29.メリベイル・リネア(西暦二一八五年九月一〇日、インパクト一五時間前)
リュウイチ・タニヤマ、エウロパの巫女、ペンギン型AIのジュダスは、巨大荷車に載せた改造救命ポッドに乗り込んで、メリベイル・リネアを進んでいた。リネアはエウロパに無数にある線状の地形である。その一つ、メリベイル・リネアは南極近くから赤道近くまで延びる二〇〇〇キロにおよぶ長大な谷である。谷底の幅は広い所では一〇キロメートルもある。その谷底を巨大荷車が雪煙を上げながら疾走する。
ポッドの内壁はディスプレイになっており、外の風景をそのまま映し出している。まるでオープンカーに乗っているような解放感がある。およそ二二年ぶりの本格的な地上にリュウイチは密かに感動していた。
谷の両側は、高さ一〇〇メートル程の切り立った氷の崖となっている所が多い。崖の上部は樹氷の林になっており、その崖面の氷層は複雑な縞模様を見せている。時折、赤や緑の変成岩のような岩塊が谷底にそびえたち、モノトーンの風景に色を添えている。ポッドを載せた巨大荷車はそれらを迂回していく。何もかもスケールが大きく、雄大である。リュウイチは、小人になって、父の故郷で見た石庭に迷い込んだような錯覚を覚えた。
「しかし、壮大な景色だな」
リュウイチは感動を口に出した。これが巫女とのハネムーンなら、これ以上の贅沢はないだろうと内心で付け加えた。
「引き出し電流は六・二キロアンペア。推力は〇・二キロニュートンだから、転がり摩擦係数は〇・〇三ぐらい。平均時速は二五キロ、総消費電力は一二〇キロワット。消費が多くて充電どころじゃないわね」
巫女が眼前のディスプレイの数値を読みあげた。ハネムーンにはふさわしくない話題である。
「ここの弱い重力で摩擦は随分小さくなっていますが、総質量が五トンもありますので、このぐらいのエネルギー消費は致し方ないと思われます」
ジュダスが補足した。ハネムーンにはふさわしくない随行員もいる。
「姫、データは私の方でチェックしていますので、無理をしなくていいですよ。外でも見てゆっくりしていてください」
リュウイチは後部座席に座っている巫女をチラリと振り返った。風呂場でのぼせた彼女は、ぐったりした状態で、改造救命ポッドに担ぎ込まれたが、ポッドが走り出した途端、子供のようにはしゃぎまわって、あれやこれや質問してきたのだ。うるさくて気が散るので、大型タッチパネルディスプレイを一台、後部座席側に移動させたのが一時間ほど前のこと。
「外よりもこっちの方が面白いわ」
考えてみれば、巫女にとって、エウロパの風景は何十年も見ていたものだから、面白くないのも当然である。ポッドの方がよほど珍しいのだ。
「まあ、助かると言えば助かるんだが……」
巫女たちがイオンエンジンの状態や現在位置を監視してくれるから、それはそれでありがたい。
「しかし、壮大な景色だな」
リュウイチはもう一度同じセリフを吐いた。自分の感動に賛同が欲しいのだ。
「私たちは見慣れているから、なんとも思わないけれど、リュウイチには珍しいのね。でも、もっと凄い所もあるわよ」
巫女が話に乗ってきた。
「もっと凄い?」
「ええ、このリネアを反対方向、南西に行ったところに、標高九〇〇〇メートルの氷の山があるわ」
「九〇〇〇メートル!」
「凄いでしょう。頂上部分が尖っていてマッターホルンと呼ばれているの」
「しかし、いったいどうやたらそんな山ができるんだ」
「潮汐力が海水を動かし、海水が氷殻を押し上げてできたのじゃないかと言われているけれど、成因は確定していないわ。誰も現地調査に来ないし」
天文台が音頭をとって、あちこち調査しているイオとは大違いである。
「ふーん、エウロパも色々あるんだな。発電所ができて、電磁カタパルトができれば、もっと人が増えて、調査も進むかもしれない」
「どうかしら?」
現在の計画では、発電所も電磁カタパルトも極力無人で運用することになっているから、増えると言っても微々たるものだろう。それでも発電所が稼働し、あり余る電力が入手できれば、開発の障害はぐっと低くなる。
エウロパの開発史上、長期滞在施設は二つしかない。一つは巫女の拝水神殿であり、もう一つはイオ入植と同時期に設置されたバイオテクノロジーの研究施設である。エウロパという隔離された地理的環境、極低温真空という自然環境は、高度な、つまり危険な実験に適していたというのが施設の置かれた理由とされる。ただ、結局は、目立った成果も派手な失敗もなく、西暦二一二〇年代に閉鎖されたと記録されている。
「そろそろ、氷を切り出した方がいいわよ」
巫女がサンドスラスターの上に載せた氷を見て言った。エウロパの大地を切り取った氷がイオンエンジンの燃料である。神殿出発当初は高さが一メートルもあった氷塊が、今はわずか一〇センチほどになっている。
「それじゃ、崖に寄せるぞ」
リュウイチは姿勢制御スラスターを吹いて、進路をゆっくりと変えた。そして、イオンエンジンの推力を落とす。荷車は徐々に減速し、崖際にピタリと停止した。
「さあ、俺が切り出すから二人ともここで待っていてくれ」
リュウイチはシートベルトを外して、後部の簡易エアロックへ向かった。
「待って、私も行きたい」
巫女が声をかけた。
「行っても何も面白いことはないよ」
「そう? でも刀を使う所を見てみたいのよ。いつだったか、ドラゴンフルーツでの燃料補給を面白おかしく語ってくれたわよね」
「面白おかしく?」
「船長さんにどやされながら、だんだんと上手になるのが実感できるって目を輝かせていたわ」
二年前に『破魔の矢』作戦が始まってからは、二日に一度燃料を補給したこともあるから、巫女の語る初心なリュウイチは遠い過去であった。ただ、元船長に始終どやされていたのはよく覚えている。
「元船長か……」
「元?」
巫女が上品に首を傾げる。
「ああ、色々あって、船長が変わったんだ…… それじゃ、姫、ご一緒に参りましょう。エアロックは狭いですが、文句を言わないでくださいね」
リュウイチは強引に話題を変えた。元船長がトロイの復讐の番人として、破魔の矢作戦、トライデント作戦を妨害し、今もメイファン達の命を握っているという話題は楽しいものではない。第一、そんな犯罪者が、リュウイチのクローン度一〇パーセントの母親であることは触れたくない事実だった。
リュウイチは、犯罪者である元船長と縁を切りたいと思いつつ、その行動は何かに間違いだと思いたかった。だが、それについて元船長に問いただす機会はなかった。自身の遺伝子を混ぜてリュウイチを生み出した真意を知りたいとも思っていたが、その機会もない。リュウイチは、気持ちの整理ができないままである。
「それじゃ、排気を開始します」
エアロックの中で、リュウイチは赤いボタンを押した。リュウイチと巫女は身動きができないほど密着している。巫女が顔をリュウイチに顔を寄せた。と言っても、ヘルメット越しであるからリュウイチは緊張していない。
「お礼を言わなくっちゃ」
巫女の小声も息遣いもインカムを通じで明瞭に伝わる。
「お礼?」
「まだ、ちゃんとお礼を言っていなかったと思うの。エウロパに降りてきてありがとう。私を連れ出してくれてありがとう」
「いや、まあ、人命救助の一環だから」
「でも、カールの話では、作戦本部の待機命令を無視して降りたのでしょう?」
巫女は、先ほど、カールとも話をして、教団の動向も含めてここ五カ月ほどの経緯のあらましを聞いている。
「それに、約束したじゃないか。何とかするって。一人前のスペースエンジニアになってお金を貯めて、姫を迎えに行くって約束したじゃないか」
リュウイチは喧嘩別れした最後のリアルタイム通信で自分が言った約束を持ち出した。
「そう言えば、そんな約束が…… 口約束だと思っていたわ」
「そうかもしれない。お金は貯まっていないし、一人前かと言われれば……」
「リュウイチは一人前よ。こうしてこの氷の星まで降りてきた。もう十分約束を果たしたわ」
「まだだ。俺と一緒にイオに帰ろう。姫はもう鳥かごの鳥じゃない。自由だ。だから、俺と一緒にイオに帰ろう」
リュウイチは片腕を巫女の腰に回した。
「イオに? エウロパを離れるの? 巫女が聖地を離れるの? そんなの無理よ!」
巫女は腰に回ったリュウイチの手をつかんで解こうとした。
「無理じゃないさ。巫女をやめればいい」
リュウイチは腕に力を入れ巫女を抱き寄せた。
「私が巫女をやめれば、私じゃなくなるわ」
巫女の声は弱々しい。そして、巫女の手から力が抜けていく。
「そんなことはないさ。今は忘れてしまったのかもしれないけれど、姫は、生まれた時から巫女だったわけじゃないだろう。巫女になる前の自分に戻ると考えればいい」
「巫女になる前の私? そんな私が存在するの?」
うるんだ眼がリュウイチを見上げる。
「存在するさ。万が一存在しなかったら、俺が巫女じゃない姫を…… いや、巫女でも姫でもない女を造るさ」
リュウイチのセリフに巫女がふっと表情を緩めて笑った。
「リュウイチ、今、いやらしいことを考えたでしょう?」
「まさか、俺は、普通の健全な男だよ」
リュウイチは澄まして答えた。
「健全な男ねぇ…… 期待しているわよ」
「き、期待って」
リュウイチは顔を赤くした。
「さあ、行きましょう。もう真空になったわよ」
ハッチを開けて出ていく巫女を、リュウイチは慌てて追いかけた。
リュウイチは人工ダイヤモンド製の刀を加熱し、一辺が一メートルとなるように氷の立方体を切り出して、放熱パネルの上に乗せた。これで二時間は補給しなくてよい。
リネアの谷底が平坦だと言っても起伏がないわけではない。むしろ、緩やかな起伏は絶えずある。だが、巨大荷車に乗ったポッドは、まるで起伏がないかのように淡々と疾走している。地球上の車なら、坂の手前でアクセルを踏み込み、超えたところでアクセルを離してスピードを調整する。
いわゆる位置エネルギーと運動エネルギーのやり取りである。地球上ならば高低差一〇メートルを自由落下すれば、秒速一〇メートルの運動エネルギーを得る。ところが、エウロパの場合、同じ高さを自由落下しても得られる速度は秒速三・六メートルである。エウロパの重力は地球の約八分の一であるから、位置エネルギーも八分の一である。その結果、起伏の効果は八分の一である。快適なドライブができるはずである。
「ちょっと、スピードが出すぎていない?」
巫女はぐるりと周りを見回してから言った。
「えっ、そう? 下り坂なのかな?」
前方には、昔のアメリカのフリーウェイのように広く真っ直ぐな谷が続いている。ただ、広すぎて、距離感がつかめず、勾配もよくわからない。
「絶対、下っているわよ!」
巫女が自信をもって答えた。
「GPSの瞬時速度は?」
ポッドは宇宙を漂うためのものだし、イオンエンジンであるサンドスラスターは天体に据え付けるものであるからスピードメータはついていない。GPSで測定した位置から速度を割り出しているのだが、エウロパのGPSの精度は悪い。特に瞬時速度はいい加減である。
「瞬時速度は時速三五キロと表示されているけれど、もっと速い感じがするわ」
「とりあえず、推力はオフ!」
リュウイチはエンジンを停止させた。
「瞬時速度が四〇キロに上がってたわ!」
巫女の声には焦りが混じっている。
「巫女様、風景の画像解析から現在の速度を割り出せるようになりました」
それまで黙っていたジュダスが口を開いた。自力で速度計測アルゴリズムを作り上げたようである。相当に優秀なAIである。
「いくつ?」
「時速四二キロ…… 四三キロ……」
巫女の問に、ジュダスはいかにも合成音という口調で速度を告げた。
「揺れる、揺れるわ」
スピードが上がったせいで、氷上の凹凸が大きな揺れを引き起こす。
「ヤバっ、左右の姿勢制御スラスターを同時にオンにして減速する」
リュウイチは手元の制御盤でどのスラスターをオンにすべきかを確認した。スラスターはいくつもある。右回転、左回転はよく使うので、一つの操縦スティックに登録してあるが、減速のことはすっかり忘れていた。
「四六キロ…… 四七キロ……」
「早く! 早く! ぐるっと回って、お尻を前方に向ければいいじゃない。それでエンジンを吹かせば減速できるわ」
巫女がたまらずにせっついた。
「そんなことして、間違ってスピンでもしたら大変だ。いやスピンする前に遠心力で転倒するかもしれない」
遠心力は曲率半径とスピードで決まるが、転倒を防ぐ重力は地球の八分の一だから、容易に転倒する。急な回転は厳禁である。
リュウイチはもう一度オンにすべきスラスターを確認して、スイッチを押し込んだ。ほんの少し、前につんのめるように感じが生じた。スラスターが効いているのだ。
「五二キロ…… 五二キロ……」
「加速は止まったけれど…… このまま、スラスターを吹いていたら、二分間で圧縮気体が空になる」
「そもそも、荷車の電磁ブレーキを使えばいいじゃない。どうして使わないの!」
巫女が強い口調で疑問を呈した。
「えっ、そんなものあったの?」
リュウイチは前方を凝視したまま声を上げた。
「申し訳ありません。リュウイチ様にお伝えするのを忘れておりました。制御線はつながっていませんので、使えません」
「あれ? 制御線をつながないと、電磁ブレーキがかかりっぱなしになる設定だったと思うけれど、今は電磁ブレーキはかかっていないのよね?」
巫女が念を押す。
「申し訳ありません。前回の物資投下の帰りにスノーモービルが故障し、電磁ブレーキのインターロックを殺しました」
「そういえば、そうだったわ」
「あーっ、前方にバンプ!」
リュウイチは、前方の氷上にちょっとした盛り上がりを見つけた。
『ドーン、ドーン』
という衝撃とともに荷車が跳ね上がり、一秒ほどの滞空時間ののちに着地する。その間の放物運動は無重力状態である。
「キャーっ」
巫女が悲鳴を上げた。低重力では、放物運動の滞空時間も伸びる。巫女がフィギュアスケートもどきで華麗なジャンプを披露したように、滞空時間は長い。同じスピード、同じ角度で飛び出したのなら、滞空時間、滞空距離、最高高度は八倍になる。つまり恐怖も八倍だ。
「もう一つバンプ。今度はもっと大きいぞ! 来るぞ! 衝撃備え!」
『ドーン』
シートベルトが肩に食い込むが、リュウイチは何とか前方を見据える。五秒ほどで高度二〇メートルに達し、その後は落下するだけである。リュウイチ達は声も上げられないほどの恐怖を味わっていた。
「もう一度、衝撃備え!」
リュウイチは声を張り上げた。
『ドーン!』
背中を無理やり曲げられるような衝撃。
『ゴン!』
リュウイチは眼前の制御卓にしたたかに額を打ち付けた。
「あたたたたっ!」
幸い、3D浮彫ディスプレイで形成した制御卓はそれほど硬くない。
「リュウイチ様、巫女様、大丈夫ですか?」
ジュダスが二人に呼びかけた。
「大丈夫じゃ…… 何とか大丈夫よ」
恐怖に青ざめながら巫女は無事を伝えた。
「お、俺も、たぶん大丈夫。速度は?」
リュウイチは額を抑えながら顔を上げた。
「四三キロ…… 四一キロ…… 三六キロ……」
荷車は減速しつつあった。どうやら、下り坂は終わったようである。減速用のスラスターが効き始めている。「三〇キロ…… 二五キロ…… 二〇キロ……」
みるみる減速していく。
「助かった~」
リュウイチは安堵の声を漏らした。
すぐに、リュウイチは荷車の制御線をポッドに繋いだ。制動テストを行った所、電磁ブレーキは十二分な制動力を発揮し、ワイヤーフレーム状金属車輪はしっかりと氷面をグリップしていた。もっとも、重力が弱く、摩擦も小さいので、地球上に比べれば制動距離はずっと長くなる。
「完璧だね。それじゃ出発!」
リュウイチはイオンエンジンの推力を上げ、元の速度で荷車を走らせた。
「リュウイチ、慢心してはだめよ。常に謙虚な姿勢で、努力を怠らないこと。そして、神に感謝の祈りをささげないと」
「祈り?」
「そう、祈りよ。そういえば、朝の祈りを忘れていたわ。コールドスリープから起きてから、一度も祈りをささげていない。どこか、水面の見える所で立ち止まってくれれば、ありがたいのだけれど……」
巫女は、シートベルトを外して、後部座席から身を乗り出した。
「地図に載っていないかしら?」
リュウイチの眼前の地図を指でスクロールしながら、巫女が探し始めた。地図ならば後部座席に移動したタッチパネルディスプレイでも見れるはずであるから、巫女がリュウイチに顔を近づけたのはわざとかもしれない。鼻腔をくすぐるような香りと流れるような金髪に、リュウイチはクラクラした。
「巫女様、危ないのでちゃんと座席についてシートベルトをお締めください」
ジュダスが適切な意見を挟んだ。
「そうそう、ジュダスの言うとおりだ。またバンプがあるかもしれないし…… 頭でも打って、また意識を失ったら大変だから」
リュウイチはジュダスに半分感謝しながらも、ジュダスがいなければいいのにとも思っていた。
「はいはい、わかっていますよ」
巫女は、自らの頬をリュウイチの頬にほんの一瞬触れさせてから自分の座席に戻った。わざとである。
「えっ、ひ、姫!」
「何かしら?」
低めのアルトが返ってきた。どうやら、巫女の機嫌は悪いようである。
「いや、なんでもない。水面のことなんだけれど…… 地図に載っていない小さな池もちらほらある。見かけたら停車するよ」
「ありがとう」
機嫌が悪くとも、礼を言うべきタイミングは心得ている。育ちの良さであろう。
リュウイチは巫女へどう接すべきなのか悩んでいた。考えてみれば、クルー以外の女性に会うのは二二年ぶりである。その大半をコールドスリープで過ごしたとは言え、受け答えがぎこちないのは仕方ないだろう。リュウイチはそこまで考えて、巫女の方が孤独な期間が長いことに気がついた。リュウイチが探し出した古い巫女の記録では、四五年ほど前に巫女が代替わりしていた。つまり、後部座席の巫女はここ四五年ほど、男はおろか、人間とも会っていない可能性があるのだ。
「おや、霧でしょうか? リュウイチ様、少し速度を緩めてはいかがでしょう」
ジュダスが口を開いた。辺りに薄い霧が漂っている。
「そうだな。視界が確保できないと危ないけれど、スピードを落とすと……」
遠方へ避難できないとKE-Iのインパクト時の洪水や氷津波に飲み込まれるから、スピードを落としたくはなかった。
だが、霧は徐々に濃くなっていく。電磁ブレーキがあっても、制動距離は長いから十分注意する必要がある。うっかり、崖にぶつかったりすれば、その衝撃は地球上の交通事故と同じである。
「霧の中でも見通せるレーダーは積んでいないのですよね。だとすると危ないですね」
ジュダスが再び口を開いた。相手を教え諭すような会話は執事の手本と言っていい。
「ああ、宇宙で霧は発生しないからね。とりあえず、スピードを落とす」
リュウイチはしぶしぶ同意し、眼前の安全を優先させた。
「それにしても、エウロパで霧が発生するなんて不思議だな」
もう半時間も霧の中をノロノロと進んでいる。
「不思議?」
巫女が首を傾げた。リュウイチの疑問が理解できないのだ。
「だって、ほとんど真空で、浮力も抵抗もないはずなのに」
地球上の霧や雲が浮いていられるのは、空気の抵抗で落下速度が極端に遅いからである。真空であれば、自由落下で落ちるはずで、実際、KE-IIIのインパクトで巻き上げられてた水や氷は、自由落下中に加速され弾丸となってエウロパに降り注いだ。
「真空じゃないのよ」
「真空じゃない?」
「場所にもよるけれど、水面が顔を出している所は、水の蒸発で意外に圧力が高いのよ。それに、この霧の正体は特別な氷なの」
「特別な氷?」
「ボールのような構造で中が空洞になっているの」
「空洞?」
「そう。スカスカだから軽くって、舞いやすいのよ。最近、といっても一〇年ほど前に私たちが発見したのよ」
巫女は自慢げに言った。
「公社には報告した?」
原則として、すべての発見は公社に報告することになっている。そして、なにがしかの報奨金がもらえる。新たな鉱物の発見が新たな鉱山につながった例もある。
「していないわ。だって、どうせエウロパの氷だもの」
エウロパの一通りの資源調査はイオ入植と同時期に行われた。その結果、エウロパには投資に見合うほどの価値のある資源はないと判断され、開拓はされなかった。木星系には、地熱エネルギーと鉱物資源に恵まれたイオがあるからエウロパを開拓する意義はなかった。そして、今、エウロパに求められているのは鉱物ではなく、単なる水氷である。
「元素分析は?」
「してないわ。蛍光X線分析装置があったのだけれど、だいぶ前に壊れたの。でも形は美しいわ。顕微鏡があれば、見せられるのだけれど…… ジュダス、画像は持っている?」
「すいません、持っておりません。巫女様のデータキューブに入っているかもしれません」
ジュダスは申し訳なさそうな声で答えた。
「私のというとプライベートな方?」
「ええ、放送記録キューブと一緒に荷台に括り付けておりますので、取り出すのは少々面倒です」
「ああ、わざわざ見せてくれなくていいよ」
リュウイチは言った。
「そう、悪いわね。で、その結晶がすごいのよ。まるで、人工的に作ったみたいに精緻で……」
はしゃぐ巫女に、リュウイチは思わず呟く。
「見てみたいね」
「ごめんなさい。見てみたいわよね。後で必ず見せるから、待っていてくれる?」
リュウイチはため息をつきつつ、前方の霧を凝視した。
「あれ? 真空じゃない?」
不意にリュウイチは巫女の言葉に重要な問題が潜んでいることに気がついた。
「姫、エンジンはどうなっている? おかしくないか?」
エンジンに絡む問題である。
「推力は〇・一五キロニュートンで、さっきから安定しているわよ。何か問題でもある?」
「いや、推力はいいけれど、引き出し電流は?」
「現在の電流は五・〇キロアンペアで…… ん? 霧に入ったところで、四・六まで下げたはずだけれど、少しずつ増加している? 推力が変わっていないのに電流だけ上がっているわ」
巫女は、過去一時間ほどの記録を見ながら首をひねった。
「まずい、バックファイアだ! 出力側からイオンが逆流しているんだ」
「ふーん、それで効率が悪いのね」
「効率だけならいいんだが、バックファイアが続くとメッシュ電極に穴が開いて壊れるんだ! オフだ。イオンエンジンはオフだ!」
リュウイチはすぐにイオンエンジンを停止させた。
船外に出て点検したところ、電極が傷み始めていた。メッシュの中央部分が痩せて細くなっている。このままではいつか破れてしまうだろう。
「まずいなぁ」
宇宙服を着たリュウイチの呟きは、インカムでそばに居る巫女に伝わる。
「どのくらいまずいの? エンジンは使えない?」
巫女は携帯電灯に照らし出されたメッシュを舐めるように見ていた。
「使えないわけじゃないが、最大出力はかなり抑えないと本当に使えなくなってしまう。とにかく、引き出し電流と中和電流の差を見ながら運転だな。その先は……」
リュウイチはその先のことを言いあぐねた。出力を抑えれば、推力が下がる。そうなれば、エウロパから離昇できなくなり、エウロパ周回軌道に乗ることができない。
「ねえ、リュウイチ。このメッシュって一般的なもの? 予備はないの?」
「予備はないが…… 一般的と言えば一般的かなあ。この辺りのデザインは昔と同じだから、イオンエンジンならば共通部品と言ってもいいかもしれない」
「それなら、どこかにイオンエンジンが落ちていれば、そのメッシュを流用できない?」
「どこかに落ちていたらって、落ちているわけないよ。誰もいないエウロパに落ちていることなんて……」
リュウイチには何かピンとくるものがあり、口をつぐんだ。
「そうね、地球じゃないものね」
地球でも、そうそう落ちているものではない。自動車がイオンエンジンを積んでいれば、廃車置き場にでも行けばいいのかもしれないが、そんなことはないし、廃車置き場もエウロパにはない。
「あーっ!」
突然のリュウイチの叫びに巫女がびくりとする。
「ジュダス、ジュダス、現在地の緯度と経度を教えてくれ!」
リュウイチガポッド内にいるジュダスに尋ねた。
『南緯四九度二〇分、東経五七度三〇分ぐらいでしょうか?』
「ぐらい?」
『二〇〇ギガヘルツの電波が水蒸気と霧で吸収されて、GPSの精度が悪化していますから、誤差は大きいようです。それに、先ほどからイオとの通信も不通になっています』
「通信が通じないのか! なぜ、それを早く言わないんだ!」
『申し訳ありません』
「ちっ、まあいい。それより、南緯四八度、東経六〇度までどのくらいの距離だ」
『直線距離で三二キロほどです』
「寄り道できるか?」
『今のリネア沿いのルートから外れますが、そんなに寄り道にはなりません。ただ、谷から出るルートを探さないといけませんが』
「よし、ならばマップでよさそうな所を探してくれ」
『承知いたしました』
リュウイチは希望が見えたころでホッと息を吐いた。
「ねえ、そこに何があるの?」
巫女が尋ね、リュウイチは笑顔を返した
「もしかしたらイオンエンジンが落ちているかもしれない」
「イオンエンジンが? エウロパに落ちている?」
リュウイチは黙って頷き、巫女は首を傾げた。




