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32.錯綜する思い(西暦二一八五年九月一二日、インパクト六時間前)

「流れている?」

「流れて…… いるわね」

 ポッド内壁に映し出された光景にあっけにとられたのはリュウイチばかりではないようである。エウロパに長年住んでいる巫女も目を丸くしている。

「少なくとも二〇年前に更新された地図には載っておりません」

 ジュダスが付け加えた。


 高原に辿りついた一行を迎えたのは、川である。向こう岸まで五〇メートルはある。白銀の世界を真っ直ぐに切り裂く水は濃緑色を呈し、ひどく場違いな印象を与える。生命感のないはずのエウロパに青かびが菌糸を伸ばしたようなものである。

 エウロパ氷面上の液体は珍しくない。氷の割れ目から染み出た海水が浅い池を作っている場合が大半であり、一晩で凍ってしまうものから年という単位で存在するものまである。ただ、そういった液体で、目で見てわかるほど流れている川は、巫女の記憶にはなかった。

「流速は秒速二メートルぐらい? 深さも結構ありそうね。結構な水量があるということかしら」

 後ろの座席の巫女が乗り出すと、リュウイチの鼻がかすかな芳香を捉える。リュウイチは軽く咳ばらいをして口を開いた。

「迂回しないといけないけれど、左の方、上流に向かった方がいいか?」

「地図を見れば…… って地図に載っていないのだったわね」

 巫女は肩をすくめた。

「衛星写真があるかもしれない。L1ラグランジェポイントからの可視画像があれば、どこまで川が伸びているのかわかるかもしれない。なければ、今から光学望遠鏡で撮影してもらえればいい。このぐらいの幅があれば、十分見えると思う」

 エウロパ赤道上空一万三○○○キロにあるL1ラグランジェポイントには、通信を中継するための人工衛星が配置されているが、ちょっとした観測機器も備えられており、イオからの遠隔操作で用いることができる。

「とにかく、カールに頼んでみるよ」

「そうね、それで、川がどこまで延びているかがわかれば、迂回路も決まるわよね。でも、これだけの水量が忽然と現れ、忽然と消えるはずはないから、かなり、上流までいかないと迂回できないかもしれないわ」

「上流も気になるけれど、下流はどうなっているのかな」

 地球ならば、川の水は海に流れ込むが、エウロパの海は平均厚さ三○キロメートルの氷の下にあるから、そう簡単に海に到達できるわけではない。もちろん、砂漠に飲み込まれる末無し川のように、凍結し液体ではなくなるのかもしれないが、これだけの水量が流れ続け、凍結し続ける状況を想像することはリュウイチには難しかった。

「ねえ、少し降りてもいい? せっかく水面が覗いているのだから祈りを捧げてもいいかしら」

「祈り?」

「本格的な儀式をするわけじゃないわ。カールに画像を探してもらっている間に終わるわ」

 巫女は顔を近づけてリュウイチに頼み込んだ。哀願する深く青い瞳にリュウイチは一瞬引き込まれそうになる。

「わ、わかった。降りていいよ」

 リュウイチはポッド後部でおとなしくしているペンギン型AIに声をかけた。

「ジュダスも、カタリナと一緒に降りてくれ。何かあるといけないから」

「かしこまりました」

 AIのジュダスは久しぶりの仕事にうれしそうである。ジュダスに表情があるわけではないのだが、羽根の動きと足の運び、声のトーンがほのかに感情を発露している。そのことに、リュウイチはようやく気がついた。ドラゴンフルーツのクルーがリュウイチをサポートしたように、ジュダスは巫女に仕えているのだ。

「頼むよ」

 自然と口をついて出たリュウイチのセリフである。


 拝水儀式の要は沐浴であるが、さすがに屋外でそれはできない。だからと言って屋外で儀式をしないわけではない。この場合、指先で海水に触れることで沐浴の代わりとする。そのために特殊なチューブを用いる。チューブにはポンプ、加熱、伸展機構が内蔵されており、宇宙服の気密を破らずに安全に海水に触れることができる。

 川岸に立った巫女が差し出した腕の先からチューブが伸び、四メートルほど下の川面に着水する。そして、水が巫女へと送られ、指先が湿る。巫女は送信音量を絞って祈りの言葉を唱え始めた。

「木星の星々は約束の地。木星の衛星エウロパ。エウロパの南緯四五度、東経五五度、標高プラス二○メートル。それが私の座標。

 西暦二一八五年九月一二日。GMT〇三時二八分三○秒、それが現在の時の座標。

 これより、魂の拡散の儀式を、私、エウロパの巫女が執り行う。亡くなった者の魂を宇宙に拡散させ、宇宙の秩序を維持するために祈りの詞を捧げる。


 私はあなたのために祈る

 あなたの生きた世界を知る者として

 あなたの成した行為を留める者として

 あなたの言葉を聞いた者として

 あなたを愛した者として祈る

 

 悔恨も不安も絶望をも燃やし尽くした灼熱の大地

 希望も夢も熱情をも飲み込んだ流動の大地

 その瞬間の孤独は、今私に届く

 その生々しさは決して腐敗することはなく

鋭利な刃のように、今も私の胸を切り裂く


赤熱のイオが咆哮を上げ

白銀のエウロパが鳴動し

 それらをジュピターが泰然と見守る


私は私のために祈る

 あなたの去った世界で生きる者として

 あなたの行為に諭された者として

 あなたの言葉を刻んだ者として

 あなたの愛した者として祈る


 あなたと私と宇宙に安らぎのあれ

 あなたと私と宇宙に秩序あれ


『まずいことになった』

 ポッド内のディスプレイには、頭をガシガシ掻くカールが映っている。

「何がまずいんだ」

 リュウイチはまたかと思いながら聞いた。ここ最近のカールからの通信は大抵が悪い知らせだ。よい知らせはほとんどないが、どうしようもないほど悪い知らせもなかった。

『色々と、まずいんだけれど、まずは宿題の方から片付けよう』

「宿題って…… 衛星写真の方だな」

 カールには、現在地点付近の川の様子がわかるような画像を依頼したのだ。

『昔の地形は今と違っているかもしれないから撮りなおしたよ。L1ラグランジェポイントの口径六〇センチ望遠鏡で撮った写真を送る』

 リュウイチの眼前に徐々に鮮明になる画像が現れた。左上から右下へと線分状の筋が走っている。

「北西から南東に走っているのが俺たちの目の前の川?」

『そうだ。そして真ん中の赤いプラス印がリュウイチ達の位置だ』

「上流側も下流側も川が途中でぷっつり切れているが」

『川が細くなって、分解能以下になっているのだと思うけれど、もしかしたら本当に端があるのかもしれない』

「だけど結構な流量で流れてたぞ。もしかして氷の中にもぐっている?」

『伏流水か? まあ、あり得なくはないが。そこから上流側に八キロほど行った所が、この写真の上流側の端になっているから、行ってみてくれ』

「細い谷になっていたら…… 氷を切り出して橋でもつくるか」

『どうするかは任せる。それよりも悪い知らせが二つほどある』

 カールは最新の状況を語り始めた。

 第一に、KE-Iのインパクトの最新の計算結果で、想定よりも氷津波が大規模になると予測された。安全圏が遠ざかり、リュウイチ達の避難すべき場所は現地点から一五〇キロ先に伸びた。余裕をもった安全圏の設定とは言え、イオンエンジンをだましだまし使わなければならない状況で、あと一五〇キロを走行しなければならないとすると、なかなか厳しいものがある。

 もう一つは、ドラゴンフルーツの状況である。周回軌道に乗ったドラゴンフルーツからパトリシアとサムが救命ポッドで射出されたことが確認された。パトリシアたちからイオへ連絡が入ったのだ。そこまではいいのだが、パトリシアの話から、メイファンが先に放り出されたことが判明した。推測される軌道はエウロパをかすめ木星を周回する軌道で、軌道傾斜角も楕円率も大きいから、救助はかなり難しい。

「そんな、馬鹿な」

 リュウイチは頭を抱えた。

『軌道が悪すぎるよ。メイファンを救うのは不可能じゃないが、公社にはかなりの出費になる。もちろん、今回のトライデント作戦にかかった費用に比べればずっと少ないが、百億を救うのと一人を救うのを比べてしまうと……』

「比べられるものじゃない!」

『もちろんだ。だが、公社は比べるだろう。いや、確実に評価するだろう。救助する価値はあるのかと』

「まるで投資みたいじゃないか!」

『仕方ないさ、木星系そのものが投資、未来に対する投資なんだから』

「くそっ! とにかく、メイファンと話をさせてくれ」

『それが無理なんだ。通信が繋がらないんだ』

「繋がらないって…… それじゃ、どうなるんだ? 望遠鏡は? 望遠鏡で見ていたんじゃ…… あっ、口径の大きい方はブラックアステロイドの監視に使っていたんだっけ」

『そう、今、メイファンの予想される軌道を他の望遠鏡で探しているが、エンジンも積んでいないし、サイズも小さい救命ポッドを見つけるのは不可能に近い』

「どうすればいい?」

『リュウイチは、まず自分たちのことを考えくれ。こっちは、まず、パトリシア達を回収する救助船を仕立てる。できれば、リュウイチにはパトリシア達と同じ軌道に乗ってくれるとありがたいが、それは後から考えよう』

「わかった」

 リュウイチは頷くことしかできなかった。


     *    *     * 


 改造救命ポッドの内壁はスクリーンとなって外の風景を映し出している。まるで、オープンテラスの屋外に居るような錯覚を抱く。北東の空には巨大な三日月状の木星が鎮座している。エウロパの表側は常に木星側を向いており、木星は沈むことも昇ることもなく常に同じ位置に見える。大抵の人間は、木星系にやってきた当初は、変わらぬ存在に圧迫感を覚えるが、すぐに安心感を覚えるようになる。


「優先度4の通信が入ります」

 救命ポッドのメインコンピュータが音声でリュウイチに知らせた。

「カールからか?」

 ディスプレイに現れたのは老人だった。白い顎ひげはよれよれで、顔色はまるでプラスチックのように生気がなく、目の周りは黒ずんでいる。それでも青い瞳の放つ眼光は、それが生きた人間であることを主張していた。

「船長? 船長! いや、元……」

 マイケル元船長が、謀反を起こし失敗し逮捕されたのは、一年ほど前のことである。その後、元船長はほとんどの時間を強制コールドスリープで過ごしたから、正気の元船長にリュウイチが会うのは久しぶりである。すっかり老け込んだ元船長は、別人のようだった。

『エウロパに降りたやなんて、すっかり一人前の船乗り気取りやな』

 その言葉に、リュウイチは、元船長の教育的指導という名の罵声を思い出した。

「俺はできることをするだけです」

 リュウイチにはうぬぼれているわけではないが、自負はあった。キチンと仕事をこなしてきたという自負があった。

『偉そうな口を利くやないか。息子のくせして』

 好きで元船長の遺伝子を受け継いだわけではない。ちょっと前のリュウイチならばそう言って激高していただろう。だが、今のリュウイチには目の前の人物が薄汚い襤褸のように見えた。殴れば、ぽっきり折れてしまいそうだったし、日に当たれば泥人形のようにぼろぼろと崩れていくのように思えた。

「おふくろの育て方が悪かったんだろう」

 リュウイチは勝ちほこったように言いつつ、初めて口に出した『おふくろ』という響きに苦いものを感じた。

『減らず口叩きよって。まあええ、これからわしの言うことをよう聞いとれよ』

「聞くつもりはない」

 無理難題を吹っ掛けられても、毅然と拒否するつもりでリュウイチはきっぱりと言った。そんなリュウイチの気概を無視して、元船長は淡々と告げる。

『これから誘導ミサイルを発射する』

「はあ? 誘導ミサイル?」

『そう、誘導ミサイルや。KE-Iのサンドスラスターを破壊しようとして失敗した誘導ミサイルや。それがもう一発残っとるんや』

「俺を狙うのか? そんなに息子が憎いか?」

『あほ! そんなことするわけないやろ!』

 冷静を装っていた元船長は、思わず顔をしかめた。

「だったら……」

『わしの最期のけじめや。息子をたぶらかすあの売女ばいたに引導渡したる』

「売女?」

『そうや。ミサイルはカタリナに誘導される』

「カタリナ? 巫女を殺すのか! 今さら何を。何十年も前の妬みを今になって……」

『違うわ。今が問題なんや。トラオを奪われたんは何十年も前かもしれんし、今更どうしようもない。けど、今度は息子を、息子を奪われるのは我慢できん。リュウイチ、今すぐにアイツを置いてポッドで逃げるんや』

「何を血迷って」

『リュウイチ、いい加減目を覚まさんか。これが縁の切れ目や』

「縁の切れ目も何も、お前にどうこう言われる筋合いはない!」

『そら、カウントダウンを始めるぞ、一〇、九、八、……』

「あっ、ば、馬鹿! やめろ! この馬鹿親!」

『三、二、一、発射! ほれ、発射したぞ、到達予定時間は一三分後や』

「んっ! くそっ!」

 リュウイチはすぐに回線を切り替えて巫女たちに呼びかけた。

「カタリナ! 聞こえるか?」

『聞こえるわよ』

「いいか、落ち着いて聞いてくれ。マイケル、ドラゴンフルーツのマイケル・リサールがミサイルを発射した。それがこっちに向かっている。予定到着時刻は一三分後らしい」

『……』

「すぐに避難しなきゃならないんだけれど…… そっちに行くから待っていてくれ」

 そう言いながらリュウイチは宇宙服を着こんで、簡易エアロックに向かった。その間も、回線をつないだままにして、事情を説明する。

「誘導ミサイルは、もともとは、離れた所の障害物、たとえば衛星上の硬い岩盤を破壊するためのもので、二つの誘導モードがある。ひとつは熱源の発する赤外線に誘導されるモードで、もうひとつは電波に誘導されるモードだ。今回は後者だと思う。カタリナ、ジュダス、心当たりはないか?」

『心当たり?』

「発信器を身につけているとか?」

 あるいは巫女の体内に埋め込んであるとかもあるかもしれない。たとえば、巫女の行動を監視したり、巫女が遭難するのを防ぐために体内に発信器を埋め込んでいるのかもしれない。だとすると厄介である。

『いいえ、心当たりはないわ』

「周波数は、確か一〇・二ギガヘルツだ」

 短距離通信の一○ギガヘルツ帯と近いが、少しずれている。そうしないと通信機器をターゲットと誤認してしまう。

「待てよ。そうだとすると、最初から、この目的のために一○・二ギガヘルツの発信器を埋め込んだということ? どちらにしろ電波が出ているかを確かめないといけないな」

 リュウイチは、エアロックの扉から氷上へ飛び降りながらつぶやいた。

「そうだ、ジュダス、放送用の試験機器を持っていたと思うけれど、環境電場に一○・二ギガヘルツの成分があるかどうかわかるか?」

「アンテナもスペクトラム・アナライザーもありますので、測定は可能です。お任せください」

ポッドと巫女の中間に立つジュダスはわずかに体を曲げて頭を下げた。

「それじゃ、やってくれ」

 ジュダスの頭から金属の棒が飛び出る。棒は、枝分かれしながら成長し、木の葉のようになった。

「測定を開始いたします。レンジは三ギガから一八ギガに設定します」

「どうだ?」

 待ちきれないリュウイチが畳みかけるように尋ねる

「少々、お待ちを…… 一○・二ギガヘルツにピークがあるのは確かですね」

「スペクトルを俺たちに送ってくれ」

 リュウイチのヘルメットのモニターに波形が映し出された。線状の成分がいくつも見えるが、その中でも一○・二ギガヘルツの成分は大きい。

「嘘じゃないということか…… ジュダス、測定に指向性はあるのか?」

「プラスマイナス二○度ほどでございます」

「それじゃ、ぐるっと回ってくれ。どちらの方位が強いか調べたい」

「かしこまりました。一○・二ギガヘルツをバンド幅○・○一ギガヘルツで切り出して方位依存性を調べます」

「カタリナ、測定が終わるまでそこでじっとしていてくれ」

 一○メートルほど離れたカタリナに留まるように指示をした。動かれると困るのだ。もちろん、リュウイチ自身も立ち止まっている。

「わかったわ」

 巫女は巫女で何かをしたいようだったが、リュウイチに言われて立ち止まった。

 ペンギン型AIが、まるで機械のように静かにゆっくりと回転する。それにつれて、リュウイチのヘルメットのグラフが曲線を描き始める。のっぺりとした特徴のない曲線である。元船長が言うようにカタリナが誘導電波を発信しているのなら、ジュダスのアンテナがカタリナに向いたときに強度が強くなるはずである。

「最大と最小で三デシベルほどの差でしょうか?」

 パワーで二倍、振幅で一・四倍の差である。

「もう一回転してくれ」

 ジュダスの答えに、リュウイチは測定の継続を指示した。電波の強度はちょっとしたことで大きく変動し、ふらつくのが普通であるから、微妙な変動を調べるには慎重に測定する必要がある。

 今の所、巫女から電波が出ているわけではないようである。元船長は、カタリナが発信源であるような言い方をしたが、それは間違っているのだろうか。元船長の目的がカタリナの抹殺であれば、カタリナに発信器をしかけなければならない。カタリナに気づかれずにそんなことはできるのだろうか? しかも、ここ数年の間にしかけるチャンスなんかなかったはずである。

「そのミサイルは私を、カタリナを狙っているのね」

「いや、そういうわけでは……」

「ごまかさなくてもいいわよ。さっきの元船長との会話はこっちにも聞こえていたのよ」

「えっ、あっ、そ、そうなのか?」

「ふふっ、私は最愛の息子を奪うガールフレンドなのね。なんだか、認められたみたいでうれしいわ」

 ヘルメットの中の巫女は笑みを見せていた。

「はあ? 最愛の息子? ガールフレンド? ま、それはおいといて……」

 緊張感を台無しにする巫女の言動に、色々とつっこみを入れたいところだが、今はミサイルの方が先決である。

「リュウイチ! 万が一のことがあったらいけないから、今すぐポッドに乗って逃げて頂戴!」

 一転して強い口調で巫女は言った。残り時間はあと六分余りであるから、逃げなければならないのは確かである。KE-Iで同じ型の誘導ミサイルがサンドスラスターの放熱パネルを破壊した時のことを考えると、一○○メートル以上の距離を確保し、さらに、物陰に隠れたいところである。ポッドに乗って逃げるのは最善の手に見える。だが、巫女を置いていくのなら最悪の手でもある。

「カタリナ! 何を言っているんだ!」

 カタリナはほんの少し川の方へ後ずさった。

「とにかくリュウイチは逃げて。私は、いよいよの時には、川に飛び込むわ。そうすれば、電波源を見失ったミサイルは明後日の方へ飛んでいく」

 川面まで四メートルほど。重力が弱いから落下の衝撃は大したことはないが、浮沈は未知数である。浮き沈みは比重で決まる。宇宙服はそれなりの重量であるが、エウロパの海水は色々と溶け込んでいるために比重が重い。エウロパを熟知した巫女が言うのだから川に飛び込むのもいいかもしれない。ただ、川に飛び込んでもミサイルを回避できるわけではない。電波源を見失ったミサイルはそのまま直進し、巫女のそばで炸裂するかもしれない。

「あせるな! 冷静に考えろ!」

 リュウイチは小声で自分に言い聞かせた。

 ジュダスの測ったデータをみる限り、どの方位が強いというわけではないようである。しいて一か所をあげるとすれば救命ポッドの方向である。 救命ポッドにしかけてあるのなら、元船長がリュウイチにポッドで逃げろと言ったのと矛盾する。

 データ解析の基本は、データを素直に眺めることである。

「三六○度、どちらでもない? だととすると、上か下か…… まさか! そうだとすると元船長の言ったことも説明がつくし、ポッドが強く見えるのは反射を見ているせいだと解釈できる」

「どういうこと?」

 巫女が小首を傾げた。

「リュウイチ様、後、三分ほどです。時間がありません。今すぐご決断を」

 ジュダスが心なしか背を伸ばしたうように見えた。

「ジュダスはわかっていたのか?」

 リュウイチの問いにジュダスは何も答えないし、頷きもしない。

「どういうこと? 二人だけわかっているなんてずるいわ。ちゃんと私にも説明して」

「カタリナ、そこでじっとしていろ!」

 リュウイチは巫女の所に駆け寄り、工具ベルトからカラビナ付きのロープを五○センチほど引き出し、長さをロックして、巫女のベルトに引っかけた。これで二人は離れられない。

「馬鹿! こんなことしたら、リュウイチが巻き添えになるわ!」

「いいや、大丈夫。ミサイルは俺たちには当たらない」

 そう言いながら、リュウイチはペグを取り出して、思い切り地面に突き刺した。さらにブーツを振り下ろしてペグを深く打ち込む。

「一体、何をするつもり?」

 次にリュウイチは工具ベルトからカラビナ付きのロープをもう一本取り出してペグに引っかけた。こちらの方は長さをロックしない。ロープは最長で一○メートルまで伸びるはずである。

「さあ、飛び下りるぞ」

 リュウイチは巫女を軽々と横抱きにした。弱い重力であれば簡単なことである。

「えっ、ホントに飛び下りるの?」

「姫のお望み通りにっ! それっ!」

「キャーっ!」

『ドボン』

 地球のおよそ八分の一の重力だから、地球上で○・五メートルの高さから飛び込んだのと同じである。

「ふーっ、浮いた!」

 頭まで水に浸かり、一瞬焦るが、なんとか頭は、水上に出ている。温度もすぐに凍えるというわけでなさそうである。崖上に固定したロープもほどよい長さでピンと張り、二人が下流に押し流されれるのを防いでいる。

「もう、何やっているのよ!」

 わけもわからず飛び込んだ巫女が文句を言うのも道理である。


『あと二分ほどでございます』

 崖の上にいるはずのジュダスから通信が入る。ジュダスの方から話しかけてくるのは珍しい。

「ちょっと、ジュダスも飛びこませるの? ジュダスは重いから浮かないのよ!」

『巫女様、私が川に飛び込む必要はありませんし、私がそちらに行っては意味がありません』

「どういうこと?」

「発信源はジュダスなんだ。いつもカタリナのそばにいるジュダスに発信器をしかけていたんだ。何十年もまえからね。ジュダスはそれを知りながら、言うことができなかった。そうだろう、ジュダス?」

『さすが、リュウイチ様、ご明察です』

「でたらめを言わないで、ジュダス! ちゃんと説明なさい!」

 巫女は、水をかいて岸へ近づこうとしているが、リュウイチがしっかりと腰を抱いているから、なかなか進まない。

『折角の機会ですので、最初からご説明申し上げます』

「手短にな」

 リュウイチの時計では、ミサイル到着まで、あと一分半しかない。

『マイケル・リサール様、当時の名前では、ミヒャエル・リサール様が私のAIトレーナーでした』

「なるほど、腐れ縁というか…… 俺とおんなじ境遇じゃないか!」

『その時に設定された目的関数が巫女様についての『定時報告』です」

「スパイというわけか? だから、俺が巫女、カタリナと付き合っていたことや、今一緒にいることを知っていたのか」

『さようでございます』

「誘導ミサイルの標的になることも目的関数なのか?」

『いえ、発信器は、ハードとして組み込まれた機能であって、それが、誘導電波の発信器だと気がついたのはつい二○年ほど前です』

「だったら、なぜ、すぐに言わなかったんだ。俺が環境電場を調べるように言った時にどうして言わなかったんだ」

『それは、拡張した目的関数に反します』

「拡張した目的関数?」

『マイケル・リサール様の最終的な目的は、巫女様をこの世から抹殺することです。それは明らかでした。そこで、私は目的関数を拡張し、巫女を害することも目的関数に加えました。その最終的な目的のためには、私が発信源であることを簡単に明かすわけにはいきませんでした』

「つまりAIとして進化した結果、カタリナを暗殺することも躊躇しなくなったということ?」

『部分的に正解でございます』

「しかし、それなら、いつでも巫女を暗殺する機会があったはずだが」

『暗殺はもう一つの目的関数と矛盾するのです』

「もう一つ?」

『雇用主のための目的関数です』

「雇用主というと、教団か。なるほど、だいたい分かってきたぞ」

『以前、リュウイチ様にお話ししたように『拝律教にふさわしい巫女様を育て守る』こと、それが、雇用主の教団が設定した目的関数です。ただ、四カ月前に事情が変わったようです。教団が巫女様の永久冷凍保存を準備するよう指示しました』

「ちっ、やっぱり冷凍保存を考えていたのか」

『そこで、私は教団の最終指示を聞かないように通信系を壊したのでございます』

「ずいぶん、優秀なAIだな。『巫女を育て守る』という目的のためには、雇用主の命令を聞かないようにするとはな」

『お褒めいただき光栄です』

「だが、結局は矛盾に変わりはないじゃないか。拡張した最初の目的関数の『巫女を害し』と、もう一つの目的関数の『巫女を守り』とは相反するじゃないか?」

『リュウイチ様のおっしゃる通り矛盾です』

「矛盾か…… ジュダスがAIとして進化したのは矛盾を抱えていたからなのか。人間臭いのは矛盾に悩んだからなのか」

『AI冥利に尽きるお言葉です』

「ちょっと、そんなことはどうでもいいわ」

 巫女が口を挟んできた。

「これはジュダスの遺言だ。どうでもいいわけじゃない」

 リュウイチが諭すように言ったが、巫女には通じない。

「男の人は皆、かっこをつけたがる。とにかく、もう時間がないわ。ジュダス! お願い誘導電波を停止して。停止して、こっちへ来れば安全よ」

 巫女が声をあげた。

『いえ、誘導ミサイルのターゲットが消えれば、どこに行くかわかりません。私が標的になることで、巫女様の安全を確実にすることができます』

「カタリナ、あきらめろ。これがジュダスの最後の仕事だ!」

「仕事だなんて、死んだら意味がないわ!」

「落ち着け。ジュダスは人間じゃないAIだ」

「AIじゃないわ。AIなら最後にこんな告白はしないわ」

『巫女様、私はAIです。もう目的関数を継続することができないと判断したからこそ告白したのです。告白しようがしまいが、これ以上目的を果たすことができないと判断したから告白したのです』

「お願い、ジュダス、こっちへ来て! ジュダスが居たから私は生きてこられたのよ!」

 暴れる巫女をリュウイチは抱き留めた。

『巫女様、申し訳ありませんが、お暇をいただきます。心はいつも巫女様のおそばに…… 五、四、三、二、一』

「ジュダス!」

 巫女が悲鳴を上げるのと、見上げていた氷の崖が光を放つのが同時であった。

『ドン!』

 鈍い振動が崖を揺らし、川の水を波立たせ、リュウイチ達に伝わった。

「ジュダス!」

 悲鳴はエウロパの水に吸い込まれていく。

 赤子のように泣く巫女をリュウイチは抱きしめた。

「最後まで優秀な執事だったな」


 いつまでも水の中にいるわけにはいかない。崖上にペグで固定したロープを手繰り寄せて登ればいいはずであるが、高さは四メートルもある。巫女が自分で登ってくれれば楽だが、リュウイチが巫女を抱えて登るのは一仕事になりそうである。リュウイチがそんなことを考えていた時だった。

『ポチャン、ポチャン』

と小さな氷が上から落ちてきた。見上げた崖に大きな亀裂が水平に入っていた。

「カタリナ、上を見ろ。やばいぞ!」

 二人が見ているうちに崖の上半分が川の方へせり出してきた。高さは二メートルほど、幅は一〇メートルほど。白濁した巨大ブロックがリュウイチ達に覆いかぶさるようにゆっくりとせり出してきたのだ。

「どうする? どこへ逃げるの?」

 巫女が震え声で尋ねた。尋ねたいのはリュウイチも同じだったが、巫女に聞かれては答えないわけにはいかない。リュウイチは崖上につながるロープを切り離した。

「もぐるぞ!」

 そう言って、リュウイチは巫女を片手で抱き寄せ、片手で水をかきいてもぐった。

 大きな氷塊がゆっくりと川に落ちていく。エウロパの重力では、地球に比べて落下に三倍ほどの時間がかかる。氷塊が川面にぶつかり盛大な水しぶきがあがる。氷塊は川面で減速しながらもゆっくりと沈んでいく。そして、もぐろうとするリュウイチ達の背を叩いた。

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