたと思っているの!」
お母さんの第一声はいつものこれだ。時計を与えたのがそんなに偉いのか?
「だから…… こうしてアラーム鳴った時間に帰ってきているでは、ありませんか!」
「私はそのアラームが鳴る前に帰ってこいって言ったはずよ!!」
僕はお母さんの言葉に目を見開いた。前は確かに、このアラームが鳴ってからと言っていたからだ。そもそも、そのように譲歩してもらうように頼んだのは、僕だから忘れるはずがない。
「お母さん、それでは約束が違います!」
「何? お母さんに逆らうつもり!?」
キッと僕を睨みつけるお母さん。僕は、その目が嫌いだ。自分が全部正しいと僕に押し付ける。親が正しいのだと誰が作ったルールかも分からないものに強制的に従わせる目が……
「いえ、まったくもってそんなつもりでは……」
僕は弱い。ただギュット唇を噛みしめ泣くことを我慢することしか、お母さんの前ではできない。
「大体、あなたは……」
お母さんがまだ説教を続けようとしたとき、
「やめんか、二人とも! 朝から玄関で何をペチャクチャしとるんじゃ!」
先程のお母さんよりでかい声が、居間から聞こえてきた。この声はおじいちゃんだ。おじいちゃんはつたない足で玄関まで出てきた。おじいちゃんは怒っているよりも呆れ顔をしていた。
「いや、でもお祖父さん。結城がね…… 約束を破ったのですよ!」
お母さんがおじいちゃんにも怒ってもらおうと僕の怒られている理由を話す。
「そうじゃな、それは結城が悪い。でもな清子さん、あなたも約束破っとる。昨日、おいしい鮭を食べさしてくれると清子さんが言ったのにわしの鮭が丸焦げじゃ!」
そう言って台所を指差すおじいちゃん。確かに、台所からは焦げ臭い匂いがしてくる。
「あら、嫌だ。私ったら…… どうもすみません。また焼き直しますね。 早く、結城あなたも学校行く準備をしなさい!」
お母さんは台所へと消えていった。僕は緊張が解け、その場にペタっと崩れ落ちた。
「おじいちゃん、ありがとう!」
「あぁ、構わんよ。結城も早く学校に行く準備をしなさい」
そう言って、再びおじいちゃんはまた足を引きずりながら居間に戻って行った。おじいちゃんは昔、世界を飛び回る写真家だったらしい。小さい頃、世界の空の写真を見せてもらったことがある。空に出会えたのもおじいちゃんのおかげだ。でも、おじいちゃんは今、家から出られない。五年前に患った心臓病がまだ治らないのだ。医者からは絶対安静だと言われている。だから、僕はいつか世界の空を写実しておじいちゃんに見せてあげたいと密かに思っている。
「結城、早く朝ごはんを食べなさい!」
またビクッと体を震わせてしまった。僕のこのお母さんに対する気持ちが拭える日は来るのだろうか。僕は重たい鉛となった足をズルズルと引きずりながら台所へ向かった。