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38.周回軌道(西暦二一八五年九月一三日酸欠一五時間前)

「標高ゼロメートル通過! カウントアップスタート。秒速は上向きに三○三メートル、南北方向、東西方向誤差プラスマイナス三でゼロ」

 リュウイチはサンドスラスターの制御盤上の数値を大声で読み上げた。

「窓の外は明るくはなったけれど、まだ水中よ」

 繭の四方に設けた小さな窓を一つ一つ見て回ったカタリナが報告した。

「もう少しで水から出るはず。泡が見えるようになった言ってくれ。それから、もう一度命綱の長さとカタナの温度を確認してくれ」

「了解」

 各自2本の命綱はサンドスラスターにカラビナで固定されている。リュウイチが東側でカタリナが西側である。命綱は巻尺のように長さを変えることができ、今は六メートルに設定されている。カタナは人工ダイヤモンド製の直刀で、元々は凍結化学燃料を切断成形するためのものであるが、エウロパの氷を切るのにも使える。

「西側の窓に泡が見え始めたわ」

「二五秒経過。反対側の窓も確認してくれ」

 繭は水柱の中を海水とともに上昇している。バルバラの操作がうまくいっていれば、繭は水柱の東よりに配置され、比較的早い段階で水柱から東側に抜け出るはず。

「反対側はまだだわ」

「うーん、遅いな」

 水から出れば、そこで繭を割って切り離して、イオンエンジンを始動する予定である。イオンエンジンの噴射口から水が入ると、エンジンがショートして止まってしまうので、それだけは避けなければならない。

「西窓はクリア、水から抜けました!」

「よし!」

「南、北もほぼクリア!」

「四五秒経過!」

「東はまだです!」

「泡は?」

「泡はありません!」

「まずいな」

 イオンエンジンの始動があまりに遅れれば、周回軌道に乗れずエウロパに落下することになる。

「五五秒か。よし、プランBだ」

「えっ、プランB? そんなの聞いてないわ!」

 カタリナが焦った声を上げた。

「今、俺が考えたから、初めて聞くはずだ」

「何それ!」

 カタリナがまなじりを決した。

「大丈夫、絶対うまくいく!」

 リュウイチは半分自分に言い聞かせるつもりでそう言い切った。カタリナも自分も落ち着かなければならない。

「わかったわ」

「いいか、繭の西側半分は予定通りに切って捨てるんだ」

「それじゃ、イオンエンジンを始動した時にバランスが取れないわ」

 そう言いながらもカタリナは刀の昇温スイッチを入れた。温度が安定するのにしばらく時間がかかるからである。

「それは後で考える。今は、視界を確保して周りの状況をしっかり把握すべきだ。小さな窓だとどうしてもよくわからない。考えるのはその後だ」

「了解。西側切ります!」

 カタリナが熱した刀を繭の先端に突き立てた、そこから縦に刃をゆっくりと進める。厚さ二○センチの氷壁がやすやすと切られていく。縦に半分切った所で刃を抜いて、今度は横に切り、さらには元の先端へと刃を進めた。これで、繭の四分の一が切り取られたところである。

「やあっ!」

 カタリナが気合十分のキックを入れると、縦二・五メートル、横二メートル、厚さ二○センチの殻がずりずりと動き、ゆっくりゆっくりとはがれていく。

「いいぞ、カタリナ!」

 リュウイチは思わず声をかけた。殻がなくなり、向こう側がくっきりと見える。下側には丸みを帯びたエウロパの地平線が見え、かなりの高度になっていることがわかる。上側は、漆黒の闇を背景にして、無数の氷片が弱い太陽光を散乱している。そして、刀を掲げる女神のようなカタリナ。ほれぼれするような勇士である。

「下側もいくわよ」

 リュウイチが見とれている間に、カタリナが次の作業に移る。

「ああ、頼む」

 同じ要領でさらに四分の一が切り離され、繭は半分になった。リュウイチが切った端から反対側を覗き込むと、繭が水に浸かっているのがわかる。ようするに、リュウイチ達は半分になった繭という船に乗って川に浮かんでいるのである。普通と違うのは川面が水平でなく鉛直である点である。

「ぴったり九○秒だな。よし今度はこっちだ」

リュウイチはサンドスラスターを繭に固定している部分を刀で切り取っていく。残りを一気に切り離そうというのである。

「切り取ったぞ。カタリナ、命綱を縮めて、サンドスラスターに張り付くんだ。振り落とされないようにしろよ」

「了解、張り付いたわ!」

「よし、それじゃ姿勢制御スラスターをふかすぞ」

 繭を蹴ってもいいのだが、繭もサンドスラスターも自由運動をしているから、バランスが悪いと、切り離しがうまくいかず、回転してサンドスラスターが水の中にもぐってしまうこともあり得る。その点、姿勢制御スラスターは、サンドスラスターの重心を考えて配置されているから、回転はほぼ起きない。

 多段ロケットの切り離し、補助ロケットの切り離し、衛星を覆うフェアリングの分離。人工衛星打ち上げ黎明期のアクシデントの多くが切り離しに関連したものである。たかが、繭の切り離しと言っても馬鹿にしてはいけない。蹴り出すというのはかなり原始的な方法である。なによりもリュウイチは脚力に自信がないから、蹴るという選択はなかった。

「姿勢制御、三番、七番オン」

 圧縮気体が噴出し、繭からサンドスラスターがゆっくりと離れていく。すでに自由落下が始まっているが、サンドスラスターだけでなく繭も水柱も自由落下をしているから、姿勢制御の推力がなければ、相対位置は静止している。今、推力で変わるのは水平方向の距離、すなわち水柱に垂直な距離だけである。

「よし、水柱から少し離れたぞ。次は西を指定して、プレプログラムの一番を……」

 リュウイチはスイッチを押しかけて躊躇した。何か忘れていることがあるような気がしたのだ。

「どうしたの?」

 カタリナが不自然な間に問いかける。

 だが、リュウイチにゆっくり思い起こすほど時間に余裕はない。彼は、思い出すことをやめた。

「いや、なんでもない。オンだ」

 あらかじめ決めておいたシーケンスに従って、姿勢制御スラスターが作動し、サンドスラスターが回転し始める。うまくいけば西に六二度回転した姿勢、すなわち、仰角二八度で停止するはずである。

「止まった、仰角は二九度。一応、許容誤差範囲内だ」

カウントアップは一二○秒。推力始動時刻の許容限度は一三○秒だから、ギリギリである。リュウイチはすぐさまイオンエンジンを始動した。

「イオンエンジン、始動するぞ。設定推力は定格の三五パーセント。振り落とされるなよ。三、二、一、噴射!」

「リュウイチ、三三パーセントまでだったんじゃなかった?」

 サンドスラスターの後端から明るい青白い炎が伸びる。その長さは一○メートル程。

「色々とギリギリだから、しょうがない」

 加速度がじわじわと上がっていく。

「大丈夫?」

 カタリナが心配しているのは、摩耗したメッシュ電極の破損である。それを防ぐために定格の三三パーセントまでに推力を抑えると決めたのはリュウイチであるが、今はリュウイチ自身がその制限を破っている。

「大丈夫、まかせておけって」

 リュウイチに自信があるわけではないが、時には空元気ならぬ空自信も必要だ。

「推力三五パーセント、安定。よし!」

 リュウイチ達が張り付いているサンドスラスターがゆっくりと水柱から離れていく。計算上の加速度は○・○六Gである。水柱の直径はおよそ二キロメートル、周辺から少しずつ蒸発し、あるいは雪になり細っていくが、離れるに従って、その巨大さが実感できる。

「携帯GPSのスイッチを入れるわよ」

 カタリナが持ってきた数少ない荷物の中にエウロパ用の携帯GPSがある。電波の通じる今なら、精度が劣化していく慣性航法装置よりもずっと精度が出るはずである。

「了解、高度と対地速度を読み上げてくれ」

「はい。えーと、高度は三九キロ、鉛直速度が秒速マイナス三○メートルで落下中、水平速度が西に二○○メートル。落下速度が増えているみたい」

「まあそんなものだろう」

 時間に余裕があれば、あらかじめ計算したチャートと比較するのだが、今はそんな余裕はない。

「このままだと落ちる?」

「大丈夫だ。最初に落下するのは仕方ない。そのうち落下が止まり上昇に転ずるから心配しなくていいい」

 毎秒一キログラムの割合で燃料の氷を消費しているから、自重はどんどん軽くなる。それに、水平速度が増せば遠心力が効いてくる。両方の効果でエウロパの重力加速度よりも上向きの加速度が勝り、いつかは上昇に転ずるはずである。計算上は二○○秒後には落速度が最大になり、その後徐々に落下速度は減り、五○○秒後には上昇に転ずる。


「高度二九キロ、落下速度は秒速八○メートル。だいぶ増え方が鈍ってきたけれど、まだ落下速度は増えているわ。水平方向は秒速四○○メートルで、目標の秒速一五○○メートルの四分の一を超えたわ」

「計算上の最大落下スピードは秒速一○○メートルだ。もうそろそろ底を打つはずだ」

「だけど、目に見えて地上が近づいているわ」

 サンドスラスターは仰角二九度で飛んでおり、カタリナは下側にいるから、サンドスラスターにぶら下がった形である。もちろん、加速度は進行方向に働いているから、ぶら下がっているというのは正しい表現ではないが、背中側に地上が見える恐怖感はあるのだろう。反対にリュウイチには地上が見えずそういう恐怖感はない。もっとも制御盤の数字をじっとみているから、周りを見回す余裕はない。

「あれっ? 仰角が大きくなっているぞ」

 慣性航法用モニターが仰角三○度を示している。

「ちっ、姿勢制御プレプロ二番、方角は東西、角度マイナス二度でオン」

 リュウイチはじっと数値をにらんでいる。

「あれ? 一端、二八度まで戻ったけれど、またずれ始めている…… そうか、重心がずれているのか。重心は東、俺の方にずれているみたいだな」

「どうするの? 姿勢制御スラスターをずっと吹いているわけにはいかないのでしょう?」

 西側に張り付いているカタリナが心配そうに言った。

『こちらトライデント作戦本部、カールだ。そっちの位置を捉えたけれど、ちょっとまずいぞ』

 リュウイチの思考を邪魔するかのようにカールからの通信がインカムに割り込んでくる。

「カールか、今取り込み中だ、もう少し後、三分後に再コンタクトしてくれ」

『いや、しかし』

「いいから後にしてくれ!」

 今は、角度のずれが一番の問題だ。これを解決しない限り、周回軌道に乗れず、エウロパに落下する可能性があるから、他は後回しだ。

『わかった』

 カールが通信を切った。

「カタリナ、そっち側、西側に重心を移動させたい」

「どうやって?」

「うん、ちょっとばかり、カタリナに働いてもらう」

「わかったわ。何をすればいい?」

「サンドスラスターから少し離れてもらう。やり方は、まず、かがんで、つま先をサンドスラスター側面の取っ手に引っかける。次に命綱を足の少し前方にかけなおす。それから徐々に命綱を長くしながら立ち上がる。手は命綱に添えておけばいいだろう。サンドスラスターに対して垂直、すなわち進行方向に対して垂直に立てばいい」

 カタリナがサンドスラスターに張り付いている状態から垂直になれば、身長の半分ほどカタリナの体重が動いたことになる。イオンエンジンの推力の真上に重心がくれば、回転モーメントがなくなるはずである。ヨットで体を舷外に乗り出してバランスをとることを想像してもらえればいい。ただし、ヨットならば体の下には海があるが、彼女の場合は、頭の上に秒速一○○メートルほどで近づいてくるエウロパがある。

「た、立ったわよ」

 カタリナの声がわずかに震えている。

「よし、いいぞ、回転は止まったみたいだ」

 しばらくしてリュウイチが答えた。

「GPSの高度は、一八キロ、落下速度は秒速一○○メートル、少しずつ落下速度が減速しているわ」

 ようやく、重力に対して、推力と遠心力の和が上回ったのだ。

「大丈夫なの?」

「じっと我慢だ」

「わ、わかった」

 高度が急速に下がっていく。落下速度は徐々に減速しているが、落下が止まって上昇に転じる前にエウロパに衝突してはいけない。

「高度一五キロメートル、落下速度九○メートル」

 カタリナが感情を抑えて数値を読み上げる。


『こちら、トライデント作戦本部、カールだ』

「カールか待たせてすまなかった」

『そっちは周回軌道に乗れそうか』

「もうすぐ、約一○○秒後には成否がわかるさ」

『そうか、ならば、その後でもう一度連絡する。幸運を祈る』

「了解」

「高度九○○○メートル、落下速度は秒速八○メートル。水平速度は秒速九○○メートル」

「もう少しだ」

 エウロパ表面の地形がよく見える。

「高度七○○○、落下速度七○」

 氷のプレートとプレートがぶつかるところには大きな山脈が作られる。

「高度六○○○、落下速度六○」

 地平線の向こうまで続くリネア。

「高度五○○○、落下速度五○」

 内海まで達していると思われる池は、周りが風化して、長い年月存在していたことがわかる。

「高度四○○○、落下速度三五!」

 反対に新しい池は、亀裂に沿ってほんのわずかな水面を見せている。

「高度三○○○、落下速度二○!」

 一方向に筋のような模様を描く氷は風の存在を暗示している。

「高度二五○○、落下速度○!」

 もし、木が生えていれば、針葉樹か広葉樹かが区別できる距離である。

「よし! 底だ、これから上がるぞ」

「やったわ!」

「よくやったぞ、カタリナ! これで安心だ」


     *    *     *


 リュウイチは、サンドスラスターの制御盤に落としていた視線を上げて、ほっと息をついた。

「よし、これで予定していた燃料は消費したぞ。まだ燃料は残っているみたいだけれど、一端エンジンをオフにする。カタリナ、GPSの数値を読み上げてくれ」

「高度は一三キロメートル、上昇速度は秒速二○○メートル、水平速度は秒速一五○○メートル。周回軌道に乗ったのね」

「ああ、その通りだ。カールに知らせよう」

 リュウイチは通信回線を開いた。

「こちらサンドスラスター01、トライデント作戦本部どうぞ」

『こちらトライデント作戦本部。どうやら周回軌道に乗ったみたいだな。詳しい軌道はこちらで求めるから、わかったら報告する』

「で、何か問題があるのか?」

 リュウイチは不安の色を隠して尋ねた。

『ああ、リュウイチの軌道は逆行だ』

「逆行?」

『順行じゃないってことだ』

「あっ!」

 普通の惑星衛星は地球の北側から見ると反時計まわりに公転自転しているこれを順行という。

「そうか、どうもおかしいと思っていたんだが、すっかり失念していた」

 リュウイチには思い当たる節があった。元々、バルバラには水柱の東寄りに繭を配置してもらって、東側に水柱から離れる予定だった。実際には西側に配置され、西側に行くことになった。仰角もカタリナの側が下になるのではなくリュウイチが下側になるはずであった。それが逆になったのである。リュウイチ達は今、エウロパの東から西向きに飛んでいる。もっとも実際には南緯四八度のKE-I落下地点から出発しており、極軌道に近いから軌道傾斜角が一八〇に近いわけではない。ただ、救助船はリュウイチとランデブーするために、軌道を合わせなければならない。

「もしかして、救助船がランデブーできないとか」

『そのもしかしてが起きるかもしれない。こっちはこっちで検討するから待っていてくれ』


 救助船は、最初に順行しているパトリシアとサムの救命ポッドとランデブーしてから、リュウイチ達の軌道に移って救助する予定であるが、リュウイチの記憶が正しければ、パトリシア達の軌道とリュウイチ達の軌道はほぼ反転している。順行から逆行に軌道を変えるのは困難である。どのくらい困難かと言えば、時計回りのコマを反時計回りに変えるようなものである。周回軌道に二回乗せるようなもので、倍のエネルギーが必要である。まともにやろうとすれば、エウロパの重力圏から一端抜けてそこで反転することになり、時間も燃料も必要である。

「リュウイチ、まずいことになっているの?」

 じっと考え込んでいるリュウイチにカタリナが声をかけた。

「ああ、かなりまずそうだ」

「逆行だとまずいの」

「ああまずいな」

「どうまずいの? わかりやすく説明してよ」

「わかりやすくか…… そうだな、山で遭難したとする。山頂付近で路に迷って、救助隊が東の麓から捜索しはじめているとする」

「それで?」

「遭難した俺たちは、麓を目指して下山したんだけれど、向かったのが西側だったということ」

「ということは?」

「救助隊は山頂を超え、西側まで行かないといけない」

「まあ、それは大変ね。でも、私たちがもう一度山頂に引き返せば、少しは役に立つんじゃないかしら?」

「うん、それはそうなんだけれど」

 折角、周回軌道に乗ったのだから、地上に降りるわけにはいかない。第一、燃料がほとんど無い状態で地上に軟着陸できるはずはない。逆により高度の高い軌道に移ればいい。

「やらないよりはましか」

 リュウイチはそう呟いて、続けた。

「燃料はまだ残っていたよな。どのくらい残っているだろうか。ちょっとのぞいてみよう」

 リュウイチは命綱を伸ばしながら、そろそろとサンドスラスター先端の燃料投入口を覗いた。さっきまではそこに○・七トンの氷が詰められていたはずだが、計算上はそれをすべて使い切ったはずである。多少は誤差もあるから燃料が少々残っていてもおかしくない。

 果たして真っ白な氷が残っていた。

「残っているぞ」

 茶碗のような投入口の底に直径二○センチほどの塊が残っている。

「ホントだわ。真っ白ね」

 カタリナも覗きこんでいる。

「これは、エウロパの氷じゃないな。そうか、繭か、繭の一部がここには落ちたんだな。無いよりはましだけれど。二、三キログラムぐらいだな」

 先ほど使った七○○キログラムと比べれば無視していいぐらいである。

「どうするかな~」

 頭を悩ましたリュウイチは、決断を先送りにすることにした。


     *    *     *


 カールから連絡があったのは、一時間近く後のことである。すでに高度は最高値七○○キロメートルを記録し、現在は下がり始めた所である。

『こちらトライデント作戦本部、カールだ。軌道が同定できたぞ』

 逆行軌道に救助船をランデブーさせる計算をして遅くなったのだろうとリュウイチは予想した。

「軌道って、俺たちの軌道?」

『そうだ。周期七○五○秒、遠エウロパ点の高度は七○○キロメートルでさっき過ぎたばかりだろう。近エウロパ点の高度は四キロだ。かなり低いぞ』

「四キロは確かに低いけれど、問題はないんじゃないか? だって、ついさっきは二・五キロまで下がったんだぞ」

 高度が倍近いのだから何も心配することはないはずだとリュウイチは首をひねった。

『普通ならね。だけどリュウイチは運が悪いというか、今までの運が良すぎたのか、次の近エウロパ点の場所が問題なんだ』

「というと?」

『マッターホルンがある所なんだ』

「えっと、なんだったっけ? 聞いたことがあるぞ」

「標高九○○○メートルの山よ! 頂が崩れて私達を追いかけてきたあの氷山の本体よ」

 カタリナが口を挟んだ。

「なるほど、でも崩れたのなら低くなったってこと?」

「ほんのちょとは低くなったのでしょうけれど」

『そう、カタリナ言う通りだ。崩れたのは頂上の一○○メートル程。本体は無傷で残っている』

「つまり山に衝突する可能性が高いということ?」

『その通り! で、なんとかならないか?』

「なんとかならないかって言ったって…… 荷物を捨てて軽くした所で、自由運動をしていれば変わらないし。せいぜい荷物を蹴りだす?」

 カタリナの脚力を使っても加速は知れているだろう。リュウイチは顎に手をやろうとしてヘルメットに阻まれる。

『燃料は残っていないのか?』

「ほんのわずか。三キロぐらいかな?」

『よし、それだけあれば十分だ。一番高度の高い遠エウロパ点で水平方向に噴射してくれ」

「おい、カール。さっき、遠エウロパ点を過ぎたって言ってなかったっけ? こっちのGPSでも高度が下がり始めているから遠点を過ぎたのは確実だ。まさか、次の遠点まで待てというわけじゃないだろうな!」

 さすがに、命がかかっているから、カールのおとぼけを冗談で済ますわけにはいかない。かといって、怒ったところで、カールがなんとかしてくれるわけでもない。

『あっ、そうだった。少しタイミングが遅かったな』

 カールが頭を掻いている。どうやら天然らしい。

「で、今すぐ残り燃料で、噴射すればいいんだな」

『そう、その通り!』

「了解!」

 カールはすぐに制御盤を操作し始めた。

「カタリナ、姿勢を変えて加速するからしっかりつかまってくれ」

「さっきのように立たなくていいの?」

「ほんの数秒だろうから、そこまでしなくてもいい」


「三、二、一、イオンエンジン噴射! 設定推力は定格の三五パーセント」

 あっという間に燃料がなくなり、イオンエンジンの後端から噴き出ていた炎が消える。

「一秒以上は予定推力で運転できたと思うけれど。あとは待つだけだ」

 近エウロパ点まで三四○○秒。今度は山に激突する心配をしなければならない。残りの酸素は一四時間分。リュウイチは思わずため息をついた。


     *    *     *


「あれが、マッターホルンか」

「エウロパの南半球の霊峰と呼ばれているわ。もちろん、登った人間はいない。というかほとんどの山は未踏よ」

「なるほど、エウロパは処女峰ばかりというわけか」

「いつか、二人で登ってみる?」

 今は、二人ともサンドスラスターの上で身を寄せ合って進行方向を見つめていた。推力を出すときは、重心がずれないように二人がサンドスラスターの両側にいるようにしていたが、今は自由運動中だから、重心を気にしなくてもいい。

 空飛ぶ絨毯というにはいささか重厚であるが、二人は秒速一五○○キロメートルでほぼ水平に飛んでいる。

「高度は一一キロだから大丈夫そうね」

 進行方向の行く手には標高は九○○○メートルのマッターホルンがそびえたっている。これはプレートの衝突でできた山脈とは違って独立峰である。頂こそ尖っていたが、山体自体は大きい。エウロパの氷と同様に灰白色の氷山なのだが、浅い太陽光がくっきりとしたコントラストを山肌に刻み、険しい印象を与える。

「ああ、でも本当に避けられるのかな?」

 どんどん近づてくるのだが、山の方が高いようにも見える。

「だ、大丈夫よ、きっと」

 カタリナがリュウイチの腕をしっかりと抱きこんだ。

「そ、そうだね」

 リュウイチはカタリナの腰にまわした腕に力を入れた。

 そして、何事もなくマッターホルンの上を越えた。

「あっという間だな」

「そうね」

 初めてハードルを飛び越えた小学生のようなものである。超えてしまえば怖がっていたことさえすぐに忘れる。


 無事に周回軌道に乗った二人であるが、救助が来る前に酸素がつきるという最後の難関は越えられそうもなかった。

『というわけだ。なんとか打開策を考えるから待っていてくれ』

 カールの説明は、死の宣告とほとんど変わらなかった。パトリシア達の救助に向かった救助船は、電磁カタパルトの不調でギリギリの燃料しか積んでいなかった。リュウイチ達が順行軌道に乗っていれば話は違ったかもしれないが、すでに順行軌道に入りつつある救助船が軌道を修正するわけにはいかなかった。

 リュウイチは後悔していないわけではなかった。水柱から西側に出た時点で異常に気がついていれば、水柱を迂回して東側に出るという選択があったかもしれない。ただ、実際に迂回することができたかは疑問である。水柱の上を越えていくにしろ、左右に回り込むにしろ、相当の時間と燃料を消費したであろうから、周回軌道に乗れたかどうかは怪しい。

 あるいは、もし、リュウイチ達がもう数時間早く逆行軌道に入っていれば、救助船が先にリュウイチ達とランデブーして、パトリシア達の救助を後回しにする手もあった。さらに仮定すれば、リュウイチ達がもう数日分の酸素を持っていれば、イオからリュウイチ達のための救助船をもう一隻打ち出すことも考えられた。一つでももしがあればリュウイチ達は救われたかもしれなかった。

 リュウイチの残りの酸素をすべてカタリナの方へまわして、彼女をより長く生き延びさせる方法があったかもしれなかった。ただ、残りの酸素が一三時間となった今は、ほとんど無意味であろう。

 コールドスリープ程ではないが、寝れば、酸素の消費を少々抑えることができる。今のリュウイチに思いつくのはそのぐらいのことである。リュウイチは何度目かのため息をついた。

「さて、後は待つだけだ。寝るか?」

「一緒に寝る?」

 一緒に寝るというのは、交代で寝るかどうかという意味で他意はない。宇宙服を着たままであれば、変なことをするわけにもいかない。

「どうせ慣性で飛んでいるだけだし、一緒に寝るか」

 二人とサンドスラスターをつなげる命綱を少々短くするだけであるから、寝床を用意する必要もない。このまま酸素が尽きるまで寝ているのもいいかもしれない。

「もうずいぶん寝ていない気がする」

「そうね」

「取り敢えず寝よう」

「いいわ」

「おやすみ、カタリナ」

「おやすみ、リュウイチ」

 リュウイチは人生でもっとも充実したここ数日を思い返そうと思いながらも、睡魔には勝てず、あっという間に意識を手放した。


 サンドスラスターとリュウイチ達は音もなく、エウロパを巡った。一周約二時間。昼を抜け、夜を抜け、まるで、打ち捨てられた宇宙ゴミのように巡った。

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