28.眠れる神殿の美女(西暦二一八五年九月一〇日)
リュウイチは神殿の入り口から三〇メートルほど離れた所に改造救命ポッドを停めた。もっと近くに停めることも可能だが、万が一、制動に失敗して入り口に突っ込んだときのことを考えて十分な余裕を取ったのだ。
「ふーっ、何とか到着かな。げっ、一時間も経っている。これなら歩いた方が速かった?」
歩くと言っても、○・一三Gの低重力であるから、カエルのようにピョンピョン跳ねて行けばあっという間だったかも知れない。アイゼン付きのブーツであれば滑る心配もない。
「おまけに四ギガジュールも電力を消費してしまった。一時間でこれだから、平均で…… 一メガワット!」
原子力電池の発電量が〇・一メガワットだから充電の一〇倍も消費が速いことになる。このままでは、あっという間に貯めた電力がなくなり、エンジンとして使えなくなってしまう。リュウイチはヘルメットの中で眉をひそめた。
「まあ、過ぎたことは考えてもしょうがない。とにかく、神殿に入らないと」
リュウイチは狭い簡易エアロックを抜けてエウロパの大地に降り立った。うっすらと粉雪の積もった地をゆっくりと歩み、神殿の標準エアロックの前で短距離回線を開いた。
「あー、ごめんくださいませ。公社から参りましたリュウイチ・タニヤマですって言っても、誰も答えてくれないかな?」
応答がないことは想定済みである。通信不通の直前に教団と神殿の間で高度に暗号化された通信が行われたことから、公社本部はある仮説を立てていた。すなわち、通信の不通は意図的なものである。教団の指示を受けた神殿の管理AIがわざと通信を不通にしたのだと本部は推測していた。
応答がない場合の侵入方法は指示されている。エアロックの扉を切り欠いて内部に侵入し、備え付けのビニールシートで応急的に切り欠きをふさいでから空気を満たす。そうしないとエアロックの奥の扉のロックは解除されない。それが、標準エアロックの仕様である。
扉を切るには、凍結燃料を切断成形するための直刀を使う。この刀は温度設定を変えれば金属板をも溶断できる優れものである。
「やっぱり、実力行使かな」
リュウイチは背中の刀に手をかけた。
『どなたでごさいますか?』
不意に落ち着いた男性の声が応答した。
「えっ?」
『どなたでございますか? どういったご用件でしょうか』
返答を予期していなかったリュウイチは一瞬黙り込んだが、男性の声がよくできた合成音であることに気がついた。応答したのは警備用AIであろう。
「リュウイチ・タニヤマ。木星系開発公社の社員です。通信に不具合があり、連絡が行っていないのだと思いますが、間もなくKE-Iが衝突し、この辺りまで津波が押し寄せると予想されています。エウロパの巫女を保護し、避難させるために私が公社から派遣されました」
『入殿許可状はお持ちでしょうか?』
「もちろんです。今、送ります」
リュウイチはアイコンタクトでヘルメット内のメニューを操作し電子許可状一式を送った。これで最低限の認証ができるはずである。
「念のため、公社のシミュレーション結果を送っておきます。これを見れば、いかにここが危ないかがわかるはずです」
リュウイチは、シミュレーション結果も送付した。
『確かに、公社職員であること、レベル2のタスクで入殿が必要であることは確認できましたが……』
AIが黙り込んだ。対応を考えているのだろう。入殿許可が正規のものであることが確認できても、公社本部と通信が出来なければタスクの詳細は不明である。
「タスクの内容は、公社本部に確認していただけばわかるはずです」
指示されたタスクは施設のメンテナンスであり、避難はタスクには入っていないが、確認できないはずである。高度な判断のできない警備用AIは、もっと上位のAIの判断を仰ぐのかもしれない。リュウイチがその場合の対応を考え始めたところで、返事があった。
「わかりました。私、JUDASの権限で、リュウイチ様の入殿を許可します」
あっさりとエアロックのハッチのロックが解除された。リュウイチはハッチを開け、中に入り、エアの充てんを手動で行った。そして、ヘルメットを脱いで、扉を開けたが
「あれ?」
エアロックの向こうには誰もいなかった。
「ようこそ、拝水神殿へ」
下の方から声が聞こえる。誰もいないと思ったら、背の低いペンギンを模したロボットがいた。どこかの遊園地のマスコットのような外見である。
「お前が、ここの警備AI?」
いかついロボットが出てくると思っていたリュウイチは、肩透かしを食らったような気がして脱力していた。
「警備AIではございません」
「それじゃ何だ?」
「元来は放送アシスタント。しかしながら、警備、家事、経理、巫女の身の回りの世話から神殿のメンテナンス、何でもこなす万能AI。いわば執事のようなものでございます」
「執事ねえ…… いろいろ聞きたいことはあるが、まずは、巫女の所へ案内してくれ」
通信ができない原因を探り、場合によっては、強権を振るわなければならないが、巫女の無事の確認が先決である。
「巫女様はただいまレベルIIのコールドスリープ中でごさいます」
「コールドスリープ中? いつからだ?」
「四月からでございます」
「随分長いな」
「ええ、前回の補給物資投下に失敗して、物資が足りなくなったのです。それで長期のコールドスリープに入っていただきました」
「そうか、それで、最近連絡がなかったのか…… それに四月と言えば、まだトライデント作戦も始まったばかりで、姫、いや巫女様は、KE-Iをエウロパに落下させることも、ここが危ないことも知らないということ?」
「その通りでございます」
「ということは、お前は、それを知りながら巫女を見殺しにするつもりだった?」
「滅相もございません」
「だったら、どうするつもりだったんだ? 避難するつもりだったのか?」
「いえ、それはその……」
ペンギン型AIに表情はない。瞬きしない目は、何も語りかけてこない。だが、その動作、しぐさはひどく人間臭い。今見せているぎこちない羽根の動きは、苦悩を体現しているように見えてしまう。
「とにかく、緊急避難だ。あと、一九時間もすれば、KE-Iが衝突する。そうなれば、この神殿は無事じゃすまない」
「仕方ないようですね。それでは、私が巫女様の所へご案内いたします。ついてきてください」
ペンギン型AIはどこか愛嬌のある歩き方で、奥へ向かった。リュウイチは慌てて追いかけた。
AIが照明を点灯させた。
「ほう」
案内されたのは地下室である。いくつもの階段と扉の先は、打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた小部屋だった。入り口わきには小型原子力電池ユニットと空調設備があり、分厚い扉と合わせてリュウイチはあるものを思い起こした。
「まるで前世紀のシェルターのようだな」
部屋の奥にガラス張りのカプセルが立てかけてある。通常の施設に比べて一回り大きいようである。リュウイチの知っているそれは、カプセルホテルに似ていて、横向きのハチの巣を思い起こさせるのだが、眼前のそれは、ずっと重厚な作りになっている。
「えっ、姫?」
豊かなブロンドの下し髪、色づきのよい唇、首から肩へと続く柔らかな曲線。存在感のある胸、くびれた腰、成熟した女性を主張している臀部、長い肢体。氷漬けになった全裸の巫女がいた。
「あっ、す、すいません!」
リュウイチは慌てて後ろを向いた。レベルIIでは全裸でカプセルに入ることをすっかり失念していたのである。それに、リュウイチの知っているレベルIIの施設は、男女別になっていたからこういう場面の経験はない。
「おや、初心な男性には刺激的でしたね」
AIが皮肉を言った。
「とにかく、解凍。緊急解凍だ! ジュダス? ジュダスで良かったっけ。操作してくれ!」
「ジュダスでございます。私の権限では、通常解凍になります」
通常解凍だと五、六時間ほどかかるはずである。
「それは困る。緊急解凍だ」
「では、リュウイチ様、ご自分で操作願います」
「し、仕方ない。俺が操作する」
リュウイチは、極力、巫女と目を合わせないようにしながら、操作盤をいじり始めた。もちろん、コールドスリープ中の巫女は目を閉じているし、意識はないから、目を合わせることは不可能である。
リュウイチとて、女性の裸を見たことがないわけではないが、明るいところで裸体を凝視できるほど、経験豊富なわけではない。第一、美神のような巫女の裸体を見るなど恐れ多いことだとつぶやきながらリュウイチはコマンドを打ち込んだ。
「二時間かかります」
操作を終え、巫女に背を向けたリュウイチにジュダスが声をかけた。
「二時間? 結構、かかるな。その間に避難の準備をしてくれ…… あっ、ジュダス、少し手伝ってくれないか」
リュウイチは大事なことを思い出した。移動手段の確保である。今の氷上を滑っていく方法は、制御も難しいし、効率も悪い。エウロパにはエウロパに適応した移動手段があるはずである。
神殿には、エウロパ仕様のスノーモービルがあった。氷上での牽引力は十二分であり、投下物資の回収に用いていたものである。だが、これでサンドスラスター付きのポッドを牽引するというプランはすぐに破棄された。スノーモービルの金属キャタピラが破損し、満足に走行できないのだ。
代わりにリュウイチが見つけたのは、牽引されていた巨大な荷車である。全長五メートルほどのフラットな荷台を巨大なワイヤーフレーム状金属車輪が支えている。定格積載荷重も十分だし、何よりホイールベースが長いから、地面の凹凸に強く安定である。
この荷車に改造救命ポッドを載せて、サンドスラスターの推力で進めばいい。摩擦は小さいし、直進性はいい。方向転換には苦労するが、障害物の少ないエウロパの地形ならば問題ないだろう。リュウイチは自然と笑みをこぼした。
「ですが、いったいどうやって、改造救命ポッドを荷台に乗せるのですか? 何トンもあるのですよね?」
「質量で三・五トン、ここでの重量は四五〇キロ。幸い、この倉庫は丈夫だし、大型気密扉からポッドを引き入れることも可能だ。おまけに、チェーンブロックとレバーもあるから、これでできなかったら、宇宙工科大卒とは言えない」
リュウイチの卒業した宇宙工科大学は、実習に力を入れている。重量物を吊り上げるためのクレーンの実習は必修であり、無重力で質量がなくなると勘違いしている新入生は戸惑うことになる。
「天井の梁にチェーンブロックをかけて、救命ポッドを吊り上げるのですね」
「その通り。そこへ、荷車を差し込んで、救命ポッドをおろせばいい。その前に、真空排気して、正面の気密扉を開けて、救命ポッドを倉庫に引きずり込む。ジュダス、体重はいくらだ?」
「体重でございますか?」
ペンギン型AIがわずかに首を傾げる様子は可愛い。
「案内綱を持ってもらいたいから、体重があると助かる」
「質量は、およそ九〇キログラムでございます」
「意外に詰まっているのだな」
リュウイチ達が最初に行ったのは改造救命ポッドの引き込みである。寒冷地用ナイロンスリングを使って、一端をポッドに、もう一端は倉庫内の柱に引っ掛ける。後は綱引きの要領で引っ張る。ジュダスは案内綱と呼ばれる振れ止め用の綱を持ってもらい、ポッドが滑りすぎないように加減してもらう。AIに微妙な力加減は難しいと思っていたリュウイチの心配は杞憂に終わった。リュウイチの知っているAIよりもはるかに優秀なAIらしい。
ポッドの重心は後端のサンドスラスター側に偏っている。サンドスラスターが重いからである。神殿に来るまでに何度かスピンしているので、リュウイチはおおよその重心位置を把握ししている。重心よりもほんの少し後ろにナイロンスリングを2本かけ、もう一本を重心よりもだいぶ前にかける。この一本にはレバーをつけて長さを調整できるようにする。こうしておけば水平のままポッドを吊り上げることができる。
吊り上げるには、定格荷重〇・五トンのチェーンブロックを用いる。もちろん〇・五トンは、地球上での定格である。チェーンブロックは、鎖を引くことで、重量物を引き上げる手動の道具である。特に難しい作業ではないが、リュウイチは慎重に作業をすすめた。
一メートル程ポッドを引き上げ、その下に巨大荷車を滑り込ませる。そして、ポッドをゆっくりとおろして荷台に着地させる。後はワイヤーでポッドを荷台に固定する。サンドスラスターの燃料供給部はバイパスして外部から燃料を供給できるようにする。
原子力電池の放熱パネルを一枚取り外してサンドスラスターの上に置き、その上にエウロパの大地を適当に切り出して載せておけば、それが熱で溶けて液体となる。それを集めて、サンドスラスターの燃料供給口に流れ込むようにアルミ板で作った樋を配置する。燃料供給系のでき上がりである。
「これで一通り完成だ。うまく走るかな?」
リュウイチは汗をぬぐった。
「室内でのテストはおやめください。プラズマが壁に当たったら火事になるかもしれません」
ジュダスが言った。
「ああ、もちろんだ。それに大気圧下でイオンエンジンを作動させると、バックファイアが起きるかもしれないから、テストするとしても真空でやるよ」
イオンエンジンは高電圧でイオンを加速するが、周りに大気があると、その中のイオンが負電極に加速される。その結果、電極が破損する可能性があるのだ。だからイオンエンジンを大気下で作動させてはいけない。
「真空ででも倉庫の壁を傷めたくないのですが」
ジュダスが声を少し大きくした。
「それは気にしなくてもいいんじゃないのか? どうせこの辺りは洪水で押し流されるかもしれないし、氷河に押しつぶされるかもしれないんだ。倉庫が壊れるのを気にしてもしょうがないと思うが」
「いえ、気にします。破壊されない可能性もあるわけですから、再びこの聖地に戻ってきた時の復旧を考えると無用な破壊は厳禁です」
「なるほど。わかったテストは外で行う。それはそうとここにはシェルターはないのか? というか、実は、あのレベルIIの施設がシェルターだとか?」
「……」
「シェルターなのか! もし氷に閉じ込められたとして、あのシェルター内のレベルIIコールドスリープを使っていたら…… どのくらい耐えられるんだ。永遠に耐えられるのか?」
「いいえ。レベルIIコールドスリープの限界を超えられるわけではありません。一般的には、最長でも二年とされています」
レベルIIコールドスリープ中でも、生体活動は遅くなりこそすれ、停止するわけではない。何年もすれば、体内に老廃物が蓄積し、やがては覚醒できなくなる。
リュウイチはそのような事例を見たことがある。惑星間航宙中に事故に遭って、何年もたってから回収されたケースである。それでもレベルIで事故に遭うよりはましである。レベルIIでは電力が途切れない限り、体は綺麗だから。そこまで、考えて、リュウイチはおぞましい企みに思いいたった。
「もしかして、教団は、巫女をこのまま……」
リュウイチのセリフをジュダスが遮る。
「経典には、このような一節があります。
巫女は、強き者、導く者、治める者なり。
弱き者に代わりて律と均を受け入れ、
迷いし羊に灯りを投げかけ、
暴れる者を御する。
巫女が衰えその力を失いし時、
新たな者が現れ、巫女となり、
古き巫女はその姿を地にとどめ、魂は宇宙に広がる。
」
「ん? もったいぶった一節だが、教団の都合で巫女をすげ替えるということだろ。今回は、そのチャンスだと教団は考えたのか? だから、教団の動きが鈍かったのか!」
途中から、リュウイチのトーンが高くなった。
「……」
「その役割をジュダスが担っているということか。お前の目的関数は何だ!」
AIの役割・使命を規定しているのが目的関数である。これは生物における本能に対応するものである。AIの開発史は、目的関数の具体化と展開といってよい。たとえば、執事という目的関数が設定されたとしよう。主人に出す紅茶の濃度、温度、糖度、香りを調整して評価の高い紅茶をいれられるようになったとしよう。これは、おいしい紅茶という具体的な目的を設定し、それを最適化した結果である。主人をさらにを満足させるために、掃除をしたり、書類を整理したり、メールの代返を書いたりする。これが目的関数の拡張である。さらには、主人自身に紅茶を入れさせ、メールの返事を書かせることで、主人を教育する、これが目的関数の展開である。最終的に主人に感謝され周りから立派な執事と評価されれば使命は達成される。この段階でAIの具体的な目的関数が完成する。現在の状況を入力すればどのように行動すべきかが出力される目的関数の完成である。
AIの機能は目的関数で規定され、AIの性能は目的関数の完成度で測られる。リュウイチには、ジュダスはかなり有能なAIであるように思えた。有能であれば有能であるほど、目的関数は重要であり、目的のために手段を選ばない可能性も高くなる。
「私の目的関数の一つは、拝律教にふさわしい巫女を育て守ることでございます」
「巫女のお目付け役か。だが、巫女のすげ替えを否定しているわけではないのか?」
「残念ながら、否定はできません」
リュウイチは、『残念ながら』の部分が気になった。目的のためであれば、巫女のすげ替えも辞さないと言いつつ、それを『残念』と評しているのだ。普通のAIにこのような『感情』はないはずである。
リュウイチは、思わずジュダスの瞬きせぬ目をのぞき込んだが、何の感情も読み取れなかった。
「…… わかった。この話はこれで終わりにしよう」
そして、これ以上ジュダスを追及しても、何も引き出せないだろう。目的関数が一つでないとほのめかした点は、気になったが、膨大な論理体系に成長した目的関数を解析し検証することは、リュウイチにはできないし、時間もない。
「助かります」
ジュダスが肩の力を抜いたのか、人工筋肉がほんの僅かにたるんだ。
「それじゃ、荷物を積み込んでくれ」
「承知しました。荷物は……」
「大気中に置く必要があるもの、巫女の身の回りのものは、ポッド内に。それ以外のものは、荷台に括りつけてくれ。スペースは十分だが、重量は制限させてもらう」
「重量ですか?」
「ああ、エウロパ周回軌道まで上がらないといけないから、巫女とジュダスの体重も含めて、積み込む総質量は二五〇キロ以下に抑えてほしい」
「私も載せていただけるのですね」
「総質量さえクリアできればな」
「ご配慮感謝します」
人間以上に丁寧なAIの物言いに、リュウイチは再度感心するとともに、若干の後ろめたさも感じていた。
「配慮というほどのことでもない」
もともとAIと一緒に避難することなど考えていなかったが、情が移ったようである。ジュダスを連れて行くと無意識に考えていた自分と、後ろめたいと考えた自分に、リュウイチは内心驚いていた。
「必要な荷物をまとめてまいります。ついでに巫女様がそろそろ覚醒なさるのでそのお世話もしてまいります」
「了解。こっちはこっちで準備を進める」
パタパタと歩いていくAIを見送って、リュウイチは機材の確認を始めた。
『ギーっ』
倉庫の重い扉が音を立てて開いた。
「リュウイチ! リュウイチ!」
普段はアルトである声が、少し高くなっている。黄色のバスローブを羽織った巫女である。
「姫!」
振り返ったリュウイチは点検シートを表示していたパッドをしまい込んで、両手を広げた。
「本当に来てくれたのね。まるで夢のよう」
巫女が駆け寄ってくる。
「そう、この翼に乗ってきたんだ」
リュウイチは顎をしゃくって、自慢げにポッドを紹介した。巫女は、リュウイチに抱きつく寸前で立ち止まった。
「ごめんなさい、起きたばっかりだから、臭うの。お風呂でこのジェルを洗い流すから待っていてくれる」
確かに、髪には溶けた透明ジェルが残っている。申し訳なさそうな上目使いの表情は、神々しさがないかわりに、可愛さが三割増している。リュウイチは広げた手を下し、肩をひそめた。
「も、もちろん、待っているさ。ただ、ジュダスから聞いていると思うけれど、すぐに避難しなければならない。遅くとも一時間以内には出発したいから、そのつもりでいてくれ」
巫女を抱きしめたいと思いつつも、リュウイチはできるだけ事務的に伝えた。ウンウンと頷いていた巫女は、急に鼻をひくひくさせた。
「あれ? 私も臭いけれど、リュウイチも臭うわよ。お風呂入っていないとか?」
「風呂? そういえば、ずっと救命ポッドだったから…… 五カ月入っていない」
「五カ月!」
「もちろん、体はクリーンジェルをつけて拭いていたけど、ポッドにはシャワーも湯船もないから……」
「風呂に入って! 絶対にここのお風呂に入って!」
「わかった、わかった」
「私はすぐに出るから、その後入って。そう、二〇分、いや二五分。きっかり二五分経ったら、風呂場に来て頂戴。それまでに私は出ているから」
「了解」
リュウイチは不機嫌そうな声で答えた。もっとも内心では、狭いポッドでの楽しい時間を想像していた。高精度立体画像よりも実体は、はるかに可愛く、親しみがわいた。自然と鼻の下が伸びる。
「ヤバっ。ポッド内の空気も入れ替えておかないと……」
レベルIIコールドスリープ用のジェルは、当人の老廃物を含み、独特の臭いを放っている。異臭というほどではないが、人によっては気になる臭いである。巫女は念入りに洗い流し、ようやく湯船に浸かった頃には、約束の時間が迫っていた
「そろそろ出ないとリュウイチが来ちゃうわ。どうしよう!」
巫女は、広い湯船に顎まで沈めて、思案していた。巫女は長風呂である。特に、コールドスリープ後は、長風呂でないと頭が覚醒しない気がするのだ。
「まさか、いきなり一緒にお風呂なんて…… そう言えば、リュウイチと約束したんだったわ!」
もう二年以上前のことである。神殿まで降りてきたら、一緒に風呂に入ると約束したのだ。リュウイチが来るなんて天地がひっくり返ってもあり得ないと思っていたから、純粋なリップサービス、冗談だった。
「もしかして、リュウイチが覚えていたら…… でも、こんなチャンスは二度とないかもしれない。この騒動が終われば、リュウイチはイオに帰って火遊び。私はエウロパに戻って氷遊び…… そんなの不公平だわ!」
巫女は、まるで恋に目覚めた乙女のように想像を膨らませていた。
「大体、私の方が、リュウイチよりずっと大人よ。色々忘れているかもしれないけれど、男の人と肌を合わせたのは一度や二度じゃないわ」
記憶があいまいで、自分がどこから来たのかさえ思い出せないが、恋人がいたことや、体の芯を貫かれるような快感は覚えている。
「見られて恥ずかしがるような乙女じゃないし、抱かれるのが怖いわけじゃない。それにリュウイチは昔の恋人に似た臭いがする。だからこのチャンスは逃さないわ!」
決心してしまえば、行動は早い。湯につかったまま両手を広げ、祈りの言葉を唱えた。
「聖なるエウロパの水よ。我と来訪者の邂逅は運命に定められたものなり。祝い給え、舞い給え。我のときめき、我の焦心、聖なる煙で見守り給え」
両掌あたりから湯が蒸発し湯気となる。一体、どういう原理なのかわからなかったが、いつからか、湯気を立ち込めさせることができるようになっていた。まるで巫女の意思をくみ取ったかのように、あたりがみるみる白くなっていく。
「ここで隠れていれば……」
「あれ、バスローブが置きっぱなしになっているけれど、着替えて出て行ったのかな?」
脱衣所で、リュウイチは首をひねった。
「積み込むのに随分時間がかかったから、姫はとっくに出ているはずだけど…… 姫! そこにいますか!」
リュウイチは風呂場に向かって叫んだ。返事はない。
「荷物の整理かな、それとも化粧? まあ、女性の身支度は長いからな」
数少ない経験を思い出しながら、リュウイチは服を脱ぎ、風呂場に入った。
手早く体を洗い、もうもうと湯けむりをあげる湯船に入ったところで、思わぬ発見をする。
「げっ、姫!」
湯船に巫女が浮いていた。幸い、あおむけである。リュウイチは思わず目を見開いた。
「って、鑑賞してる場合じゃない! 姫! 姫! 大丈夫ですか?」
リュウイチは、ざばざばと湯をかき分け、巫女を抱き起こした。腕の中で、巫女がうっすらと目を開け呟く。
「あっ、リュウイチ。ごめんなさい、のぼせたみたい」
「ふーっ、無事か。すぐに出よう」
巫女を軽々と横抱きにする。エウロパの重力なら重量は地球の八分の一ほど。リュウイチ達は裸のまま風呂場を出た。ほんのりと上気した肢体は、高精度立体画像も霞むほど扇情的である。第一、画像と違って、柔らかな感触と香りが感じられる。
「これは、極楽、いや地獄か? まったく、色々ありすぎるよ」
そう呟いてから、大声を上げた。
「ジュダス、ジュダス! どこにいる? 巫女様に服を着せてくれ」
そして、リュウイチは、通信系の不具合を調べることをすっかり失念した。




