34.ライバル(西暦二一八五年九月一二日、インパクト二時間前)
発掘された恐竜の卵というのが第一印象である。
リュウイチ達が通ってきたリネアの谷からさらに一段低い窪地がある。そこに、半ば雪に埋もれたドーム群があった。一つ一つは直径二〇メートル程で、濃緑色のFRPらしき素材で壁を作っている。リュウイチ達は窪地の直前でポッドを止めて、縄梯子で五メートルほどの崖を降りて窪地に降り立った。エウロパの五メートルは地球の七〇センチに対応するから、飛び降りられる高さではあるが、装備や荷物の重量を考慮すれば、帰りに登るための縄梯子は必須である。
内部に入るのは簡単だった。一つのドームに大きな亀裂が入っており、リュウイチが刀を差しいれてこじ開けた。そこから入れば、ドーム間の廊下を伝ってほとんどすべてのドームに行くことができた。
人感センサーが反応し、非常灯が二人の足元を照らしていく。
「まずは、施設全体の管理をしている中央制御室か何かを目指そう」
「と言っても、どっちに行けばいいの?」
「ドーム群の真ん中あたりじゃないか。重要な施設は大抵真ん中にある。そこの管理用コンピュータを起動できればいい。まずは電力を供給して施設に火を入れないと」
「そうね。原子力電池が放置されていれば、電力があって、生命維持機構を復活できるかもしれないわね」
「そうすれば、空気には不自由しないはずだ。たとえ生命維持機構が復活できなくても、ストックされている酸素ボンベと二酸化炭素吸収フィルターが見つかればいい」
二人は、ここに来た目的を確認した。わざわざ声に出したのは余計なことをしないように念を押したかったからである。これ以上、寄り道をして時間を浪費している余裕はない。
「そう。これだけの施設なんだから何かはあるだろう」
リュウイチはあたりのタンク群を見ながら言った。
「何か? 何かはあると思うけれど……」
「カタリナはここで何をやっていたのか知っているのか?」
リュウイチは抜き身の刀をぶら下げてゆっくりと歩いた。当然のことながら刀は武器となり得る。
「危険だけれど、成功すれば画期的な研究?」
カタリナは融雪用のヒートガンを構えている。こちらの方は凍り付いた鍵穴を溶かしたりするのに重宝する道具である。武器にはならないが、驚かすことぐらいはできる。
「それじゃ何かわからないよ。まさか、エイリアンとか恐竜が出てきたりしないよな?」
「前世紀のビデオの見すぎよ。私が想像するに…… クジラの養殖とか」
「クジラ?」
「そう、地球上でもっとも大きな生物。それに寒さにも強いわ。この広大なエウロパの海に相応しいのはクジラ。クジラって魚じゃないのよ。哺乳類なの。知っていた?」
「哺乳類だってことは知っているけれど、なぜ、養殖なんだ。食べるのか?」
「もちろん」
「野蛮だ!」
「あら、昔は食べたり、油を取ったりしていたのよ」
「クジラのように知能の高い生物を食べるなんて野蛮だ」
「それじゃ、牛ぐらいの知能のクジラなら食べてもいいのね。一口にクジラといっても色々な種がいるから、知能なんてピンキリよ。人間と猿ぐらいの知能の差はあるわよ」
「ホントか?」
「た、多分…… とにかく、エウロパはクジラの楽園になるかもしれない」
「ストップ!」
リュウイチが鋭く言って、カタリナの歩みを制止した。目の前の床を白い液体のようなものが横切っている。不定形のそれは、粘度が高いためか床からほんの少し盛り上がっている。
「糊みたいね」
屈んだカタリナは、グローブをはめた指を伸ばした。
「触るな!」
リュウイチの強い語気にカタリナはピクリと体を震わせた。
「非常灯がついた時に動いた気がするんだ」
「明るさに反応して動いた?」
「そう」
「調べてみましょう」
「おいおい、もうあんまり時間がないんだが」
「気になることがあるのよ」
カタリナはきっぱりと言い、白い跡をたどり始めた。
すぐに二人は大きなタンクに行きついた。中身が膨張したのか、ところどころにひびが入り白いゴムのようなものが染み出し床まで続いている。
「やっぱり、ルナクルVbだわ」
タンクのラベルを見たカタリナは呟いた。
「ルナクル? 知っているのか」
「ええ。ルナクルVシリーズは、人工生命の素材として開発されたのよ」
「人工生命?」
「もともと、ルナクルは神経系疾患の特効薬と開発された薬だった。神経伝達物質から始まって、少しずつ生命、特に神経系の機能を模擬する物質を開発した。そして、本格的な人工生命を作ろうとしたのがルナクルVプロジェクト。シナプス、神経細胞、連想メモリー。確か、Vbが演算を担い、Vcが記憶を担うのだったと思う」
「それじゃ、この研究施設は人工生命を開発していたということ?」
「多分」
「で、成功したのか?」
「わからないわ。新しいことは何も知らない。私が知っているのは古いこと。古い記憶」
「記憶って…… 記憶が戻ったのか?」
カタリナは黙って頷いた。
「どうして? どうやって?」
「わからない」
「第一、本物の記憶なのか?」
「間違いないわ」
「親父のこと、トラオのことも思い出したのか?」
カタリナは黙って頷いた。そして、リュウイチは何とも言えない表情を見せた。
カタリナは、リュウイチよりもずっと父トラオのことを知っているはずである。リュウイチに、カタリナに対する嫉妬がないと言えば嘘になる。そして、もっと気になる点は、トラオがカタリナの肌を知っているはずという点である。リュウイチが知らない温もりと柔らかさを父は知っているはずである。トラオに対する激しい嫉妬と劣等感。そして今は、彼女が自分の手の届く範囲にあるという優越感。フタをしていないと際限なく負の感情をまき散らす箱をリュウイチは抱えていた。
冷静ではいられないという意味では、カタリナもそうであったが、彼女は記憶という光の中にいた。記憶、それは決して美しいだけのものではない。楽しい思い出だけのものではない。穴があったら入りたくなるような恥ずかしい思い出。何年たっても後悔するような間違った判断。友人の心をえぐった不用意なセリフ。諦めてしまった夢。途中で放り出した仕事。そして、父親との確執と愛憎。どうしてこんないやな記憶ばかり浮かんでくるのだろうかとあきれるぐらいである。それでも、カタリナはうれしかった。今のカタリナを形作っていた骨格を記録したものが記憶である。どうして自分はここにいて、どうして自分はこんな自分なのか、それを照らし出してくれるのが記憶。ふわふわと漂う根無し草に、踏みしめて根を張る大地を与えてくれるのが記憶である。記憶を取り戻した静かな感動がカタリナの心を満たしていた。
黙って歩く二人は、何の障害もなく、中央管理エリアと思われる部屋に到着した。学校の教室よりも狭いぐらいのスペースである。
「それじゃ、起動用コンソールを探すか」
リュウイチは刀を背のさやに納めて、辺りを見回した。いくつものデスクとスクリーンがある典型的な管理エリアである。
「起動用コンソール?」
「そう、この手の施設は中央ですべての施設を遠隔起動できるようになっているんだけれど、最初に起動するのが起動用コンピュータで、大抵は永久蓄電池を持っているんだ」
「永久蓄電池? 寿命がなく、永久に電荷を保持する電池?」
「大体そんな感じで合っているよ。最も本当に永久というわけではないけれど二百年ぐらいは優に耐えられるように作ってある。標準仕様なら五〇センチ角の黄色い立方体で……」
「あれかしら?」
カタリナが指さした一角にそれらしいものがある。
「あった!」
弱重力の中、リュウイチ達は跳ねるようにして、その一角に近づいた。
「これ、これだ。だとすると電源ケーブルがこちらに伸びているから…… これがコンソールかな?」
タッチパネルを埋め込んだ長いデスクの一端に小さな四角い板が立てられている。
「キーボードもスイッチもないけれど、どうやって起動するの?」
「音声認識?」
「真空だと音は伝わらないから…… これに触わる?」
リュウイチが小さな板に触ると、板の周囲が白く輝き、表面に文字が流れ始めた。
「正解ね…… パスワード?」
一瞬、喜んだカタリナはパスワード入力を促すメッセージに肩を落とした。関係者でもない自分達がパスワードを知るはずはないとカタリナは思った。
「多分、知っている。『タキゲン九九九』だ」
リュウイチは画面上のキーボードを打ちながら言った。
「あてずっぽうで入れても…… ホントだわ。どうして知っているの?」
無事に認証が済み、コンピュータが動き始めた。
「どうしてって、施設関係のパスワードは昔から『タキゲン九九九』と決まっているんだ」
「それじゃあパスワードを設定した意味がないじゃない」
「そう言われても、そうなんだからしょうがないじゃないか」
リュウイチにも説明ができない。多分歴史的な由来があるのだろうが、知らないものはしょうがない。リュウイチは肩をすくめた。
メニューを選んで進めていく。
「まずは、電波による室内WiFi通信をアクティブにして音声認識ができるようにする。プロトコルは標準宇宙服のインカム用に設定して……」
「ねえ、酸素は?」
てきぱきと操作するリュウイチにカタリナは声をかけた。
「順番があるんだ。もう少し待ってくれ…… よし、音声認識はOKだ。オーダー、施設管理コンピュータを起動してくれ」
『電力が足りませんので、一部の機能しか起動できません』
合成音による応答がインカムを通して聞こえてくる。
「オーダー、使用可能電力の範囲で起動」
『了解』
「管理用のAIはないの? もっと人間らしいAIは?」
「結構、電力を食うからAIは起動できないのかもしれない。それに、百年近く前だから、AIは使われていなかった可能性もある」
「ふうん、そんなものなの? つまらなくない?」
「カタリナは、擬似感情を持つAIを想像しているのかもしれないけれど、そういうAIは流行ったことはあるけれど、今ではあまり使われない。特にこういう施設関係には使われない。もちろん、最低限の推論機能と会話機能は組み込んであるけれど、AIと言えるほどのものじゃないさ」
カタリナが想像しているのはジュダスのようなAIであろう。現代では、ジュダスのような人間に近いAIは流行らない。人間と比較してしまうと、どうしても人間らしくない所が目立ってしまい、必要なリソースに釣り合わないと判断されるのだ。
ただし、ジュダスの人間らしさは別格である。よほどお金をかけたのか、それとも特殊な技術が使われているのか、リュウイチに興味がないわけではないが、リュウイチはAIの専門家でもないし、破壊された今となっては、調べようがない。
「どうやら立ち上がったみたいだな。オーダー、この施設全体のマップをだしてくれ。それから、質問、この施設の電力状況について報告してくれ」
『マップを表示します。電源は原子力電池、二系統のうち一系統は電力供給を停止しています。残る一系統の現在の出力は八キロワット。そのうち、三〇パーセントが本コンピュータに消費されています。二五パーセントがサンプル室、二〇パーセントが総合通信室に供給中です。残りが施設の凍結防止等に消費されています』
「サンプル室と総合通信室か」
リュウイチは腕組みをした。
「変?」
カタリナが問うた。
「通信の方は、万が一の遠隔指令を受信できるようにアクティブにしているのかもしれないけれど、廃止施設にそんな措置をするかなあ…… 電力が余っていれば、あり得なくはないか」
リュウイチは一人で悩んで一人で納得したようである。
「サンプル室は?」
「生体サンプルの保存庫でもあるんじゃないか?」
「いやだわ」
何かを想像したカタリナが顔をしかめた。リュウイチは再び口を開いた。
「質問、施設内の気圧、大気再生装置についておしえてくれ」
『お答えします。把握できるエリアはすべて真空です。メインの大気再生調整装置は通信不能です』
「通信不能? 何故?」
『モニター画像で確認する限り、大気再生調整装置は氷により大破しております。過去のデータベースと比較すると、大きな氷殻変動があったものと思われます』
「大破か」
リュウイチが肩を落とした。
『また、以前の状況通りであれば、サンプル室の小型大気再生装置が稼働中のはずですが、室内はモニターできません。消費電力が増えているのが不自然です』
「質問、サンプル室には何がある?」
『お答えします。以前の状況通りであれば、使われなくなった献体が一体、レベルIIIコールドスリープ装置で永久冷凍保存されています』
「使われなくなった献体? オーダー、サンプル室内の映像を出すことはできるか」
『申し訳ありません、通信回線がつながらず、映像を出すことはできません』
「何があるのかしら? 献体ということは人間かしら? それともクジラの標本?」
「行ってみるか? とにかく小型大気再生装置があれば、引きはがして、手に入れたい」
「引きはがしてって…… そんなことしていいの?」
「生きている人間がいるわけでもないだろうし、構わないんじゃないか。でも、ストックがあるかどうかも確認した方がいいな。質問、ストックされている酸素ボンベと二酸化炭素吸収フィルターについて教えてくれ」
『お答えします。以前の在庫記録の通りであれば、三番倉庫に、標準宇宙服用の酸素ボンベと二酸化炭素吸収フィルターのセットが五セットあります』
「質問、現在の在庫は確認できないのか?」
『電力不足のため、リアルタイムでの在庫確認は不可能です』
「わかった、とりあえず、三番倉庫に行って宇宙服用を確保するか。サンプル室よりもそっちの方が確実だろう」
「そうね」
『申し上げます。献体について前管理者からの伝言がありますので、再生させていただきます』
「伝言? 誰からだ? ちょっと待ってくれ!」
『優先度五ですので、停止できません。正面スクリーンに出します』
「ちっ、こっちは忙しいんだ」
リュウイチが舌打ちするが、どうしようもない。くだらない伝言なら無視して倉庫に行こうと決めて、彼は顔をしかめた。
「見てみましょう」
カタリナはそう言った。彼女の勘が留まれと言うのだ。
スクリーンが明るくなる。
『やあ』
疲れた声の主はピンストライプのスーツの上に白衣を羽織った初老の男。薄い白髪はべたりと頭皮に張り付き、眼鏡の奥の瞳は濁ったガラス玉のように生気がない。どこかで見た顔だとリュウイチは首をひねった。
「嘘っ、パ、パパだわ!」
カタリナが小さな叫び声を上げた。
『そこにいるのだ誰かはわからないが、ここまで来たということは関係者か、人工生命の研究者だろう。色々と聞きたいこともあるだろうが、質問には答えられない。もうすぐここを閉鎖し、私は行かなければならないのだ』
「パパは確か二一一一年に行方不明になったはず。ここを閉鎖したのは二一二〇年代。その間、ここに居たっていうこと?」
スクリーンの中の人物はカタリナの父、プラントル元所長である。
『君にあるいは君達にお願いがある。これは、この施設の責任者としてのお願いというよりは、一個人としてのお願いだ』
言葉を切ったプラントルはどこにでもいそうな老人、少々くたびれた老人に見える。やり手のビジネスマンにも、偉業を成し遂げた救世主にも、稀代の悪にも見えない。
『サンプル室に献体があるが、そっとしておいて欲しい。私の……』
口ごもったプラントルは、その先を言うべきかどうか迷っているようである。
『私の娘、バルバラの遺体がある…… どうせここまで来るのは物好きの研究屋だろうから、後学のためにどこで失敗したかを教えておこう』
プラントルは、迷いながらも、最後にはため息を吐いて続けた。
「娘? バルバラ? カタリナの妹か?」
リュウイチの問にカタリナは答えない。スクリーンのプラントルを見つめたまま、息を詰めている。
『バルバラは、私の娘のカタリナのクローンだ。カタリナがあんなことになって反省したんだ。今度は私の元できっちり育てようと。そう思ってクローンを作った。もちろん、愛情をたっぷり注いだ。自ら教育もしたし、夕食はできる限り一緒に取るようにした』
「ずるいわ」
カタリナが拳を握りながら呟いた。
『バルバラはカタリナと違って聡明だった。IQは高く、人類の愚かさをきちんと理解し、私の計画に賛同してくれた。計画に身を捧げるとまで言ってくれた。宝石のように美しい娘だった。丹精を込めて育てた作品だった』
プラントルは恍惚とした表情を一瞬見せて、また元の疲弊した顔に戻った。
『今思えば、焦りがあった。実験に焦りは禁物なのに……』
眼鏡を外して、ハンカチで汚れを軽く拭いて、小さなため息を吐いた。
『バルバラが一〇歳になった時に、何かの拍子に宝石が汚染されてはまずいと考えたのだ。そこで一〇歳のバルバラをセーブした。汚染されても再度ロードできるように』
「セーブ? ロード? どういうことなんだ?」
プラントルの不可解な説明にリュウイチは首をひねった。
『具体的には、カタリナが実証したように、記憶をルナクルVcにコピーした。カタリナの時よりも一桁大きな容量のルナクルVcにコピーした』
「私が実証って……」
『ところが、失敗だった。上書きロードした時の容量が大き過ぎたのか、バルバラの脳の成長が終わっていなかったせいなのか、それはわからない。わからないが、結果は失敗だった。バルバラの脳は壊れてしまった。その後の失敗も影響した可能性はあるが、この時点でバルバラの脳は回復不能なほど壊れていたのだろう。記憶を何度も再ロードしたが、結局、脳が正常に起動することはなかった』
「酷い! 殺人だわ!」
『起動しない脳を、人工的な脳に置き換えようとしたのは自然だった。何せほぼ完全な記憶があるのだから。いわば、コンピュータが壊れても、ファイルのバックアップは完全だという状況を考えてもらえればいい。そうコンピュータを更新すればいい』
「何を馬鹿なことを言っているのかしら、脳が作れるとでも思っているのかしら」
『そこで、バルバラの脳と全く同じネットワークトポロジー、全く同じ結合強度をルナクルVシリーズで再現することにした』
「ルナクルVシリーズって、さっき、カタリナが説明しくれたやつ?」
リュウイチの問にカタリナは黙って頷いた。
『最初に脳を取り出して、バイオテクノロジーで神経細胞とシナプス結合にマーカーをつける。厚さ〇・一ミリでスライスして、後は蛍光顕微鏡でスキャンして、一兆個のノードをもつネットワークとノード間の結合強度を正確に読み取る。二〇世紀の『猫脳染色図譜』の現代版と言っていいだろう』
「吐き気がするわ!」
カタリナは悪態をつきながらもスクリーンから目を離せなかった。
『バルバラIでは、バルバラの脳のネットワークを正確に再現し、記憶をリロードした。サイズは直径一〇メートル。外部刺激に対してそれなりに応答を示したが、自発発火状態には至らなかった。バルバラIIでは、カオス回路と軸索伸展機能を組み込んだため、直径が二〇メートルに膨れ上がった。自発発火状態も、外部刺激による活動状態も再現できた。リロードした記憶を連想することも可能だったが、現代のAIができるような会話すらできなかった。そこで、バルバラIIIは、記憶を学習させるエージェントを各ニューロン層に配置した。直径は九〇メートル。今の所、最も有望な脳だが、学習するのに時間がかかるのが難点だ。その点を除けば、自然な会話もできるし、簡単な推論も可能だ。それでもよくできたAIには劣る。時間をかければ性能は上がるだろうが、オリジナルのバルバラには遠く及ばない』
「結局、どうなったんだ?」
時間を気にしているリュウイチは結論が早く聞きたいようである。
『結局、バルバラの脳の再現は中断だ。別の事情で、開発を続けることができなくなった。もし、君たちが研究を引き継ぐのなら、それはそれでうれしいが、このままでは、本質的な進歩は望めないだろう。悔しいが研究としては一度リセットする必要がある』
「結局、パパは研究のことしか考えていないのね」
『だから、資料は処分した。唯一、バルバラの抜け殻だけは、サンプル室で保存している。永久凍結保存だから見た目は永遠に変わらない。あれはあのまま置いておいてほしい。これは個人としての願いだ。まあ、一言で言えば、あればバルバラの墓だな』
「パパは、パパは…… 人殺し! この人殺し!」
拳をきつく握り、唇を震わせていたカタリナは、最後に拳を机に叩き付けて叫んだ。
「カタリナ! 落ち着くんだ。叫んだって何も変わらない。もう済んだことなんだ。六〇年も前に済んだことなんだ」
激昂するカタリナをリュウイチは抱き寄せて慰めた。
「だって、だって、悔しいじゃない。折角、パパとバルバラは幸せに暮らしていたのに……」
カタリナは、研究のために親子関係を犠牲にしたことが許せなかった。
しばらくして、カタリナは泣きはらした顔を上げた。
「行くわよ」
「どこへ?」
「サンプル室よ」
「どうするつもりだ?」
「……わからないわ」
「それよりも先に、三番倉庫に行って酸素とフィルターを確保しよう。サンプル室には危険がありそうな予感がする」
「予感? わかったわ、最初に倉庫に行きましょう。でもその後にサンプル室に寄るわよ」
そう言って、カタリナはずんずん歩き始めた。リュウイチは君子危うきに近寄らずと言いたいのを我慢して後を追った。
三番倉庫には、標準宇宙服用の酸素ボンベと二酸化炭素吸収フィルターがあった。ただ、三セットしかなかった。一セットで半日分であるから、ないよりはましである。今、リュウイチ達が着ている宇宙服の分、破損したポッドにある分を合わせても、二人だと二日分もない。イオからの救援母船を待つにはやや足りない。イオのカール・セルダンからは三日は待ってほしいと言われているのだ。
サンプル室の入り口には簡易エアロックも洗浄ブースもなかった。施設管理コンピュータからモニターできないと言っていたから、内部は荒れているだろうと思っていたリュウイチは、綺麗な室内に肩透かしをくった。壁に穴が開いているわけでもない。一面の壁は資料棚、二面はグローブボックスや分析機器が整然と並んでいる。部屋の中央にはコールドスリープ装置があった。リュウイチの知っているレベルIIの装置と比べると若干大きいが、透明なカプセルがあるところは同じである。ただ、カプセルの蓋は破損しており、中は空っぽであった。他に変わった点は、カプセルのそばに円筒状のオブジェがある点であろう。
「変だなあ。てっきり大気再生装置かコールドスリープ装置が動いているかと思ったけれど…… コールドスリープの方は見ての通り破損しているし、火も入っていない。大気再生装置はそもそもないし……」
コールドスリープ装置の制御パネルのを触りながらリュウイチは言った。
「何が変なの?」
カタリナが首を傾げた。
「いや、電力の二五パーセントがこの部屋で消費されていると管理コンピュータが言っていたのに、この部屋で電力が使われている形跡がない。それに、バルバラの抜け殻をここで保存していると言っていたけれど……」
「やっぱり、これが怪しいわね」
最初から怪しいとは思っていた。コールドスリープ装置の横に鎮座する円筒。直径は一メートルもない。高さは一・五メートル程。まるで、昔のミラーボールのように光沢のある無数の板が張り付けてある。一辺は二〇センチ程。
「なにか模様が描かれているわ…… 唐草模様?」
「ん! これは……『猫脳染色図譜』!、いや正確には……」
脳染色図とは、脳を薄くスライスして、特殊な方法で神経細胞を染色し、図にしたものである。これにより複雑な神経ネットワークが初めて可視化された。その中で二〇世紀末に日本人が作成した『猫脳染色図譜』が有名である。その現代版がリュウイチの眼前にあり、元はプラントルの娘の脳であろう。
「まさか、バルバラの?」
カタリナが神経をなぞるように一枚に触れた。途端に、板が動き始めた。最初に円筒の上辺の板が倒れ、一段下の板を巻き込みながら下へ下へと倒れていく。丁度バナナの皮をむくように、円筒が折りたたまれて、最後には床に環状にまとまった。
「「えっ!」」
円筒の中には少女の人形があった。薄絹のような衣が裸体を覆っており、丁度顔の部分は透明度の高いラップのようなものでおおわれている。特筆すべきは髪であろう。白く長い髪が真っ直ぐに床まで垂れて、そこで束ねられとぐろを巻いている。
「まさか、プラントルの言っていたバルバラ?」
よく見れば、顔立ちはカタリナの面影がある。一〇歳のころのカタリナと言われれば誰も納得するだろう。
「これがレベルIIIのコールドスリープ? まるで氷の彫像だな」
通常のレベルIIのコールドスリープは裸の全身をジェルに浸す。ジェルには、極限まで遅くなった新陳代謝の老廃物を吸収する役割がある。リュウイチは薄絹をレベルIIIの処方と考えたのだ。その考えはすぐに崩れる。
人形が目を開いたのだ。
「動いた! 目を開けたわ!」
アイスブルーの瞳がリュウイチを見つめ、カタリナに視線を動かした。
「生きている!」
「止まるんだ、カタリナ!」
少女に近づこうとするカタリナをリュウイチが制止した。
「どうして?」
「生きているはずがない。プラントル元所長のメッセージが正しければ、これは脳が空っぽな抜け殻だ」
「それじゃ、何で私を見つめているの? ほら、手も動かしたわ」
人形はまるで救いを求めるように手を差し伸べた。つられるようにカタリナが手を伸ばす。
「やめろ! こいつは操り人形だ」
床まで延びた髪は、髪にしては太い。整然と束ねられたそれは、人形を制御するためのケーブルの束のように見える。無表情な顔は、人形のそれである。リュウイチの制止にカタリナは伸ばしかけた手を引っ込めたが、今度は、人形の方が一歩前に進み出て、カタリナの手を取った。
「えっ!」
針で刺すような痛みがカタリナの指に走った。
「やめろ!」
リュウイチが人形の手をはたこうと手を伸ばすが、その手はもう一方の手で捕まえられた。
「んっ!」
一瞬の鋭い痛みがリュウイチを襲い、リュウイチもまた動けなくなる。
『コンタクト。実効回線速度、一・五メガビーピーエス。回線安定化措置実行中』
「だ、誰だ!」
頭頂に響く声に、リュウイチが叫ぶ。何とか腕を振りほどこうとするが、腕に力が入らない。
「もしかして、さっきの子?」
「会ったことがあるのか」
「ええ、さっき川の中で会った子と同じ子だと思う。大丈夫、落ち着いて、この子の言うことを聞きましょう」
すっかり、落ち着いたカタリナは、空いた手をリュウイチの肩に載せた。
「ん? 川の中? 俺が気を失っていた時か。で、結局、こいつは何者なんだ?」
人形が口元をゆがめてぎこちない笑顔を作った。
『質問を認識。回答、人型インターフェース』
「バルバラじゃないのか?」
『回答補足。オリジナルのバルバラを改造。これはバルバラV』
「ということはお前の本体はバルバラIか、IIか、IIIか。いやIVか」
『本体? これらはカタリナの一部』
「何を馬鹿なことを言っているんだ!」
「私の一部? そう言われれば…… 」
何かを思い出そうとでもするように、カタリナが目をつぶった。
「おい、カタリナまで…… こいつは、俺たちを洗脳しようとしている。危険だ!」
「リュウイチ、待って! この子と話がしたいわ」
『コンタクト、二回線。第一回線、プロトコル正常、上位プロセスと同定。回線多重化許可。第二回線、プロトコル異常、プロセス関係不明。遮断準備』
「待って、遮断は待って頂戴。キチンとお話ししましょう。貴方と私とリュウイチでお話ししましょう」
『上位プロセスの指令により第二回線の遮断は保留。擬似シナプス通信は一時的に遮断。一〇ギガヘルツ帯短距離通信をアクティブに変更。人格インタフェースモードに移行』
バルバラが手を離し、一瞬の間をおいて、リュウイチ達のインカム通信に割り込みが入る。
『こちらでおはなしします』
そして、あっという間に三者通話が始まる。
「ちっ、こいつは何なんだ。俺の方が第二回線か。おまけに短距離通信? そうか、ここの通信施設を乗っ取ったのか」
『このひと、やばん、きらい』
人形がリュウイチを指さし、眉をひそめた。まるで、どこかのお嬢様が汚物を見るような表情を見せた。人間と変わらぬその表情にリュウイチが顔を真っ赤にした。
「こ、この人形野郎!」
「リュウイチ、落ち着いて。リュウイチもバルバラも人の悪口を言うものじゃないわ。そうじゃないと律が乱れ、神様が怒るわよ」
いつの間にか、人形もリュウイチも信者になったようである。
『わかりました、じょういぷろせすさま』
「私のことはお姉さまと呼んで」
『おねえさま?』
「そうよ」
「ちょ、ちょっと、それは不味くないか?」
「問題ないわ」
リュウイチにカタリナが答えた。さらに続ける。
「そしてあなたのことは、バルバラと呼ぶわよ」
『わかりました、おねえさま』
「そして、この人はリュウイチ。私の恋人よ」
「えっ、あっ、そ、それは…… 光栄至極でございます」
リュウイチは顔をさらに紅潮させて応答した。
「それじゃ、これから皆で仲良くしましょう」
そう言ってカタリナはリュウイチとバルバラの手を取って重ねた。
『よろしくおねがいします。おねえさまにりゅういちさま』
バルバラが柔らかな笑みを見せた。
「あ、ああ」
一方、リュウイチは、頭を掻こうとヘルメットに手をやった。そこで、頭を掻けないことに気づく。
「それじゃ、話を進めましょう。私とリュウイチは、今、とても忙しいの。だから、今は、バルバラの相手はしていられない。だけど、後で必ず戻ってくるから、ここで、いい子にして待っていてほしいの」
『せっかくおねえさまにあえたのに…… でも、ばるばらはいいこだからまっている』
バルバラが大きな目を潤ませて言った。
「こいつ絶対猫かぶっているぞ」
リュウイチは腕組みをしてバルバラを見下ろしている。
『りゅういちははなのしたをのばしている。こいびとだっていわれていいきになっている』
「なっ、このマセガキが!」
『ばるばらは、りゅういちよりおとな』
バルバラが口を尖らせた。
「ちょっと、二人ともいい加減にしなさい! 後でいくらでも喧嘩してもいいから、今は、おとなしくして!」
「は、はい」
『はい、おねえさま。でも、ばるばらはおねえさまのやくにたちたい。いまのかだいをおしえて』
「課題? そうね……」
カタわたしリナは自分たちの状況を簡単に説明した。もうすぐインパクトがあり、避難している最中であること。空気が足りないこと。救命ポッドに不具合があること。軌道上の救助船までたどり着かないといけないこと。そして、イオに一端、戻った後に、必ずバルバラに会いに戻ると約束した。
「あれ、バルバラは避難しなくていいのか? ここだって氷津波が来る可能性があるぞ」
リュウイチが思いついたことを言った。
『ばるばらのことはしんぱいしなくていい。うみにもぐってどこにでもいける。ほとんどのばるばらはうみにいる。うみはわたしのにわ』
「エウロパの海が庭?」
『そう。りゅういちはりかいできなくていい』
「くっ、こいつ可愛くねえ!」
「とにかく、行くわよ。バルバラは短距離通信でお話ができるのよね」
『たんきょりつうしんでもいいし、うみにふれてくれれば、ぎじしなぷすつうしんがかのう』
「海? 擬似シナプス通信? ああ…… そういうことだったのね」
「えっ、どういうこと?」
「川の中で会話ができたのは、水中の中に溶け込んだルナクルVを介した通信だったのよ」
「ルナクルVって、さっき言っていた人工生命の材料?」
「そう、確か人工シナプスもあったはずよ…… もしかしたら、湯船で私の記憶を伝えてくれたのもルナクル? …… そもそも、エウロパに落下し、海に沈んだ私の記憶を読みだしたのはバルバラ? バルバラが私の記憶を回収してくれたの?」
『おねえさまのやくにたちたい。やっとあえたおねえさまのやくにたちたい。おねえさまはじょういぷろせす』
「そうだったのね。可愛い私の妹! 待っていてね」
カタリナはバルバラに抱きよせた。そのバルバラはカタリナの肩越しにリュウイチを見つめにやりと笑った。
『りゅういちはそがいいんし』
「阻害因子って、こいつ…… カタリナは渡さないぞ!」
リュウイチは拳を握りしめた。




