31.時空を超える思い(西暦二一八五年九月一二日、インパクト七時間前)
漆黒の闇に鈍い輝きを放つ円柱が浮かんでいる。ギリシャ神殿の柱を丸々一本切り取ったようなそれは、全長一〇〇メートルあまりの凍結化学燃料である。ドラゴンフルーツが必要な燃料を切り取って放り出した残燃料である。通常ならば、残燃料を使ってイオ周回軌道まで帰投するはずであるが、謀反を起こした元船長が律儀に公社の規則を守るはずもなく、放置されている。もっとも、長距離通信用のアンテナを破壊されているから、もはや誰にも制御できるものではない。そういった凍結化学燃料が辺り七〇キロ四方に広がっており、徐々に四散し始めているのだが、メイファンはその一つを回収しようとしていた。
直径五メートルの円柱に、けし粒のような白い宇宙服が徐々に近づいていく。靴底のスラスターから断続的に気体が吹きだし、その一部が細かな氷となり雪となり、辺りに広がる。雪は弱い太陽光をキラキラと散乱するが、円柱の影に入った途端に闇と同化して見えなくなる。
そんな幻想的な光景に見とれる余裕は、メイファンにはない。
「このぐらい減速すればいいわよね」
二本の長めのドライバーを逆手もち、徐々に近づく円柱に目をすがめた。
『ドクン、ドクン』
高まった鼓動がノイズのようにメイファンの集中力をそごうとしている。
「三、二、一」
円柱に足が着くや否や屈曲させ、勢いを殺す。そして、両手を振り下ろす。
『ザッ』
ドライバーが凍結燃料に打ち込まれ、メイファンの体を固定する。
「タッチダウン成功!」
メイファンは、頂を初めて制覇した登山家のように高らかに言った。リュウイチや元船長が何百回と行ってきた一工程であるが、メイファンにとっては初めてである。ここに着地できなければ、綱渡りの綱を踏み外した軽業師よりも恐ろしいことになる。落ちていく先に地面はないし、回収してくれるドラゴンフルーツもいないのだから。
メイファンは心臓の鼓動が落ち着くのを待ってから、ドライバーを杖がわりに、円柱上を泳ぐように下り始めた。この場合、下とは、化学ロケットエンジンとその現場制御盤、通信ユニットのある側である。
「いやー まったく、ヒーターのスイッチを入れ忘れていたなんて報告するのも恥ずかしいわ」
メイファンは一時間ほど前のパニックを思い起こしていた。スラスターが突然停止し、故障か、気体漏れかと焦ったのだが、なんのことはない、加熱用のヒーターのスイッチを入れ忘れていたのである。通常、エアスラスターには水素や空気を用いるが、メイファンが充填したのは酸素再生機の廃棄物であるメタンである。これは意外に簡単に液化する。前世紀に用いられた液化天然ガスの主成分でもある。船外で冷却されたメタンは液体になり、噴き出す圧力を失った結果、スラスターとして使えなくなったのである。これを温めることで再び気体にすることで、エアスラスターは本来の機能を取り戻し、メイファンは凍結燃料に辿りつけたのである。
「まったく、寿命が縮んだわ」
パニックになっても、誰も声をかけてくれないというのは、恐ろしいものである。普通ならば、船外活動には、船内の一人がサポートにつく。パニックを防ぎ、パニックからの復活を促すのもサポートの役目であるが、今のメイファンには、サポートしてくれる仲間はいない。
「あれ、もしかして老化が進んだ? 寿命が縮んだってことは老化が進んで、女として成熟したってこと?」
メイファンの細胞年齢は長らく一三歳で停滞していたが、それが最近一四・五歳になったのである。体つきもそれに応じて変化し始めていた。メイファンにとって細胞年齢が上がることは喜びこそすれ悲しむことではない。
「これが終わったら、もう一度船長命令で、リュウイチを……」
よからぬ妄想は、よからぬ事態で終了する。ロケットエンジンそばの通信ユニットを見たメイファンはため息をついた。五〇センチ四方ほどのケースが大きくへこんで亀裂が入っている。元船長がハンマーで叩いたのだろう。中の基板が損傷を受けていることは間違いない。
「長距離通信ユニットの方は直せそうもないわね」
元船長は、公社からの遠隔操作を遮断するために、長距離通信ユニットをきっちりと破壊したのである。公社との通信を簡単に復活できるのではという彼女の目論見ははずれた。
「短距離通信ユニットと現場制御盤が無傷なのはありがたいけれど……」
少なくとも、化学ロケットエンジンを自在に扱うという最低限の目標はクリアできそうである。
「リュウイチは、今頃、エウロパ周回軌道でぐうぐう寝ているかしら。いいわよね、救助船を待っていればいいなんて。こっちは、自力でエウロパに引っかからないといけないのだから」
膨大な質量をもつ凍結化学燃料とエンジンを手に入れたのだ。これで、何とかエウロパ重力圏、すなわち、エウロパ周回軌道に落ちることができるはずだが、一歩間違えば、木星周回軌道に入り、何年という周期で木星を回る死体になることになる。
「それにしても、通信ができないのは痛いわ」
この時点で、メイファンは、イオの電磁カタパルトの線路が爆破されたことも知らないし、ましてや、リュウイチがエウロパに降り、巫女が彼のポッドに同乗していることも知らない。
メイファンが現場制御盤の切り替えスイッチをローカルすると、パネルが明るくなる。頼りない灯りが寂しそうな顔を浮かび上がらせた。
「リュウイチ…… 私の愛しい人は、私のことを思ってくれるかしら」
* * *
マツシタラボの元所長プラントルは、傑出した人物である。ルナクルと呼ばれる一連の薬を開発し、それが現在のマツシタコンツェルンの経済基盤を作った。ルナクルは、元々は神経系疾患の特効薬で、神経の機能を代替できると言われたこともある。高密度記憶媒体として開発されたルナクルVc、若返りあるいは老化促進など奇妙な副作用で知られたルナクルIVなど、実用には至らなかった薬も多いが、ルナクルVIはコールドスリープ直前に必ず服用する薬であり、今なおマツシタコンツェルンを支えている。そして、プラントルは次々と新しいビジネスに手を付けた。最も有名なのは、核物質の木星系への輸送である。
二〇七〇年代、核ミサイルの暴発から地球上で核兵器核燃料廃絶運動が起きた。燎原の火のごとく広がった運動に世界政府は窮地に立たされたが、そこへ手を差し伸べたのがプラントルである。すべての核物質を引き取ると提案したのである。世界政府はプラントルの申し出に飛びついた。地上の核物質、核燃料は当時完成したばかりのキリマンジャロ電磁カタパルトで次々と打ち上げられ、輸送船で木星系へ運ばれた。そしてイオの工業プラントで有用なプルトニウム238を抽出して、それを原子力電池に加工した。扱いづらい他の核物質はパシファエに送られた。
太陽エネルギーの薄い木星系では原子力電池は必須である。その電池のおかげで地球―木星系間の航宙、木星系内の航宙が採算ベースに乗ったと言ってよかった。そして、膨大な輸送船、人員、イオ工業プラントの整備、パシファエの灯台建設。いわゆる木星特需と呼ばれる好景気をもたらした。また、木星系を聖地とみなす拝律教の普及もあって、イオ工業都市の人口は入植から一〇年ほどで一気に一〇万人にまで増えた。もし、核物質の輸送がなければ、木星系の開発は一〇〇年単位で遅れていただろうことは異論をまたない。
もっとも、ブラックアステロイドを地球に落下させるという通称『トロイの復讐』作戦が明らかになった現在、プラントルの評価は反転したと言ってよい。ただ、良識ある歴史家は、プラントルの評価は時期尚早と論じている。ブラックアステロイドの移動の最初期には行方不明になった核燃料が使われたらしいことから、プラントルがトロイの復讐作戦を立案したのは、核物質輸送費の分担割合で世界政府とプラントルが揉めるよりも前であることは明らかだと彼らは主張している。
さらに、一部の歴史家は、最初からプラントルと世界政府の思惑どおりに進められたと考えていた。すなわち、アステロイド落下による地球上の人類の激減と、その後の自然環境の回復と月市民の逆入植を目的に、核ミサイルを暴発させ、核兵器廃絶運動をあおり、拝律教を普及させたのではないかと。彼らは、いくつもの不自然さを指摘する。例えば、核物質を輸送するコストとそれによる環境破壊を考えるのであれば、もっと安く安全な核兵器廃絶方法があった。例えば、拝律教の成立自体が不明確であること、パシファエを聖地に指定した経典の根拠が希薄であること。パシファエに建設された灯台はパシファエの軌道を変え、ブラックアステロイドのスイングバイに利用されたから、拝律教自体、最初からアステロイド落下を目的にデザインされた可能性もあると彼らは主張していた。ただ、そう言ったスキャンダラスな主張に対する反響は、不自然に小さかった。そして、彼らは最近ではこんな皮肉を言う。二〇〇年後には、百億の人類を犠牲に地球を浄化した偉人としてプラントルは称えられるかもしれないと。
少なくとも現在の評価では、プラントルは大悪党である。そんな大悪党を親に持つことと、今なおエウロパ重力圏界隈を跋扈している小悪党のマイケル元船長を親に持つこととどちらが不幸だろうかとリュウイチは考え込んでいた。
そのリュウイチの後ろの席では、巫女が発掘されたトラオの遺言を食い入るように視ていた。もし、巫女が本当にカタリナ・プラントル、プラントルの一人娘だすると、随分とややこしいことになる。リュウイチの父と母と巫女が三角関係で、しかも、今のリュウイチの思い人が巫女なのだから。
「あれ、もしかして俺も三角関係?」
リュウイチは、ゴスロリ衣装でブリッジを飛び回っていたメイファンを思い起こしながら呟いた。
「今もまだ、元船長に囚われているのかなあ」
この時点で、リュウイチは、メイファンが救命ポッドで放り出され、木星周回軌道に乗っていることを知らない。
「親父は女の嫉妬は恐いと言っていたけれど、メイファンと姫も争うのかな?」
鈍いリュウイチでも、二人に好意を寄せられていることは自覚していた。
「それにしても姫はかわいそうだ」
もし、巫女がカタリナであるとすると、二回も三角関係を経験することになる。しかも、相手の男達は親子である。なんだか申し訳ない気がリュウイチはした。
だが、巫女がカタリナであるとすると色々と辻褄が合う。マイケル元船長の証言によれば、カタリナはブラックアステロイド落下計画に反対したため、父親の指示でルナクルVを大量に摂取させられて記憶をなくした。マイケル元船長の尋問には自白薬を使ったから、証言の信ぴょう性は高い。元船長は恋敵のカタリナを殺すつもりだったらしいが、殺されなかったのは親のプラントルの情けだろう。
それ以上のことは推測でしかない。父親から処分を聞かされて記憶を失うことがわかったカタリナは救命ポッドに自分の記憶のコピーを載せて送り出した。コピー媒体は当時記憶素子として有望視されていたルナクルVcであろう。記憶をなくしたカタリナは、当時プラントルが意のままに操ることのできた拝律教の教団に預けられた。その後、教団はカタリナを巫女に仕立ててエウロパに送り込んだ。教団がなぜカタリナを巫女に選んだのかも想像に難くない。
巫女は、現在は使われていないルナクルIVをコールドスリープ時に常用している。これは、メイファン・グェンを若返らせ、マイケル・リサール元船長の老化を促進したいわくつきの薬である。これまでの巫女の話を聞く限り、巫女の場合の副作用は、不老と記憶障害であろう。どちらも、教団にとっては魅力的な特性である。実際、巫女の儀式放送の生み出す寄付金は現在の教団の生命線の一つであるから、教団は正しい選択をしたのかもしれない。
「ジュダスが喋ってくれればはっきりするのに」
リュウイチは単調なメリベイル・リネアの景色をにらみながら周りに聞こえるように言った。ジュダスは巫女をサポートするために、最初から彼女のそばに居たはずである。だから、巫女が赴任する経緯も知っているだろうし、教団からの指示も受けているはずである。
「申し訳ありません。まともに答えては色々と差し障りがあるものですから」
本当は正直答えたいのに禁じられているとでも言いたげなジュダスの応答である。AIに微妙なニュアンスを表現するのは不可能なはずであるが、どうもジュダスは人間臭い。
『こちらトライデント作戦本部。カールだ』
リュウイチの眼前のディスプレイにウィンドウが開かれ、疲れた顔のカール・セルダンが映った。ブラックアステロイド、KE-I、ドラゴンフルーツ。エウロパに二つの天体と一隻の船が迫りつつある。それに、メイファン達やリュウイチ達。救助対象は少なくとも二組。とてもじゃないが、半世紀以上も前の話にかかわっている暇はないだろう。それでもカールは親友である。最初はサムの知り合いとしてリアルタイム通信で馬鹿話をする仲だったが、破魔の矢作戦、そしてトライデント作戦を通して仕事をするうちに、対面したことがないとは思えないほどの仲になった。だから、少々の無理は聞いてくれる。
「どうだった」
『やっぱり、公式記録からデータは消されているし、検索エンジン自体にインテリジェント・ブロックがかかっているみたいだ』
「インテリジェント・ブロック?」
『単純にキーワードでの検索をブロックするだけじゃなくて、こちらの思いつきそうなキーワードでの検索をブロックし、さらには検索結果にフィルターをかけて、隠蔽しているみたいなんだ』
「わかるようなわからないような……」
『例えば、カタリナ・プラントルの検索を禁止する。これは単純ブロックだ。プラントルの娘というキーワードでの検索をブロックするとか、家族の写真、記者会見映像でカタリナの映っていそうなものは表示しない。これがインテリジェント・ブロックだ。まるで、娘など本当にいなかったかのように、情報を操作する』
「イオの検索エンジンは、マツシタの影響力を受けているかもしれないが、地球の検索エンジンはどうだった?」
『ここからだと光速で往復九〇分だから簡単なボットを組んで調べた。だけど、地球も月も金星もだめだった』
「金星も? 地球月系とも木星系とも距離を置いている金星工業連合の検索エンジンもプラントルの影響下にあるということ? プラントルが情報を操作している?」
リュウイチは声を落とした。カールの声は集音機能付きスピーカーで再生されるから、離れた場所にいる巫女達には伝わらないが、リュウイチの声は別である。
『プラントル自身は六〇年も前に行方不明になっているから、真理派か、あるいは世界政府の月本部あたりが黒幕なのかもしれない、そもそも、インテリジェント・ブロック自体は違法のはずだが、それを証明するのは中々大変だし、これを大々的にやられると。ちょっとした世論操作もできるんじゃないのかな。例えば、拝律教のいかがわしい部分を目立たなくしてしまうことだって可能だ』
「おいおい、滅多なことを言うなよ」
そう言いながら、リュウイチは背後の巫女達にチラリと視線をやった。二人とも無反応である。巫女はプラントルの画像を再生しているようである。ジュダスは何を考えているかわからない。
「ということは、ネット上のカタリナの立体画像から、巫女がカタリナであることを確認することは難しい?」
『そういうことだ。そもそも、立体画像なんて編集が入っていない保証はどこにもない。少し美人に見せるとか、胸を盛ったりなんて日常茶飯事だしな』
「それじゃ、DNA認証しかない?」
『ここだけの話だけれど、DNA認証は完璧じゃないんだ』
カールは声を落とした。
「完璧じゃない?」
『ほら、二年前の総裁と顧問のケースだ』
「んっ!」
カールが言っているのは公社の顧問が拉致された事件のことだ。総裁のコレー・リュードベリは、リュウイチと同じ里親に育てられた義妹である。一方、顧問のコレー・リュードベリ・ジュニアは、義妹のクローン娘である。当然DNA認証では同一人物と判定され、それが、理事会の会議室に二人とも入室できた理由である。
カールが示唆したのは、巫女がカタリナのクローン娘である可能性だ。本物のカタリナ自身はパシファエか、救命ポッド内で死亡し、リュウイチの目の前に居るのはクローンである可能性だ。マツシタラボならば、死体からクローンを造り出してもおかしくない。普通の状況と異なるのは、巫女が過去の記憶を失っている点だ。彼女自身がクローンであるのかないのか断言できないのだ。
クローンかどうかを確かめる一つの方法は、DNAではなく、形態の比較である。例えば、身長のように後天的に決まる形態の比較である。カタリナの映像から身長や手足の長さを割り出し、巫女と比較すればいい。ただ、これも決定的ではない。性転換が簡単にできるぐらいだから、身長だって変えられないわけではない。どちらにしろ、カタリナの映像が見つからなければ無理な話である。
リュウイチは、難しいことを長時間考えるのが苦手である。自分が学者に向かない点は認めていた。
「クローンであろうとなかろうと、別にどちらでもいいよ。そもそも、姫がカタリナであろうとなかろうと、姫は、確かに俺が付き合ってきた恋人だ。であれば後はどうでもいい。過去に姫が誰と付き合っていようとそんなことは関係ない」
「本当? 本当に?」
後ろの座席から、突然身を乗り出した巫女は、リュウイチの背に抱きつき、腕を回した。
「ああ本当だ」
「もし、私がカタリナだったとしても、今まで通り恋人でいてくれる?」
「もちろんさ、姫。いや、カタリナと呼んでいい?」
「ええ」
リュウイチの返事に巫女は頬を寄せながら頷いた。涙が一筋。巫女の頬とリュウイチの頬を濡らした。単純なうれし涙ではない。
巫女は、遺言映像の中のトラオのなんとなく見覚えがあったが、記憶が戻ったわけではない。カタリナという名前にもトラオという名前も記憶にないが、その響きとリズムには懐かしさがあった。骨ばった指で撫でられる感覚、無精ひげのチクチクする肌触り、口中を蹂躙される恥辱感。左脳的な記憶は欠如しているのだが、右脳的な感覚は、トラオが最愛の人であったこと強く肯定していた。プラントル元所長に対する感覚はもっと複雑である。映像通りの怜悧なビジネスマンという印象とは逆に、ほんのりと暖かな感覚が沸き起こってくるし、その声には、いらだちと安心感を覚えた。
何か決定的な記憶が戻ったわけではないが、巫女は自分がカタリナ・プラントルであることを確信した。プラントルの娘であり、トラオの恋人だったと確信した。六〇年以上も前にトラオが亡くなったと聞いて、胸が苦しくなったのだから。
巫女に罪悪感がないわけではない。望んだわけではないが、結果的にはトラオの息子と付き合っているのだから、トラオとリュウイチの二股をかけたと言えなくもない。時期は百年近くずれているから三角関係ではないが、申し訳ないという気持ちはある。
巫女の涙には、色々な思いが溶け込んでいた。