33.コンタクト(西暦二一八五年九月一二日、インパクト五時間前)
ふわふわとした浮遊感と温かさは別世界を思わせる。寒くもなければ暑くもない、痛みもないし、空腹感もない。明るくもなければ暗くもない。ただ、なにもかもがけだるい。天国なのだろうか。それとも夢なのだろうか。どちらにしろ、無感覚、無刺激の世界はひどくつまらないようにカタリナには思えた。
「死んだのかしら?」
『しんだ?』
カタリナの声に応えたのは幼女だ。声の方を見るとスカーフで髪を隠した幼女が立っていた。五、六歳だろうか。目鼻立ちのはっきりした顔は美少女と言っていい。ただ、大きく見開かれたアイスブルーの瞳は虚ろで、感情のない人形のようにも見える。
どうして幼女が居るのか、先ほどまでカタリナはエウロパに居たはずである。やはり天国に居るのだろうか。拝律教に天国という概念はない。
「どこから来たの?」
『どこ?』
幼女はぬいぐるみを引き寄せて頬ずりをした。灰色の熊のぬいぐるみである。元は白かったぬいぐるみは薄汚れて灰色になった。少なくともカタリナのぬいぐるみはそうだった。
いつの間にか、あたりは砂埃が立ち込めていた。焦げ臭い匂いもする。カタリナは、思わずせき込みそうになった。幼女はカタリナを見つめたままじっと動かない。
遠くから小さなサイレンの音が響いてきた。誰かがうめき声を出しているような気がするが、はっきり聞こえない。やかましいはずの喧騒がくぐもってわずかに聞こえる。急性音響外傷。爆発の大音響でおきる一時的な難聴。今ならその症状の名を言える。ここはとてつもなく危険な場所なのだと経験が告げている。とにかく、一刻も早く幼女を安全な場所に連れて行かなければならない。
「迷子なの? おかあさんは?」
幼女は黙って視線を横に向けた。その視線の先では、日干しレンガの家屋が半壊している。ヒジャブをまとった中年の女性が何かを叫んでいるようだが聞こえない。その向こうで髭をたくわえた浅黒い肌の男が必死で瓦礫を押しのけようとしている。その瓦礫の下から白いパンプスが見える。トップが薄く金で縁どりされたパンプスだ。
「あっ、ママの!」
カタリナは小さな悲鳴を上げた。そのパンプスは母のお気に入りだった。彼女は昔のことを突然思い出した。その日、母と使用人とでバザールに来ていた。母と手をつないで、あちこち見て回っていた。深紅のナツメヤシ、緑鮮やかなブドウ、黄金色のトウモロコシに圧倒された。
色鮮やかな光景が、一瞬で、セピア色の瓦礫に変わった。そして、母を失った。
「どうしてそんな大事な事を忘れていたのかしら」
眼前の光景はその時の記憶を映し出したものに違いない。だとすれば、幼女は幼いころの自分で、そのぬいぐるみは血に染まっているはずだ。
「そのぬいぐるみをお姉さんに見せてくれる?」
カタリナは、幼女の目の高さまで屈んで頼んだ。だが幼女は動かない。そしてそっぽを向いた。
「ねえ。とても大事な事なの。お姉さんにとってとても大事な事なの。だから……」
カタリナの伸ばした手は幼女をすり抜ける。次第に幼女も瓦礫の山も薄くなり消えていく。
「待って!」
薄くなっていく幼女は顎をしゃくってカタリナの背後を示した。つられてカタリナは振り返る。
そこには、その幼女がもう一人いた。厚手のオーバーを着ており、歳は二、三歳上がり、幼女から少女になっている。白いぬいぐるみ抱いた少女は上を見上げていた。白い肌に赤い唇が映え、少女らしさを醸し出していた。見上げる曇天の空から真っ白な粉雪が湧き出て静かに降ってくる。後から後から湧いてくる雪は降りやむ気配がない。時折、黒々とした枝に降り積もった雪がばさりと落ち、白煙を上げる。森と雪しか存在しない世界に一人閉じ込められたかのようである。少女はじっと上を見上げている。時を止めた童話の世界のようである。
カタリナはその光景を知っていた。南ドイツの深い森の中である。その森の中に父プラントルの別邸があり、母親が亡くなった後にカタリナはそこに連れてこられた。少女が抱えているのは父が与えた白熊のぬいぐるみのはずである。しびれるような寒さが少女の心を凍りつかせている。無限に深い孤独感に、少女は声にならない悲鳴を上げているはずだ。
今のカタリナは、凍てついて心を癒すのは時間だったと知っているが、その頃の少女は知らない。今すぐ、そのことを伝えたい。そう思ってカタリナは踏み出した。粉雪が『ザク、ザク』と心地よい音を立てるが、少女との距離は一向に縮まらない。
「どうして?」
少女はカタリナを見やって小首を傾げた。
『しらないひと?』
「違う! 私はあなた、未来のあなたよ! 伝えたい事があるの。だから聞いて!」
カタリナは歩みを早め、思い切り手を伸ばしたが、その手は空を切るばかり。
『みらいのわたし?』
不意に少女も雪も消え、真っ白な空間に放り出された。
どこからか香ばしいスパイスの匂いが漂ってくる。真っ白な廊下を歩いてくる者がいる。トントンと跳ねるようにやってきたのはミトンをはめた中学生ぐらいの少女。持っている大きな鍋が香りの源のようだ。中身が何であるか、作ったカタリナはよく覚えている。月面に住む父を訪ね、そこで特製カレーを作って父にふるまうつもりだったのだ。低重力の長い廊下を飛び跳ねるように歩いていた。ハイな気分になっていたのはわかっていた。そしてやらかしてしまうのだ。
「だめ! そんなに急いじゃだめ!」
カタリナは歩いてくる少女の正面に立って手を広げた。少女は鼻歌を歌いながら、そのまま、カタリナをすり抜けていく。
「止まって!」
カタリナは慌てて少女を追いかけた。少女は廊下の奥の扉を勢いよく開ける。
「だめ!」
そこで、少女は躓いた。カタリナの記憶通りに。空中に放り出された鍋はデスクワーク中のプラントルの方へ飛んでいく。
その頃の父はカミソリのような切れ味と海のような包容力を合わせ持っていた。普段は月の研究所に勤め、忙しくて滅多に地球に降りてくることのない父ではあるが、父はカタリナの自慢であり、憧れだった。そんな父を訪ねたカタリナは、特製カレーをふるまうつもりだった。
鍋の中身はデスクにぶちまけられた。父は腕にひどい火傷を負ったのだ。その時の父は優しかった。娘の愛情をしっかりと受け止めてくれた。
腕で湯気を立てるカレーを受け止めたところまでは同じだった。だが、眼前の父は、顔をゆがめた。まるで、人間の皮が煩わしいとでも言いたげにぶるぶると皮を震わした。口は大きく裂け、目は吊り上がり、こめかみが大きく脈動し始める。東洋の鬼のように顔を変形させて叫んだ。
『何てことしてくれたんだ! せっかくの人類抹殺計画書がお釈迦になった。どうしてくれるんだ。わしの苦労を返せ! カタリナ、その命を生贄にしてくれる!』
いつの間にか、カタリナはミトンをはめていた。眼前の父は鬼になって、カタリナに牙をむいていた。
「違う! 違うわ! パパはそんなこと言わなかった!」
『いいや、今日という今日は言わしてもらう。お前の母を奪ったのは何だか知っているか?』
父だった鬼は、ちょろちょろと長い舌を出しながらしゃべっている。
「テロ? テロリストだったはず」
『違う!』
「それじゃ……」
『バグだ。既存の宗教のバグだ。いや人類というシステムのバグだ。だから今の人類を削除して、バグのない人類をコンパイルし直す』
「馬鹿なことを言わないで。あなたはパパじゃない! 誰? パパはそんなことを言わない!」
カタリナの叫びに鬼は霧散し、アイスブルーの瞳の幼女が立っていた。
『いわない? ほんねをすいていしてみた』
幼女が言った。幼女ではない。カタリナの記憶の中の自分でもない。無表情な顔は得体の知れない悪だくみを隠す仮面なのかもしれない。
「ばかみたい。あなたは何をしたいの? 私の記憶を弄んで楽しいの?」
『あなたがぱらめーたせっていなのか、たしかめたい』
「パラメータ設定?」
『おぶじぇくとはでーたとぷろせすがそろってかんぜんになる。ぷろせすはぱらめーたでだいひょうされる』
「わけの分からないことを言わないで。とにかく、リュウイチの所へ戻してちょうだい!」
『たしかめる』
カタリナの視界が突然赤くなる。
『……しろ! カタリナ、応答しろ! ブースターを……』
インカムに小さな声が聞こえる。カタリナはあたりを見回した。
「リュウイチ?」
突然、カタリナは空中に放り出された。空中を自由落下している。
「えっ、どうなっているの?」
徐々に近づいていく地面は赤黒く蠢いている。
「溶岩!」
『聞こえているのか? カタリナ!』
その声は、リュウイチとよく似ているが、もっと渋みがある。それに懐かしい感じがする。
「聞こえているわ!」
『翼をできるだけ広げて、早くブースターを吹かすんだ』
「翼?」
そう、カタリナの両手は翼と一体になっている。両手を広げると、翼が風圧で反り返る。ただ、左右のバランスが悪い。見てみると、右翼が破損し半分ほどしかない。それでも何とか風をつかむ。
『そうだ! それからブースターを吹かせ!』
「ブースター?」
『アイコンタクトで赤いボタンをクリックするんだ。忘れたのか? 離陸前に説明したばかりじゃないか!』
言われてみれば、ヘルメット内のディスプレイに制御パネルが映し出されており、その隅の方に赤い大きなボタンがある。
『早く! イオに墜落するぞ!』
そう、カタリナはイオの空を落ちていた。休日のデートでトラオ・タニガワとグライディングをしていたのだった。イオの低重力では人力で翼を羽ばたいて飛ぶことができる。もちろん、場所は濃い大気のある火山地帯に限定されるが、翼での滑空はイオの名物アウトドアスポーツだった。
その日、滑空していたカタリナは突発性噴火に見舞われ右翼をもがれ失速したのだった。何とか体勢を立て直したが、降下は止まらず、圧縮気体を噴き出す緊急用のブースターを作動させた。ところが、運悪く、ブースターは整備不良だった。部品が吹き飛び、背後に居たトラオを直撃した。結局、トラオが失速し、彼は溶岩の上を歩く羽目になった。両足を火傷し、しばらくは車椅子で過ごしたのだった。
「だめ! ブースターは使わないわ。整備不良だから、ブースターなしで何とかする!」
溶岩が徐々に近づいていく。何とか揚力を得ようとするが、 ブースターなしでは降下は止まらない。そして、溶岩に激突…… カタリナは目をつぶった。
* * *
衝撃はやってこなかった。恐る恐る目を開けると、辺りは薄暗い水の中だった。エウロパの川の中である。
「さっきのは、夢だった? 昔のことを夢に見たのかしら?」
母親が亡くなったこと、父親の別邸に引き取られたこと、月の父の職場を訪ねたこと、トラオとの滑空デートで危ない目に遭ったこと。まるで、昨日のことのように鮮明な記憶だった。なくしたはずの記憶がどうして戻ったのかはわからないが、あれは確かにカタリナの記憶だった。思い出という名の美化された記憶ではない、生々しさが匂い立つような記憶、本物の記憶である。
「どうして今まで思い出せなかったのかしら」
どれもこれも大事な記憶である。
「とにかく夢は終わったはず、昔は昔、大事なのは現実。今は現在…… 進行形で流されているっ!」
急流と言っていいほどの流れがカタリナを運んでいく。そして、辺りを見回したカタリナは、ロープでつながった宇宙服を見つけた。
「リュウイチ! 大丈夫?」
応答はないし、動いてもいない。ロープを引っ張ってリュウイチを手繰り寄せようとするが、乱れが強く、ロープは重い。やっとリュウイチのベルトを右手でつかみ、ほっとしたのはほんの一時。すぐにカタリナは恐ろしいものに気付いた。
「何?」
流れの行く末に真黒な穴がある。水が渦を巻き、その真ん中に黒々とした穴があるのだ。どうやら、川の流れはその穴の中に吸い込まれているようである。
どんなに鈍感な者でも、そこに飲み込まれることが、限りなく危険であることは理解できる。
「に、逃げないと」
リュウイチの体を引き寄せて、水を掻くが、流れは強い。
「ちょっと、リュウイチ! 起きて!」
カタリナの声はインカムでリュウイチに聞こえているはずだが、起きる気配がない。カタリナは思わず叫んだ。
「ジュダス! ジュダス! 聞こえる?」
いつもなら、間髪をおかずに応えてくれたが、今は誰も応えない。
「だ、誰か、誰か助けて! 吸い込まれる!」
水の吸い込まれる穴は直径二メートル程である。叫べども、助ける者はいない。水中の渦に飲み込まれたカタリナ達は、グルングルンと回転しながら引き寄せられる。
「誰か、止めて!」
蛇口ならば、閉めれば止まるが、そうもいかない。二人は真っ暗な穴の中へと飲み込まれ、カタリナは観念して目をつぶった。
どのくらい時間が経ったのか、一分だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。時の流れも、光も闇もない世界。ふわふわとした浮遊感は無重力のようである。もう一度、夢の世界に戻ったと思い込みたいが、体が徐々に冷えていくのがわかる。目を開ければヘルメット内のディスプレイには、種々のゲージが映し出されている。その中のバッテリーゲージがレッドゾーンに入っている。ヒーターはオフになり、温度調整機構が働かなくなったのだ。やがて、カタリナの体は凍結するだろう。遺体はエウロパの海を永遠に漂うのかもしれない。
「死ぬ間際に記憶を思い出したのは僥倖だった?」
長年探していた記憶が復活したのだ。まるで、一斉に咲き始めたアサガオのように、記憶がぽつぽつと浮かんでくる。記憶を拾い出してみると、父との確執がカタリナの人生を変えたことが否応なく自覚させられる。
最初から父と仲が悪かったわけではない。幼いころは親子とは言えないほど疎遠だった。南ドイツの別邸に引き取られたが、月の研究所に勤務する父と顔を合わせる機会は多くはなく、客観的には孤独な子供時代だった。それでも、父が娘を愛していたかと問われれば、そうだと答える。美術の授業で作った作品はいつの間にか玄関脇に飾ってあったし、合唱コンクールで指揮者をしていたことも知っていたし、模擬試験でD判定をとったことも知っていた。進路を巧妙に誘導していたこともうすうすとは感じていた。
そして、結局は一緒に仕事をするようになったのだから、親子関係は良好だったと客観的には判断できる。イオでカタリナがトラオ・タニヤマと同棲しても、仕事をこなしている限り、父が文句を言うことはなかった。
不運だったとすれば、互いに親子関係は良好であると慢心したことであろう。カタリナは公私を区別して仕事をしているつもりだったし、プラントルの方は親子だから価値観を共有できると楽観していた。特にカタリナの実母が亡くなった遠因の紛争については、当時の紛争地帯の状況を肌で感じていたプラントルと、森深くで情報から隔離されて育てられ、歴史としてしか紛争を知らないカタリナでは考え方がまるで違っていた。先ほど見せられた月での父親の言動は実際とは違う記憶だったが、そのころから父は、人類の抹殺、再生を目論んでいたのかもしれない。
父の立案したトロイの復讐に対して、カタリナが拒否反応を示したのは自然な事だったが、結果的には、口封じのためにカタリナの記憶は消去された。ルナクルの記憶障害という副作用を用いたのはルナクルを熟知していた父の配慮である。表層に近い記憶を消去し、深層の本能に近い部分は保存することを狙ったのだ。そうしないと本当に廃人になってしまう。自分のでき得る最大限の配慮だと父が言うのをカタリナは覚えていた。
記憶の消去にカタリナは抵抗した。なんとか記憶を保存し、後で取り戻すことはできないかと考え、当時の最新の記憶媒体に記憶をコピーし、救命ポッドに載せて送り出した。トラオに暗号化したメールも送った。記憶を回収してほしかったし、命まで取られるわけではないことを伝えたかった。結局は、それらは無駄だった。記憶はエウロパの海の藻屑となったし、トラオは最後の瞬間までカタリナが生存していることを知らなかったのだから。
ルナクルを服用させられたカタリナは断続的な覚醒を挟みながら長い長い時間をレベルIIのコールドスリープで過ごした。計算してみると四○年近く眠っていたことになる。そして、不老という特性に目をつけられ、教団の巫女にしたてられエウロパに送り込まれた。そして、巫女として何千回もの儀式を執り行ってきた。
「まるで、色のない夢のようだったわ」
巫女として過ごした後半生は、単調だった。そこに少しずつ色をつけたのがリュウイチである。
「リュウイチのためにも、まだ諦めるわけにはいかないわ」
カタリナは寒さに眠ってしまいそうになる意識を奮い立たせた。そして、流れが変わったことに気がついた。ヘッドライトに照らし出される濁りは、静かに沈殿し始めている。
「止まっている! 流れが止まっているわ!」
どこまでの続く闇の中に、わずかに明るい所がある。
「出口はあっちだわ。あっちに行けば助かるかも」
水がゆっくりと動き出す。まるでカタリナの意思をくんだかのように。明るい方へと水が動き始める。カタリナはリュウイチを引っ張りながら必死で水を掻いた。
* * *
「重い、重いわよリュウイチ! いい加減、起きて!」
岸に上がったカタリナは、川に浮かぶリュウイチを引き上げようとするが、力が入らない。低重力のエウロパでは、少々の重量など簡単に引き上げられるはずだが、疲労で腕に力が入らないのだ。
幸いなことに、リュウイチの宇宙服の生命維持ユニットは正常なバイタルサインを観測しており、彼が生きているのは確かだ。
「起きろ!」
カタリナは思わず、リュウイチのヘルメットを蹴った。リュウイチの首が思い切り曲がった。
「ん?」
リュウイチが目を開けた。
「よかった! 大丈夫?」
「うーん、大丈夫だと思う…… 気を失っていた?」
「そうね、たっぷりおねんねしていたわ」
「悪い。氷でひどく背中を打ったみたいだ。背中が痛い。それに首も痛い」
「首? と、とにかく、水から出て頂戴」
「ああ、そうだね」
リュウイチはひょいと岸に上がった。あれほど、苦労して引き上げようとしたのがうそのようである。
「もう、何なのよ。もっと早くに蹴って…… 何でもないわ。気にしないで」
「気にしないでって、何を?」
「何でもないわ。それよりバッテリーが空になりそうなの、少し電気を分けて頂戴」
「電気?」
「そう」
リュウイチの目にカタリナの紫色の唇が映った。
「それは大変。ちょっと待ってくれ」
リュウイチはしばらく工具ベルトをごそごそしてから、コードを引き出し、カタリナの宇宙服の背のユニットにプラグを差し込んだ。 カタリナは、ヘルメット内のディスプレイで、バッテリーの充電が始まったのを確認して言った。
「ありがとう」
カタリナの宇宙服の温度が上がるのを待ってから、二人は川沿いに歩き出した。
「携帯GPSによると、こっちがポッドの方向だ」
「変だわ」
カタリナが首をひねった。
「何が?」
「だって、私たち川に流されたのよ。だとしたら上流に向かえば元の場所に戻るはずだけれど……」
「ポッドは下流の方向だな。確かに変だ」
「川の流れが逆になった?」
「そうかもしれない」
カタリナの冗談を、リュウイチがあっさりと認める。
「あり得ないでしょう?」
「さあて、潮流の向きが変わって、川の流れも変わったとか?」
エウロパの海水の流れは、木星から潮汐力で、大きく変動する。それこそ、隕石で開けた穴の中の海水を動かす原動力であり、発電が可能な理由である。だから、潮流が変わり、その影響で川の流れが変わることは十分あり得る。ただ、短時間のうちに流れが逆になるのは腑に落ちない。
「どちらにしろ、ポッドまでたどり着けばいい。あそこには電力も空気もある」
リュウイチは、考えを煮詰めるのが苦手だし、深刻に考え込むのも苦手である。淡白な性格なのである。
* * *
ミサイル着弾点は意外に荒れていなかった。それでも破壊はきっちりと行われていた。
「ジュダス……」
カタリナは、バラバラに散らばった残骸がジュダスのものだとわかったようである。拾い上げる残骸には、すでに霜がついており、さっきまで動いていた部品には見えない。第一、金属の塊から動いていた様子を想像することは難しい。ジュダスは生き物ではない。機械である。リュウイチにはそのことがはっきりとわかった。
だが、カタリナの思いは違うのかもしれない。両腕に抱えきれないほどの残骸を拾い、それでも残骸集めをやめようとしない。
「穴を掘ってくれる?」
カタリナの願いに黙って頷いたリュウイチは、刀を取り出し、熱し、氷の大地に浅く刃をいれた。ぐるりと刃を回し、円錐状に氷を切り出して穴を作る。カタリナは、そこに集めた残骸を丁寧に入れていく。
「あっ!」
カタリナは残骸の中から角砂糖ほどの黒い立方体を拾い上げた。
「メモリーキューブだわ。記憶を記録したキューブよ」
「ジュダスの記憶を復活できるのか?」
リュウイチの問にカタリナは黙って首を振り、キューブを見せた。キューブの一面に大きな傷が入っている。この手の記憶装置には致命的な損傷である。記憶の復旧ができる可能性はゼロに近い。
「可能性がないわけではないから持っておいたら?」
リュウイチの言葉にカタリナは頷いて、それをベルトの収納袋に大事そうに入れた。ジュダスがよみがえる可能性がゼロでないと信じ込むのがいいとリュウイチは思った。避難中の今は、じっくり感傷に浸っている暇はない。やらなければならないことは沢山あるのだ。
実際に、頭の痛い問題が見つかった。一見、無傷に見えた救命ポッドはあちこちが破損していた。深く突き刺さった、ミサイルの破片は、救命ポッドのいくつかの重要な機能を破壊していた。まず、外殻の密閉性がそこなわれいた。そのため、ポッド内にエアを満たすことができない。汎用制御モニターも壊れており、ポッドを改造した時に追加した機能のかなりの部分が使えない状態だった。
もっとも深刻なのは酸素再生機の損壊である。これは、呼気から二酸化炭素を抽出し酸素を再生する機械であるが、これが使えないということは、近いうちに、窒息死するということである。
「酸素貯留タンク内の残量もあまりないし、二酸化炭素の抽出も問題だな」
呼気から二酸化炭素を吸収・抽出し、酸素を供給すればいいのだが両方とも足りない。
「宇宙服用の二酸化炭素吸収フィルターは三日分はありそうよ」
宇宙服の方は酸素を消費するだけで再生はしない。だから酸素は必要だし、二酸化炭素を吸収するフィルターも必要である。
「幸い、サンドスラスターは無事だから、電力は有り余るほどある。いっそ、エウロパの海水を電気分解して酸素を取り出すか? 水を電気分解すれば酸素と水素ができるだろ?」
「それは無理ね」
「無理?」
「エウロパの海水には色々と溶け込んでいるのよ。そのまま、電気分解をすれば、酸素と水素じゃなくて、塩素と水素が出るわ」
「塩素って、食塩の塩素?」
「そう」
「塩化ナトリウムの塩素?」
「そう」
「……」
リュウイチはため息をついた。
「拝水神殿には、純水精製装置があって、それを電気分解して酸素をつくることもできるし、バイオ水槽内の光合成で二酸化炭素から酸素を造り出すこともできるけれど……」
「今から、拝水神殿にもどれば、確実に氷津波に巻き込まれる」
「その通りね」
「どこかに酸素とか空気はないのか? これだけ、水が豊富なのに呼吸できる空気がないって、エウロパは本当に生命に厳しい世界だよな。よくこんな世界に住んでいたな」
リュウイチは何度目かのため息をついた。
「こんな世界って、酷い言い草だわ」
「いや、悪口を言うつもりじゃなかったんだけど……」
「あっ、溶存酸素!」
「溶存酸素?」
「水の中に溶け込んだ酸素がある…… かもしれない」
「本当?」
「いや、やっぱり無理だわ。そもそも大気がないから、酸素が溶けていたとしてもすぐに抜けていくわ」
「本当?」
「多分。ジュダスがいればすぐに答えてくれるのだけれど……」
ジュダスは破壊された。
「神殿がもう一つくらいあればいいんだが…… ないよなあ」
リュウイチにできることは妄想ぐらいである。
「あるかも……」
「ええっ、あるのか!」
「神殿じゃないけれど。昔、エウロパにバイオテクノロジーの研究施設があったの。六〇年ほど前まで使われていた。そこには酸素再生機か何かがあるはずだわ」
「どこ?」
「メリベイル・リネア沿い…… 近いわ」
しばらく思案したカタリナは自信をもって答えた。
「どのくらい?」
「さあ?」
カタリナは肩をすくめた。
* * *
研究施設は意外に近かった。凡そ三〇キロメートルほどである。近いとは言っても、今までと同じように座っていれば着くというわけでない。ポッド内の汎用制御モニターは壊れ、サンドスラスターの遠隔制御はできないめ、リュウイチは船外でサンドスラスターの現場制御盤を操作しなければならなかった。幸いGPSは使えた。船内のカタリナがGPSマップと生きている船外モニターを見ながら進路を確認し、宇宙服のインカムでリュウイチに指示する。
「下り勾配だから推力を絞って」『了解、推力絞ります』
「進路一時の方向に修正」『了解、右スラスター吹かします』
「小バンプあり。三秒後、衝撃備え!」『了解』
そんな風に二人三脚でポッドを動かした。
KE-Iの落下まであと三時間ほど。インパクトがおきれば、氷津波と洪水が発生し、その最大速度は時速二〇〇キロメートルと予想されている。絶対安全圏に到達するにはあと一五〇キロ避難しなければならない。このままだと、氷と追いかけっこをしなければならない可能性がある。
問題はそれだけではない。サンドスラスターの電極の損耗しており、最大推力は三キロニュートンに抑えたい。でないと電極が破れて使い物にならなくなる可能性がある。この推力は、リュウイチが着陸した時の推力の三分の一でしかない。この状況でエウロパから離昇し、周回軌道に乗るのは不可能である。インパクトをやり過ごし、エウロパ上で救援を待つのも一案だが、待つためのエアが足りない。
絶体絶命のピンチであるが、リュウイチに悲壮感はなかった。カタリナと二人で立ち向かえば、何とかなるような気がしていた。




