36.舞い降りたドラゴン(西暦二一八五年九月一二日、インパクト一時間後)
エウロパの南半球へのKE-Iの落下と大穴の形成。穴から噴き出た水氷とブラックアステロイドとの衝突。二つのインパクトのうち、最初のファースト・インパクトは、エウロパに天変地異をもらたした。巨大氷震が引き起こされ、洪水が谷を埋め、氷津波が山を削った。と同時に、無数の氷の裂け目、クレバスができた。大きなクレバスの中には、内海までつながり、海水が染み出しているものもある。ラグランジェポイントL1から見れば、明瞭な黒い筋が何本も走っているのが分かる。巨大なポセイドンがトライデントでひっかいたかのようである。
そして、大穴近くには氷の弾丸が降った。最高高度二三〇キロメートルまで吹き上がった水は、拳大ほどの氷に成長し、エウロパの重力で氷の大地へと引き戻される。位置エネルギーは運動エネルギーに変換され、秒速五〇〇メートル程の氷の弾丸となった。氷の大地に無数の穴が穿たれ、氷片が舞い上がる。解放された運動エネルギーは最終的には熱に変換され、氷の一部は水に、水の一部は水蒸気になる。そしてそれらはエウロパの冷気で急速に冷やされて再び氷へと還っていく。造成された大小のクレバスも埋められたり、凍ったりして、急速に形を変え、風化していく。太陽系形成期ならば珍しくないイベントである。
そんな天変地異も、八〇〇キロメートル以上離れたリュウイチ達のいる辺りでの影響は小さい。雪混じりの霧となって視界を悪くした程度である。
エウロパ上空一二〇キロメートルで起きたセカンド・インパクトの影響はほとんどないと予測されていた。もちろん、直径二五キロの水氷の円柱を通過したブラックアステロイドは、わずかに減速された。だが、エウロパに天変地異を引きおこすとは考えられていなかった。精々、ブラックアステロイドが衝撃波を作り出すぐらいである。
最初に異変に気がついたのは、中央制御室でKE-I落下地点を見ていたアリスである。セカンド・インパクトから一時間が経過し、エウロパの天変地異も一段落を迎え、画像は落ち着いていた。
「あれ、端の方で何か動いたような……」
辺りを見回したアリスは、制御室の真ん中でうとうとしている青年に声をかけた。
「ねえ、ヨハン」
ヨハンと呼ばれた少年はL1光学望遠鏡の担当である。初めて任された大役の緊張の糸が切れ、呼びかけにも応えずにコクリコクリと頭を揺らしている。
「光学グループ、ヨハン助手! 起きなさい!」
アリスの鋭い声に、少年が飛び起きた。そしてそのまま、天井の方へ飛んで、
「いってぇー」
偶々そこにあったクレーンに頭を打ちつけた。
「一体何が起きたんだ! インパクトか! って、何も起きていない?」
すっかり人気のなくなった制御室を見回し、じっと見つめるアリスを発見する。
「ちょっと、L1光学望遠鏡を操作してほしいのですけれど」
「操作? イベント中はコーディネーターの指示でなければ勝手な操作は許されませんが、サブ殿」
少年は不機嫌そうに言った。
「もう、イベントはとっくに終わっているわ。だから、個人的なお願いに近いけれど…… 気になる映像があったのよ」
「個人的なお願いなら、これは個人的な貸しだな」
「あら、貸しというなら、借りを返してもらいたいわ。この間のデートで、待ち合せに遅れたわよね」
「ちょっ、そ、そんなこと、ここで持ち出すなよ…… わかった、わかったから大きな声をだすな」
アリスの眼光に少年は声を小さくして言った。コホンと咳ばらいをしてアリスは口を開いた。
「スクリーンの北東の端で何かが動いたのよ。だから、もう少しズームアウトしてくれないかしら。ね!」
突然、表情と声を変えたアリスは、主人に餌をねだる愛玩動物のようである。
「ん! すぐに操作するから、ちょと待って」
顔を紅潮させた少年は、自席に戻って、コマンドを打ち込み始めた。
スクリーンの映像がズームアウトし、より広い領域が視野に入る。
「ほら、ここ! 何かが動いている。一定のスピードで動いているわ」
アリスがスクリーンに駆け寄って、一点を指さした。確かに灰白色の何かが動いていた。
「うーん、そうだな。なんだろう」
「ここだけ拡大できない?」
「拡大か。できないことはない。合成開口を使えばかなり分解能はあげられるけれど、ステップがあるから…… ちょっと、時間がかかるかもしれないけれどやってみよう」
「さすが、ヨハン。頼もしいわ」
「いや、まあ、とにかく見ていてくれ。まずは、一台だけにして…… 視野の真ん中に標的を持っていく」
画像が流れ、動いている標的が画像の真ん中あたりに移動する。
「ズームインして…… マニュアルで標的を追いかける」
拡大した画像の中を標的が走り始め、それを真ん中から外れないようにと調整するのだが、手動で調整するので、動きがぎこちない。時々、飛ぶように画像が流れるので、折角拡大しても、標的の様子はぼやけたままである。それでもアリスは不平を言わずにじっとスクリーンを見つめていた。
「ターゲットを捉えたから、自動追尾オン!」
途端に標的が視野の真ん中に固定され、今度は周りの地形が流れていく。
「ロック成功! 結構、大きいぞ!」
視野にスケールが現れる。
「差し渡し一〇〇メートル強」
「もう少し、鮮明にならない?」
「多分できるぞ。残り三台の望遠鏡を自動追尾に連動させて…… 自動位相調整をかければ……」
画像が明るくなる代わりに、標的のボケが増す。ボケ具合が良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、次第に鮮明になっていく。
「見えたぞ! いびつな五角形というか、五角錐か」
くっきりとした影ができ、五角錐ということがはっきりわかる。
「速度は、一秒で五〇メートルほど。秒速五〇メートル!」
「氷山が走っている?」
「おいおい、この大きさ、このスピード。あり得ないだろう!」
「スケールが一〇倍違っているとか」
「だとすると、一〇メートルの氷山が秒速五メートルで滑っていることになるが、それこそあり得ない。さっきまでのイベントが真っ赤な嘘だったってことになるし、第一、俺の解析が間違って言わけないだろう」
「そうねー」
アリスは小首を傾げてヨハンを見つめた。
「とりあえず、カールに話してみましょう」
一〇分もしないうちに、中央制御室は喧騒を取り戻した。リュウイチ達が危ないとわかったのだ。
KE-I落下地点から北東に二〇〇キロメートルほどの所に標高九〇〇〇メートルの山がある。通称、マッターホルン。その頂上部が欠けていることがわかり、氷上を疾走している氷山と形も大きさも一致した。どうやら、ファースト・インパクトの氷震でひびが入り、セカンド・インパクトの衝撃波で、頂上部分が滑り、九〇〇〇メートル程下ったようである。天然のリュージュのようなものである。下った先に偶々あったのがメリベイル・リネア。差し渡し一二〇メートル、位置エネルギーを運動エネルギーに変換した氷山は、秒速五〇メートル、時速一八〇キロメートルで、メリベイル・リネアを疾走している。先行するリュウイチ達を追いかけ始めたのだ。
「このままの速度なら、一三〇分後にリュウイチ達に追いつくぜ」
大女が腕組みをしながら言った。
「しかし、いくら何でも減速するはずだ。減速もせずに四〇〇キロも滑っていくとは考えにくいなあ」
カールも腕組みをして反論をした。
「直感的にはそうかもしれん。だが、概算すればあり得るってわかるぜ」
「どうやって?」
大女は口角を上げた。
「エネルギー保存だ」
「ん?」
「いいか、もともとのエネルギーは位置エネルギーだ、それが、運動エネルギーに変わって、摩擦で熱エネルギーに変わる」
「そんなのは高校生の物理だ」
カールは、馬鹿にされたのが分かったようだ。大女は構わずに続ける。
「エネルギーは力かける距離だ。位置エネルギーなら質量かける重力加速度で力。距離はマッターホルンの高さの九〇〇〇メートル、九キロメートル。この三つをかけたのが位置エネルギーだ。わかるか?」
「わかるに決まっている!」
カールは不機嫌そうに答えた。
「一方、摩擦力は、垂直抗力かける摩擦係数。垂直抗力は質量かける重力加速度かける摩擦係数だ。熱エネルギーは摩擦力に距離をかければいい」
「あっ、そういうことね」
アリスはわかったようである。
「エネルギーの次元は変わらねえ。違うのは摩擦係数だけだ。つまり、その分、距離が延びる。摩擦係数が百分の一なら、距離は百倍だ。この場合は、九〇〇キロメートルだ」
「ということは、十分リュウイチ達の所に届くってこと?」
「そういうことだな。もちろん、摩擦係数がそんなに小さいかどうかはわからんが」
「うーん。そうなるとあり得るか」
カールは唸って天井を見上げた。
「もっとも、摩擦についてはよくわかってねえ点もあるから、あくまでも概算。実際は予測不能だ」
「結局どうすればいいんだ?」
「がははは、見て、聞いて、嗅いで、用心するんだ。おい新人、どうなった」
大女はひとしきり笑うと、隣で縮こまっている新人を小突いた。
「は、はい、大雑把ですが、ここ六分で一パーセントほど減速していますので、このままの割合ですと…… 一五〇分後にリュウイチ達に追いつき、その時の速度は時速一四〇キロになります」
名前で呼んでもらえない新人がびくびくしながらもきちんと答えた。
「とりあえず、リュウイチ達に伝えて、リネアから上がってもらったらいい。まだ時間はあるからな」
大女はそう言った。
「いや、それがそうもいかないんだ」
カールが額を叩きながら言った。
「どうしてでしょうか?」
アリスが口を挟む。
「どうも、インパクトでかなり広範囲にわたって、水蒸気密度が上がったらしくって、今は通信ができないんだ。遠距離通信に使う二〇〇ギガヘルツ帯はもともと水の吸収が大きい帯域で、宇宙では無視できるんだが、今回は事情が違う。電波の吸収が大きすぎるんだと思う」
「あのー 確か、今、メイファンに電波望遠鏡を一〇台ほど使って、一〇ギガヘルツ帯短距離通信を試しているのではなかったでしたっけ? 同じようにリュウイチにもハイパワーで送信したらどうでしょうか? 彼女が電波を受信できるのなら、リュウイチも受信できると思います」
アリスが控え目に提案した。
「うん、それは考えたんだけれど、位置が悪い。メイファンの方はラグランジェポイントL2に居て、エウロパから結構離れているからいいんだけれど、リュウイチ達はエウロパの表側で、イオから見ると、エウロパの向こう側になっていてイオからの電波が届かないんだ。そうなるとエウロパのL1中継通信衛星を使わなきゃならないんだけれど、もともと短距離通信の方はそんなにパワーがないから、無理なんだ」
「それじゃどうすればいいの?」
アリスが手元の資料に目を落として呟いた。
「水蒸気の密度は徐々に下がっているから、いつかは通信が復旧するだろうが、間に合うかどうかはわからない」
喧騒に満ちていた中央制御室はいつの間にか重苦しい雰囲気に包まれていた。
* * *
「わかった、自力で何とかするしかないね」
『すまない。健闘を祈る』
通信を終えてリュウイチは大きなため息をついた。霧が晴れ、イオのトライデント作戦本部に通信が繋がったのは良かったのだが、その通信で、リュウイチは絶体絶命の危機にさらされていると言われたのだ。リュウイチ達の後方一〇キロメートルに幅、高さ一〇〇メートルほどの氷山があり、時速一一〇キロメートルで迫ってきている。冗談のような話である。
先ほどから、地面が細かく振動しているような気がしていたが、本当に揺れているのだろう。
「逃げ切れるようなスピードじゃないわ。リネアの右岸か左岸かに逃げてやり過ごすしかないんじゃないかしら」
「うーん、やっぱりそれしかないか…… でも右も左も危ないんだよな」
リュウイチは、カタリナの言葉にはっきりしない返事をした。彼らの走っているメリベイル・リネアの横幅はそれほど広くはない。一〇〇メートル以上はありそうだが、どちらかが安全とは言えない。登ろうとしても崖になっており、簡単に登れそうもない。また、隠れられそうな窪地もない。
「かといって、定格推力を出して離昇するにしても、まずはポッドを鉛直に立てないといけないから、そう簡単じゃない」
ポッドの重心をサンドスラスターの真上にしなければ、回転して離昇どころではない。真っ直ぐに立てるだけでもそれなりの時間がかかるはずである。
「リュウイチの所から氷山は見えないの?」
ポッドの中にいるカタリナには後方がよく見えないが、船外でサンドスラスターの現場制御盤を操作しているリュウイチには後方が見える。
「リネアは真っ直ぐだから見えてもいいと思うけれど、霞んでいてよくわからないな。とりあえず、右の崖を目指すよ」
リュウイチはサンドスラスターの姿勢制御スラスターを使って、進路を変えた。
* * *
「あ、あと、九〇秒です」
中央制御室の真ん中あたりで青年が声を上げた。ヨハンである。
「ねえ、カール。通信を繋ぎっぱなしにしなくてよかったの?」
サラはカールの背後から声をかけた。カールはじっと正面スクリーンを見つめている。そこには拡大された画像が映し出され、薄い二重線で描かれたメリベイル・リネアが見える。その二重線の間を灰白色の駒のような氷山が移動している。スクリーン上の動きは遅いが、実際には秒速三〇メートルという速さである。
「繋いでどうするんだ、衝突までカウントダウンするのか? リュウイチ達の死をカウントダウンするのか? まるで死神みたいに」
「死ぬと決まったわけじゃないわ」
「くそ! 僕はどこかで間違ったんだ。そもそも、リュウイチに着陸をそそのかしたのは僕なんだ。あの時、黙っていればリュウイチは今頃、エウロパ上空でのんびり救助を待っていたはずなんだ」
「でも、それじゃ、巫女に会うことも救うこともできなかったわ」
「どうせ巫女は助からなかったんだ。だとしたら、リュウイチまで巻き込む必要はなかった」
カールの視線はスクリーンに固定されたままである。リュウイチの最期を見守るのが仕事だと考えているのだろう。
「でも、きっと後悔していたわ。貴方もリュウイチも」
「どうかな?」
「やれることはやった。貴方も、リュウイチも。誰もがやれることはやったわ。だから後は祈りましょう」
サラはそう言って、カールを後ろから抱きしめた。
「カール、ちょっとこれを見てください。ドラゴンフルーツの軌道が変なんです」
アリスがカールを見上げながら言った。
「あと五〇秒!」
「アリス、今は、それどころじゃない。後にしてくれ」
「いや、今だから見て欲しいんです!」
「な、なんなんだ」
アリスの厳しい語調にカールはしぶしぶ従った。
「ん? これは! この軌道は一体どういうことだ!」
* * *
「しまった、よりによって、こちら側に偏っているぞ、まずい!」
リュウイチは、間近に迫る氷山を見つめていた。冗談のような光景である。地球にある険しい岩山と同じ名をつけられた山の山頂部分がメリベイル・リネアという氷のコースを滑っている。大きさとしてはピラミッドとそれほど変わらない。リネアの幅よりやや小さいが、運の悪いことに、リュウイチ達のいる側の崖を削りながら向かってきている。
「今から反対側に行くわけにもいかないし、崖に身をよせるしかないな。カタリナ! すぐポッドから出てくれ!」
リュウイチはイオンエンジンを停止させて、カタリナに呼びかけた。
「わかったわ」
『優先度4の通信が入ります』
救命ポッドのメインコンピュータが音声でリュウイチに知らせた。
「ん?」
ヘルメット内のディスプレイに現れたのは老人だった。
「ちっ、元船長か」
リュウイチは思わず舌打ちをした。通信してきたのはマイケル元船長である。
『元気か?』
「元気なわけないだろう!」
間もなく最期を迎えるかもしれない時に、もっとも話したくない人物が話しかけてきたのだから、機嫌が悪くなるのも当然である。
『元気そうやな。お前は俺の息子や。あばよ』
「はあ? 切れたぞ、馬鹿か!」
カールは言い返そうとして、切れた通信に悪態をついた。
リュウイチとカタリナは崖に背をつけ並んでいる。
「すごい迫力ね」
弱い太陽光をキラキラリと散乱しながら突進してくる獰猛な氷山。恐怖ではあるが、現実離れしていて幻想的な光景でもある。
「太陽系一の珍事だと思う」
地面が激しく揺れて、立っているのやっとである。
「観客は私達だけね」
「しかも特等席だ」
リュウイチはカタリナの腰に手を回して引き寄せた。
「お祝いの氷山?」
「何の?」
「そうねー 私たちの結婚とか」
「ああ、それはいいね。宇宙一の珍事だ」
「珍事じゃないわ」
カタリナが頬を膨らませた。
眼前にそびえたつ氷山。あと数秒でリュウイチ達は氷の壁に押しつぶされるはずである。カタリナは両手をリュウイチの背に回し、自分の体を押し付けて目をつぶった。
「あっ!」
迫りくる氷山を見ていたリュウイチが小さく叫んだ。
『ドン』
何かが、眼前に飛び込んだと思った瞬間、リュウイチ達は爆風に吹き飛ばされた。
リュウイチは薄れゆく意識の中で人生を振り返っていた。短い人生と言っていいだろう。生まれてからの経過年は八三年であるが、職業柄コールドスリープを多用したから、実質的な年齢はそれほどでもない。実際、生理学的に測定される細胞年齢は二七歳である。長くはないが充実した人生だった。
地球生まれだと思っていたが、トラオ・タニヤマ九〇パーセント、マイケル(ミヒャエラ)・リサール一〇パーセントの混合クローンであるから、本当の生まれはマツシタラボのある月面施設である可能性が高い。
物心のつく前からイギリスで里親に育てられていた。中学生になる直前に、実父のトラオを知った。イオ在住の著名な天文学者であった。スペースエンジニアになったのは、この父の影響を受けたからだと素直に言える。ただし、一緒に過ごした時間はほんの数カ月のことである。それに比べれば母であるマイケル元船長と過ごした時間は長い。ドラゴンフルーツに欠員が出て、リュウイチがクルーになったのは二二年前のことで、以来ずっと上司であった。最後には反乱を起こしたが、リュウイチがクルーになりたての頃は、意外に気を遣う上司であった。厳しい指導と怒号をリュウイチに浴びせつつ、フォローは忘れなかった。一度、酷い風邪を引いたときは、高熱にうなされるリュウイチの額に冷たい手を置いてくれた。夢かと思っていたが、母だとわかった今は夢じゃなかったと思いたい。
それでも、死にゆく息子に『あばよ』はないだろう。上司としては立派だったが、母親としては失格である。憧れの巫女と過ごした楽しい日々を思い出すには最期の瞬間は短すぎる。リュウイチは心のうちで舌打ちをした。
「くそ、俺の走馬灯を返してくれ」
リュウイチは声に出してつぶやいた。
「リュウイチ、何を寝ぼけているの。起きて、リュウイチ!」
カタリナがあおむけに寝ているリュウイチのヘルメットを叩いている。
「ん?」
「大丈夫? どこか怪我をしていない?」
リュウイチの目に最初に飛び込んできたのは、ほっとした表情を見せるカタリナ。その背景には巨大な木星が見える。
「天国にもジュピターがあるのか」
「なに馬鹿なことを言っているの。天国じゃないわよ、エウロパよ」
カタリナがリュウイチをゆっくりと抱き起す。
「いてててっ!」
体の節々が痛む。特に右胸が痛い。呼吸をするたびに、大きくなる痛みだ。
「ご、ごめんなさい。大丈夫?」
その痛みがリュウイチの意識を覚醒させた。
「そ、そのまま、ゆっくり起こしてくれ」
歯を食いしばり、ヘルメット内のディスプレイで状態をチェックする。
「宇宙服に異常はないが、胸が痛い。肋骨にひびが入ったか、折れたかだろう」
『こちら、トライデント作戦本部。リュウイチ! 大丈夫か? 生きているか?』
カールから通信が入った。
「一応、生きているぞ」
『状況は?』
「何がどうなったのか、俺にはさっぱりだ」
「私の方から報告するわ」
カタリナが通信に割り込んだ。
『カタリナさんも無事なんだ。報告をお願いします』
カールに促されて、カタリナが報告を始めた。
「まず、私達、二人とも生きているわ。宇宙服の機能に問題はないけれど、リュウイチは、多分、軽傷。肋骨が折れた可能性大」
『氷山はどうなった?』
「衝突直前で止まったわ」
リュウイチは、眼前一〇〇メートル程の所にそびえたつ氷山に呆けていた。
『そうか、ぎりぎりのタイミングだったんだな』
「そっちでも把握していると思うけれど、氷山に何かが衝突したみたい」
氷山の中腹辺りが派手に凹み、何か巨大な物が埋め込まれている。あちらこちらに金属の破片が散在しているが、よく見れば、見覚えのある物もある。ひしゃげたイオンエンジン。半分にちぎれた赤いソファー。暴露架台を構成していた丸パイプ。化学ロケットエンジンのノズル。放熱パネル。氷山に埋め込まれたものは、宇宙船の重要区画である円筒部であろう。
「ドラゴンフルーツだ」
リュウイチは二二年間住んだ船の名を呟いた。
『衝突したのはドラゴンフルーツ。秒速一・六キロメートル、推定重量は九七〇〇トン』
「それが、正面衝突で氷山を止めたということかしら? 乗っていたのはミヒャエラ?」
『そう。操縦していたのはマイケル・リサール元船長。おそらく、リュウイチを救うために、捨て身の体当たりをしたのだろう』
「船長。船長を助けないと!」
『無駄だ。このスピードなら即死だ』
「この目で確かめるまでは信じないぞ!」
「リュウイチ……」
胸に手をあてながら、必死に立ち上がろうとするリュウイチ。弱い重力ですら、今のリュウイチにはきつい重荷なのだ。
「わかったわ。準備をするから待っていて」
カタリナは荷台に括り付けた荷物から小型のピッケル、アイゼン、ザイル、ペグ一式を取り出すと、氷山を登り始めた。背中にはリュウイチ愛用の刀を背負っている。平均傾斜角約四〇度、手掛かりがなければ登れない。その急斜面をカタリナは宇宙服を着て登り始めた。
「危なくなったら、いつでも引き返していいぞ」
現場まで行きたいと言い出したリュウイチは、威圧感を放つ氷壁を前に半ば後悔していた。重力が地球の八分の一だから位置エネルギーも八分の位置で、現場までの高度六〇メートルは地球上での八メートル程に相当する。地球上なら建物の三階の床ほどの高さである。ただ、重力が小さい分、摩擦も小さいから、滑りやすさという意味では地球上と変わらない。
「大丈夫、慣れているわ」
カタリナは所々にペグを打ちながら急斜面をやすやすと登っていく。
「慣れているって、エウロパの野山を駆け回るお姫様というわけか」
現場に到着したカタリナは、ペグを打ち、小さな滑車のついたロープを下した。
「リュウイチ、滑車をカラビナでベルトに固定してちょうだい」
「了解」
「それじゃ、まずは斜面に足をつけてロープに体重をかけて」
リュウイチは言われるままに、足を出し、ほんの少しロープに体重をかける。
「なるべく、体が斜面に直角になるようにして」
ゆっくりと体をそらして、体重をかけていく。
「そうそう、そんな感じ。そのまま、斜面をゆっくり歩いてきて。滑らないように踏みしめてね」
弱い重力と滑車で力は軽減されているはずであるが、か弱いはずの巫女に引っ張り上げてもらうのは何とも不思議な気分である。リュウイチは滑らないように注意しつつ、氷壁登りに集中した。
あっという間についた現場では、いつの間にかカタリナが刀で水平面を切り出しており、立つことができた。もちろん、落下しないようにロープで体を固定している。
ドラゴンフルーツの残骸は散乱したり、埋まっていたりするが、ブリッジ、バイオ水槽、原子力電池などの重要設備を収納した円筒部は、深くに埋まっていて、白い氷で覆われている。
「一度溶けて、すぐに凍ったのね」
カタリナは目の前の氷を宇宙服の手袋で磨きながら覗き込んでいる。磨いた部分が透明になり、氷山の中に埋まった円筒部がくっきり見える。円筒部は衝突の衝撃で上下につぶれている。ブリッジにいたマイケル元船長の生存は絶望的である。
「これだけ深いと、この刀で切ってもすぐに凍るだろうな」
リュウイチ愛用の刀は人工ダイヤモンド製で加熱することができる。元々は凍結化学燃料を整形するためのものであり、氷を切るのに適している。それでも深く埋まった円筒部まで切り込むよりも、凍結する方が速いことは明らかである。
「仕方ないな」
先ほどの興奮はすっかり収まっていた。元船長で、母親で、罪人であるマイケルに一言では表せない感情を抱いていたが、それは生きていた時のことであり、死んでしまった今となっては、それら色とりどりの感情はセピア色になってしまった。
「あれっ? なんか動いた気がする」
氷に埋まった円筒がほんの少し落ちたような気がしたのだ。
「目の錯覚?」
「錯覚じゃないわ。さっきから少しずつ沈下しているわ」
リュウイチの疑問にカタリナが答えた。
「沈下している。どうして?」
「チャイナシンドロームよ。昨日、高原に救命ポッドの衝突跡があったじゃない。あれと同じよ」
「そういうことか。原子力電池の熱で周りを溶かしながら、重力で少しずつ沈んでいく」
「ゆっくり、ゆっくり、氷山の下まで行って」
「さらにエウロパの氷の大地を沈んで、いつかは内海に達し、その後は一気に海底まで」
「何年かかるかわからないけれどね」
「エウロパの海が母さんの墓地というわけか」
「母さん? やっぱりミヒャエラがあなたの母だったのね」
「ああ、ミヒャエラというかマイケル元船長の遺伝子を一〇パーセント受け継いでいる。だから母親というほどでもないんだけれど、船長だったのは確かだ。俺を鍛えた船長だったのは確かだ」
氷に閉じ込められたドラゴンフルーツの残骸。誰にも死者の眠りの邪魔をさせないとでも言いたげな氷。
「ミヒャエラは母として死んだのかしらそれとも船長として死んだのかしら」
「さあな。死ねばどっちでも同じさ。さあ、行こう」
リュウイチは残骸に背を向け、ロープを握った。
「ちょっと待って。祈りを捧げたいの」
「祈り?」
「そう、魂の拡散の儀式」
「わかった。隣で見ていていいか」
「もちろん」
カタリナは宇宙服の手袋で氷をひとしきり擦ってから目をつぶって祈り始めた。
「木星の星々は約束の地。木星の衛星エウロパ。エウロパの南緯四二度、東経五九度、標高マイナス一○メートル。それが私の座標。
西暦二一八五年九月一二日。GMT一二時五三分四○秒、それが現在の時の座標。
これより、魂の拡散の儀式を、私、エウロパの巫女が執り行う。亡くなった者の魂を宇宙に拡散させ、宇宙の秩序を維持するために祈りの詞を捧げる。
エウロパに舞い降りたドラゴン
ここは貴方の住む世界じゃない
イオを燃え上がらせる炎のような情熱も
嫉妬で薄汚れていて醜いし
貴方の炎が溶かせるのはほんの表面だけ
それでも貴方は私達を引き裂こうとするのか
エウロパに舞い降りたドラゴン
ここは貴方の住む世界じゃない
ピラミッドのような巨体の放つ威容も
昔ほど恐くない
貴方をすっぽり隠してしまうほどの大きなクレバスがあるから
それでも貴方は私達を従わせようとするのか
エウロパに舞い降りたドラゴン
ここは貴方の住む世界じゃない
地鳴りのように響く咆哮も
音のない世界では伝わらないし
貴方の声には真実も正義も包含されていない
それでも貴方は私達を説き伏せようとするのか
エウロパに舞い降りたドラゴン
ここは貴方の住む世界じゃない
宇宙にあってこそ華麗な金色の翼も
ここの重力では弱々しいだけだし
貴方の翼を流氷がいともたやすくへし折る
それでも貴方は私達を救おうとするのか
エウロパに舞い降りたドラゴン
ここは貴方の住む世界じゃない
白色矮星のような弱々しい瞳に
昔日の輝きはないし
エウロパの氷が静かに貴方を飲み込んでいく
それでも私達は貴方を忘れないだろう
一匹のドラゴンがエウロパの氷に眠る
聖なる氷に包まれた貴方の雄姿を忘れない
永遠の氷に閉じこめられた貴方の功罪を忘れない
厚い氷に埋められた貴方の遺志を忘れない
父であり、母であるドラゴン
ジュピターであり、ルナであるドラゴン
正義であり、偽善であるドラゴン
一匹のドラゴンがエウロパの氷に眠る
聖なる氷に包まれた貴方の雄姿を忘れない
永遠の氷に閉じこめられた貴方の功罪を忘れない
厚い氷に埋められた貴方の遺志を忘れない
」
リュウイチは漆黒の宇宙を見上げながら聞いた。宇宙服を着た状態では涙をこぼしてはいけない。そう、一流のスペースエンジニアは涙をこぼさない。
話中の詩は拙作 http://ncode.syosetu.com/n3938cd/19/ を手直ししたものです。




