こい?
いつもよりも右手に重みを感じながら、僕は昼間よりも暗くなった学校の廊下を歩いていた。コツコツと小刻みに僕の足音が廊下に反響していくなかで、僕は美咲にどう伝えるべきかそのことで頭が一杯だった。
正直に言うべきか……
そう思い顔を上げるが、この思いが頭に浮かんでは薄い雲が風に煽られたかのように僕の中で飛散していく。しかし、またすぐに消えた思われた僕の思いは胸ポケットにしまった小さな鉛筆によって僕の中で雲を描きだしていく。
―― 結城、いつか…… もし、また結城が絵を描くなら、そのときは私を描いて!
はっきりと覚えている美咲と約束した言葉だ。そのとき、僕はどんな気持ちでその言葉に返事をしたのかまでは覚えてはいない。けれど、僕がまだ絵を描き続けているということはそういうことなのだろう。
ハァ……
思わず、ため息をついてしまう。僕はまだ人を描けない。人は芸術欲が湧かないから描けないとかそんなレベルの話の描けないではない。そんなのは僕が自分自身からそして、他人から人から逃れる建前にすぎない。
一度、大会前に本気で人を描こうと思った。けれど、いざ描こうとキャンバスの前に立つと体全身が突然、震え始めた。寒かった…… けれど、その時はまだ四月の春だ。頭が真っ白だった…… 手元には下書きで描いた絵が転がっている。人を描いたことがなかった…… そんなことはない、人体模写なんて美術に関わっていたら嫌でも描く。
―― なら、僕はどうして人を描けない?
自分の問いに答えられない。人を描こうと思い鉛筆を持つと何をどう描けばいいのか分からなくなる。いつも見慣れているはずのキャンバスもがいつもより大きく感じ、キャンバスの圧迫に僕の心臓がキュッと絞めつけられる。怖い。逃げ出したい…… 負の感情が僕を渦の中に巻き込んでいく。
ドクン、ドクン、ドクッ……!
胸の辺りを制服の上からグシャッと握り、乱れかけた鼓動を抑え込む。落ちつけ、空を見よう。僕は渡り廊下から僕の好きな空が見上げられる場所へとすがる思いで向かった。渡り廊下に一つ転がった椅子に転がり込むように腰を落とす。背持たれなどない木で出来た簡易な椅子だが僕、一人座るには十分だ。人目を気にするように周りを見渡す。
しばらく地面と睨めっこ。カチコチカチコチと僕の右手の時計の針が動いているが、今日は気にする必要はないだろう。今は何も考えたくない…… 人も、絵も…… 忘れよう…… 忘れて空を見ればまた、いつもの僕だ……
「結城ィ!」
大きく弾んだ声が僕の耳を突き抜けていく。僕はその声に驚き、顔を上げ辺りを見渡す。二度三度辺りを見渡して、そこに居たのは制服姿に身を包み、髪を下した空希だった。空希は僕が自分を見つけたことを確認すると、早歩きで僕の元へと駆け寄ってきた。
「何しているの? 結城がこの時間にまだ学校に残っているの、初めて見たわ!」
少し興奮気味でいつもよりも早口で言葉を並べた今の彼女には、清楚…… この言葉が一番当てはまるかもしれない。いつも部活では束ねている金髪も広がることによって、落ち着いた雰囲気を彼女に付与し、しっかりと規律に従った制服の風貌から優等生というのを感じる。
「今日はちょっと、先生に呼ばれていたから残っていただけだよ。君はいつもこの時間なの?」
僕はいつもの口調で彼女と会話した。
「私はいつもこの時間だよ。これでも一応、部長だからね。後始末とか、部日記、先生に今日の練習の報告…… とかまぁ、雑用をしてから帰らないといけないからどうしてもこの時間滞になっちゃうのよ」
「大変なんだね」
僕にとっては気を使った言葉だったが僕の言葉を聞いた空希は苦虫を噛み潰したような表情で僕を見た。
「―― ったく、他人事見たいに言っちゃって。どうせ、美咲に全部任せているのでしょ。あの子、結城の前じゃ分からないけど、周りからしっかりしているように見えていても美咲自身無茶しているときがあるから、気を付けてあげないとだめよ」
『美咲が真っ赤に目を腫らしていたぞ』
西園寺先生から聞いた美咲だ。美咲は泣いていた。僕の前では、見せない表情だ。空希にも美咲は僕が知らない表情を見せているのだろうか。
「…… 気を付けるよ。君は美咲のことよく分かっているんだね。僕の方が長い間、美咲の隣に居るのに君は僕が知らない美咲を知っている。僕にはそんな素振り全然見せてくれなくて……」
パチン!
―― っつ!
僕の額に、ジンとした痛みが広がる。その痛みに思わず、額を手で抑える。
デコピン? 空希がやったのか?
「結城は女心が何もわかってない!」
―― え、どういうこと?
空希の言葉を聞いて、僕は額の痛みを忘れて間髪入れず思わず聞いてしまった。女心? それが美咲と僕にどんな関係があるんだ?
「何がおかいしんだよ!」
僕の目の前で空希が笑い出していた。僕自身、彼女の言葉の真意が分からず、なぜ笑っているのかも分からなかった。そしていつものいたずらされた感覚とは違う単純に馬鹿にされたという感覚が彼女の笑いから感じ取れた。
「結城ってさ、恋したことないでしょ?」
こい…… 恋?




