淡い僕の思い出
僕は昔から絵を描くことが好きだった。この事実は今も変わらない。もし今と変わった点を上げるであれば、それは空を描くことよりも人を描くことの方が好きだったということだろう。
「お父さん、また絵を描いた!」
僕がお父さんに描いた絵を見せる。クレヨンで描いた絵で、構図もバラバラ、棒人間のような体付きに、顔だけがやたら大きな人が三人並んでいた。まだ五歳児だということを踏まえると並の絵かもしれなかったが、上手ではなかった。
「おっ! ゆう、よく描けているぞ! お父さんも負けられないな。もう少しでこの絵、描き終わるから少し待っていてくれ」
「うん!」
僕のお父さんは上手ではない僕の絵を僕が見せる度に笑顔で褒めてくれた。僕はそれが嬉しくて、僕は毎日のように絵を描いてお父さんに見せていた。
僕のお父さんは画家だった。おじいちゃんが撮って来た写真を絵として残すことや、自分の想像の中で描いた世界をキャンバスの上に描いたりと、まぁ、絵を描くことを仕事としていた。僕はそんなお父さんの描く姿を見ることが好きだった。もちろん、お父さんの絵も好きだったが、真っ白なキャンバスが、お父さんが一筆入れるごとに変わっていく様子は、曇天の雲が一気に晴れ空に虹がかかったような、神秘的で奇跡的なことにさえ思えた。
「ゆう、まだ終わらないからあっち行って遊んできたらどうだ?」
「いい! 僕、お父さんの絵、見るのが好き!」
「そっか。なら、しっかり見といてくれ」
「うん!」
僕は子供がヒーローに憧れてかじりつくようにテレビを見るように、僕はお父さんが描く姿をかじりついて見た。僕のヒーローはお父さんだった。
「ゆう、すごいじゃないか! 地区のコンクールに学校の学年の中から選ばれるなんて!」
「別にすごくないよ。地区のコンクールだから学年の三分の一は選ばれるんだ」
僕はお父さんの絵を毎日見ていたおかげもおあり、僕は日々着実に絵を上手に描けるようになった。そして、小学生三年生のとき僕の絵が初めてコンクールに展示されることとなった。
「それだって、十分すごいさ! ね、母さん」
「そうね。今度の休みの日に家族みんなで見に行きましょう」
お母さんが夕食を机の上に並べながら、笑顔で僕に言った。
「い、いいよ。恥ずかしから…… 」
「何言っているんだ。見に行くぞ! で、なんの絵を描いたんだ?」
「…… 家族みんなで去年行ったお花見の絵だよ…… 」
縮こまりながらボソボソとお父さんとお母さんの顔を見ながら話した。少し親離れが進んだ年頃だった僕にとっては少し恥ずかしかった。二人には話さなかったが今回の絵のテーマとして先生から出された課題は『今年、一番の思い出』。クラスの友達のみんなは、クラブでの活動のこと、友達ことと案外、親との思い出についての絵は少なかった。そんなクラス環境もあって、親との思い出について描くには抵抗がないではなかった。一度は描く課題を変えようと思ったが、僕はそのまま描いた。それは僕のヒーローであるお父さんの口癖のように言っていた言葉があるからだ。
―― ゆう、絵を上手く描くには、見たままを自分が思ったままを表すことが一番大事なんだ。
…… 見たまま、思ったまま?
―― そうだ。絵に嘘は付けない。これは絶対だ。どれだけ絵を上手に描いたとしてもどれだけ色彩豊かに絵を鮮やかにしてもそれは嘘にしかならない。
…… うーん。よく分からないよ、お父さん
―― 分からなくていいんだ。ゆうはそのままで居ろよ。
…… うん!
この時、半ば勢いで返事をした。『絵を描くときは嘘を付いてはいけない』、子供もがいい子でいなさいと親に言い聞かされるかのように、僕はこの言葉をお父さんから言い聞かされた。僕は絵を描く前にはこの言葉をいつも自分の中で思い返しては、描き続けた。そして、月日は流れ、僕は六年生になった。この時もまだもちろん、僕は変わらず絵を描いていた。ボチボチと全国の小学生のコンクールで賞を取るなど、僕は順調にお父さんに近づきつつあったが、近頃は僕がお父さんの描く姿を見ることは極度に減った。
「お母さん、お父さんの部屋に入りたいんだけど……」
僕がそう言っても、お母さんは、「ダメよ。お父さんはね、大事な仕事中なの」という一点張りで、僕をお父さんの部屋に入れさせてはくれなかった。けれど、僕はどうしてもお父さんの描く姿が見たくて、お母さんが寝静まったのを見計らい深夜にお父さんの部屋に忍び込んだ。
「お、お父さーん…… 居る?」
「誰だ!」
静かな野太い声が、人が起きているはずなのに寝静まった部屋よりも静かな部屋に響き渡る。
「ひぃ! ご、ごめんなさい!」
僕は猛獣に吠えられたかと思い、身を縮めた。
「その声はゆう、か?」
薄暗かった部屋にパッと蛍光灯が光る。猛獣のようだった声が僕の知っている声だと分かると、僕はホッと胸を撫でおろした。
「そうだよー」
僕は静かに返事え返す。
「そうか。奥まで来ていいぞ」
お父さんに呼ばれて心がピョンと跳ねる。お父さんが居る奥まで足場を探しながらゆっくりと、歩いていく。下には画材道具やクシャクシャに丸められた紙が無造作に落ちていたからだ。
「どうしたんだ、ゆう? こんな時間に……」
生活感が見られないような部屋の奥に、僕はお父さんを見つけた。気持ちとしては、宝探しの宝箱を見つけた気分だ。
「お父さんの描いている姿が見たくてき、来ちゃった」
「お母さんには内緒だぞ」
「う、うん!」
この時、お父さんの描く姿が見えられるのという喜びと、お父さんがひどく痩せている姿の驚きが僕の中でせめぎ合った。顎に伸びた髭はオシャレとは程遠く、雑草のように生え揃い、口元からは微かにお酒の臭いがした。僕の記憶ではお父さんは確か、お酒を飲んではいなかった。
「今、お父さんは何を描いているの?」
僕がお父さんの後ろを覗くと、そこには、今にも丸められた紙で埋め尽くされそうな新品の真っ白なキャンバスが置いてあるだけだった。
「あぁーまだ描いてないんだよ。二日前ぐらいに、絵を持って行って貰ったから、今はまぁ、なんだ、休憩だ、休憩―!」
「そ、そうなんだ。休憩も大事だよね! 僕もお父さんには健康で居てもらいたいし!」
僕はいつも以上に元気に振る舞う。お父さんの描く姿が久しぶりに見られなくて残念だったが、お父さんに無理はさせたくない。
「ゆうは優しい子だ。そうだ! お父さんが特別にゆうに絵の描き方を教えて上げよう!」
「えっ! いいの!」
「あぁ、いいぞ! お父さんも久しぶりにゆうの絵が見たいからな。ほら、ここに座れ」
「うん!」
たった一時間ちょっとの時間だったが、夢のような時間だった。お父さんに絵を教えてもらっている間、僕はお父さんにいろんな話をした。最近、コンクールで賞を取ったこととか、最近、ピーマンが食べられるようになったこととか、もう何でもお父さんに僕の話を聞いてほしくてたくさん話をした。
そっか、そっか。
お父さんはそうやって時折、頷いては僕の話をやさしく微笑みながら聞いてくれた。
―― こんな時間が永遠に続けばいいのに……
僕はその日の寝る前に、さっきまでの時間の余韻に浸るかのように呟いた。そして、僕はまたいつ忍び込もうかと、約束もされていない一方通行の予定を僕の中の予定表に書き込むのだった。忍び込めば、またお父さんとのあの幸せな時間が過ごせるという淡い思いを抱いて、僕はその日の眠りに付いた。




