26.着陸シーケンス(西暦二一八五年八月、九月)
サンドスラスターは特にトラブルもなく、順調に稼働した。また、元船長のじゃまもなく、必要な軌道修正を終え、Xデー一か月前を無事に迎えた。
一方、四片に分裂したブラックアステロイドは、一定の間隔を保ち、予測通りの軌道を走っている。ドラゴンフルーツの状況は変わらない。相変わらずマイケル元船長が船を動かしており、メイファン、パトリシア、サムは居住モジュールに閉じこめられたままである。元船長がその気になれば、メイファン達を窒息させることができたから、その気は無いようである。ドラゴンフルーツの軌道は、エウロパ周回軌道を目指して減速している。その理由は誰にもわからないが、KE-Iに追いつくことはもちろんのこと、トライデント作戦を妨害することは不可能だと公社本部は判断した。
改造救命ポッド1は、トライデント作戦本部の指示通りに、KE-Iを離れ、四○○メートルの凍結燃料の大半を消費し、加速減速を行い、KE-Iより一足先にエウロパ上空に到着し、周回軌道に乗った。リュウイチは、イオから送り込まれる無人救助船に乗り換え、イオに帰還する予定である。
「ようやくここまで来たぞ。後は、救助船を待つだけだな」
リュウイチは、船外で改造救命ポッド1の点検を終えた所である。イオに帰還するのはリュウイチの身一つであり、ここ五カ月ほど過ごしたポッドは、サンドスラスター01や化学エンジンと共にエウロパ周回軌道に残していく予定である。再び、リュウイチがここに戻て来る保証はない。誰一人戻ってこないかもしれないし、サンドスラスターがプラズマを吹き上げることは永遠にないかもしれない。
リュウイチは、サンドスラスター側面のタラップから、灰白色の大地を見下ろしていた。黒光りするサンドスラスターの下には、鈍い輝きを放つ凍結燃料、白く塗装された救命ポッド、そしてその下にも凍結燃料と化学エンジンがある。最上端のサンドスラスター噴射口から最下端の化学エンジンまでおよそ一三メートル。そこからエウロパ表面まで、およそ三○○キロメートル。ポッドは、秒速一・三キロメートルが生み出す遠心力と重力がつりあった無重力状態の円軌道をおよそ二時間かけて一めぐりする。
灰白色のエウロパをじっと見ているとゆっくりと大地を流れていくのがわかる。
「前に来た時から二年四カ月か。姫はどうしているのかな」
エウロパ上空からリアルタイム通信でエウロパの巫女と話をし、喧嘩したのは、つい先日の事のように思える。実際、コールドスリープのおかげで体感時間は半年にもならないし、色々なトラブルのおかげで、あっと言う間に木星を一回りしたというのが正直な感想である。
「メールしても返事もくれないしなあ」
リュウイチは何度かメールを送ったが、ここ何カ月かは返事がない。返事が無ければ、出すのも億劫になり、関係は次第に疎遠になる。
それでも、凍てつくような漆黒の宇宙で、何年もの間、巫女がリュウイチにあたたかな陽光を注いだのは事実である。触れ合うことも手を握ることもできなかったが、巫女を忘れたわけではない。
「姫との最小距離は三○○キロメートル。これが俺の限界か」
救助船に乗り換えてイオに帰還すれば、巫女との距離は二五万キロメートル以上。それを考えれば、三○○キロメートルはすぐ隣と言ってもいいぐらいである。
「ここまで来れただけでも良しとすべきなんだろうけど…… 結局、姫は俺にとって何だったんだろう? 姫にとって俺はなんだったんだろう?」
青春の一コマと評するには、まだ生々しい記憶であった。
「あっ、あれは…… メリベイル・リネアだ」
縦横に走るリネアと呼ばれる線状の地形は幅数一○キロメートル程の隆起で、この高度だと太陽の影でその立体的な地形がよくわかる。メリベイル・リネアは全長二○○○キロメートルあまり、長大な地形は円弧状の地平線の彼方まで延び、赤道まで達しているはずである。
「姫の拝水神殿はあの辺りだったと思うけど」
前回は、エウロパ上空から望遠鏡を使って拝水神殿を丹念に探したから、この辺りの地形は頭に入っている。
「KE-Iの落下予定地点も確かメリベイル・リネア沿いだったから…… 五○○キロメートルぐらい離れている。意外に近いな」
リュウイチはヘルメット内に投影された地図を横目で見ていた。KE-Iの落下予定地点は、南緯六九度東経四○度、一方、拝水神殿は、南緯五○度東経五五度。どちらもメリベイル・リネアの畔である。
「これだけ、近いとKE-Iの落下で洪水が起きてまずいんじゃないのかな。姫は避難したのだろうか?」
二年前のKE-IIIの時には、インパクト地点付近は、洪水と氷の銃弾でひどいことになった。三○○○キロメートル離れた神殿でも雪が積もったと巫女は話していたが、今回のKE-Iのインパクト地点はずっと近いし、インパクトの規模も大きい。
「神殿には緊急離昇機も無いと言っていたから、どうするのかな」
氷の世界に囚われた巫女。リュウイチには、巫女を重力井戸の底から引っ張り上げる力はないと歯噛みしたのを覚えている。
「いや、まあ、教団が何とかするはずだし、公社本部に救援の要請ぐらいしているだろう」
それに、いざとなったら、氷上移動用のスノーモービルが使える。時間さえかければ、それで逃げられるはずである。
『こちら、トライデント作戦本部。ポッド1、リュウイチ、聞こえるか?』
「ん? イオからか」
エウロパまで来ればイオとの通信の往復タイムラグは最長で七秒、今は最短に近い二秒である。
『カールだ。困ったことが起きた』
ヘルメット内のモニターにカール・セルダンの顔が映し出されている。
「困ったこと?」
『電磁カタパルトの線路が一部爆破された。真理派の連中の仕業じゃないかと噂されているが、捜査が始まったばかりだ』
「電磁カタパルトか、そりゃ、大変だな。でもイオは自給自足ができているから、問題ないんじゃないか?」
『問題は、リュウイチだ。エウロパに送り込むはずだった救助船はかなり遅れそうだ。少なくとも一週間はダメだと、カタパルトの運行部長が言っていた』
リュウイチは、作業を中断し、ヘルメット内に投影されたカールを見やった。
「一週間なら、コールドスリープしていれば、あっと言う間だけれど」
リュウイチは、地平線の向こう側から影がやってくるのを見ていた。リュウイチの改造救命ポッド1はこれからエウロパの夜側に入るのである。急いでヘルメットに備え付けのライトを点灯させた。
『もう一つ問題がある。実は、緊急着陸離昇機を収納した救援母船も送り込むことになっていたんだが、それも遅れる』
「緊急着陸離昇機? まさか、姫のため?」
『エウロパの巫女を避難させるために緊急着陸離昇機を神殿まで送り込むことになっていたんだ。もっと早くに送り込む予定だったんだが、教団の方がエウロパからの巫女の退避を渋っていて、返事を待っているうちに、今回の爆破だ。運が悪い』
「退避を渋っている? 教団が?」
『そもそも、今回の事件は、教団内で巻き返しを図った真理派が、電磁カタパルトを使用不能にし、イオを孤立させ、地球とのパイプを切ろうとしたのだという見方もある。実際、発射基地から不発の爆弾が見つかったから、長期に渡ってイオを孤立させようとしたのは間違いない』
「イオはいいけど、姫、エウロパの巫女はどうするんだ! 電磁カタパルトが使えなくたって、大昔のように化学ロケットで救援母船を打ち上げればいいじゃないか。イオには、凍結化学燃料はいくらでもあるんだから」
『確かに昔は鉛直発射台から離昇していた。だが、昔の発射台を整備するには時間がかかるんだ。あそこは、かなり気温も気圧も高い場所にあるから、凍結化学燃料を使うには、発射台全体を覆うようなカバーが必要になる。とてもじゃないが、数日で整備できるようなものじゃない。それにもう一つ問題がある。巫女からの応答が無いんだ』
「応答がない?」
『レベルIIのコールドスリープ中であることはわかっている。だから巫女自身が応答できないのは仕方ない。だが、なぜか、公社本部から強制覚醒もかけられないし、管理用AIも指令を受け付けないらしい』
「通信機の故障?」
『通信は出来ているし、神殿の環境データもモニターできているんだが、それ以上のことは不明だ。何か事故が起きたのかもしれない』
「ということは、誰かが行かなければならない?」
『覚醒させられれば、巫女に自力で赤道辺りまで避難してもらえればいい。確か、スノーモービルが一台あったはずだ。どちらにしろ、連絡が取れないのなら、公社本部には打つ手はない』
「打つ手がない? そんなことはないだろう。木星系での一○○年の経験と豊富な資金と人材を抱えた公社が何もできないという事はないだろう。二一世紀半ばまで数々の宇宙ミッションを成功させたあのNASAよりもはるかに巨大な公社が何もできないはずがない!」
リュウイチのトーンは次第に高くなっていった。
『ないわけじゃ……』
「まさか、わざとなのか。教団は、彼女をわざと見捨てて、生贄に仕立てるつもりなのか?」
『そういう噂もある。生贄となることで巫女は神性を獲得すると唱える者もいるらしい。また、教典で、巫女の犠牲が予言されていると言う信者もいる』
「馬鹿馬鹿しい! 総裁、コレ―に繋いでくれ!」
リュウイチは、思わず大声を上げた。
『おそらく、総裁は何も言わないだろう』
「そんな馬鹿な! エウロパの巫女だぞ! 全太陽系のアイドルだぞ! 公社は、彼女を見殺しにするのか!」
『おい、リュウイチ、落ち着け!』
「こうなったら、俺がなんとかする!」
今、巫女の一番近くにいるのはリュウイチである。イオの助けが期待できないのなら、リュウイチが行けばいい。だが、巫女は三○○キロメートル下だ。映画のように豆の木を伝っていけるような所ではない。重力と遠心力が釣り合った無重力状態だから、飛び降りることもできない。リュウイチは唇を噛んだ。
モニター内のカールは辺りに目をやってから、口角をほんの少し上げた。
『ここだけの話だが、プランが無いわけじゃない』
カールは声を落として、囁いた。
「プラン?」
「私案だ。理事達に話した瞬間に、荒唐無稽だと一蹴されたけれどね。でも、検討すればするほど、現実的に思える』
そう言って、カールが説明しだしたのは、リュウイチを神殿に送りこむ作戦だった。
後に、このプランは、『アンドロメダ姫救出シナリオ』と呼ばれることになる。イオのゲームメーカーは、ポセイドンの怒りを鎮める生贄となったアンドロメダ姫にちなんで、『アンドロメダ姫救出シナリオ』を発売したのだ。
* * *
リュウイチの船、改造救命ポッド1、に取り付けられたサンドスラスター01は、巨大扇風機で砂を吹き上げるサンドスラスター50と違って、イオンエンジンである。砂でも氷でも液体でもなんでもプラズマにして吹きだす万能スラスターであるが、推力が小さいため、星を動かすにはほとんど無力であり、ここ数十年は出番がなかった。ただ、マイケル元船長の指示で、リュウイチが改造したおかげで、一時的な推力は大幅に増加した。推力の応答と精度がよく、凍結化学燃料よりも扱いやすいという点で着陸には適しているはずである。そうは言っても、イオンエンジンには重大な欠点がある。
「通信系統はオフっと」
リュウイチは、通信機の電源を落とした。これで、公社本部から、船の制御を奪われる恐れはなくなり、リュウイチは自由に動ける。これは大事な点である。公社内には、巫女を見捨てて生贄に仕立て上げようとする者がいるかもしれないのだ。それがわかっているから、公社総裁のコレ―も知らないふりをしている。と同時に、リュウイチは独力で着陸しなければならない。
「それから、放熱パネルを収納して……」
リュウイチがコマンドをタッチパネル式ディスプレイに打ち込むと、サンドスラ―スターの周りに展開されていた四枚のパネルがゆっくりと閉じていった。放熱パネルへの電力はすでに遮断されており、原子力電池の出力○・一メガワットは、蓄電池に回されている。
「電池残量は九六パーセントだから、丁度いい」
正面ディスプレイ上には発電、配電、蓄電状況が示されている。安定した電力を供給する原子力電池、そして三・五日分の電力をため込むことのできる高密度格子ひずみ蓄電池。高性能イオンエンジンと共にサンドスラスター01を構成する重要なパーツである。
エウロパに着陸するには、ため込んだ電気の三日分を一気に消費する。そのエネルギーはおよそ三○ギガジュール、今回の着陸航程での最大出力は一三メガワットである。
「カールから送られた着陸シーケンスを流し込むだけだから簡単だな」
エウロパの大地を基準にすれば、リュウイチの船は、高度三○○キロメートルを、秒速一・三キロメートルで水平に飛行している。着陸とは、高度ゼロ、速度ゼロという終状態の実現である。地球ならば空気抵抗で減速が可能であるが、大気の薄いエウロパではそのような減速は期待できない。エンジンの推力だけで減速するのだが、下手をすると、地上に激突する。そうならないように、いつ、どの方向に、どれだけの推力を、どれだけの時間、噴射するのかをあらかじめ決めた手順が着陸シーケンスである。
もっとも単純なシーケンスは、最初に水平方向の速度をゼロにまで落とす。そうすると遠心力がゼロになり、船はエウロパの重力で落下する。次に、鉛直に落下しながら減速し、許容範囲内の速度で高度ゼロの地表に降りる。具体的な許容鉛直速度は、秒速五メートル。これ以上だとサンドスラスターの伸縮脚が破壊され、サンドスラスター自身が破損する可能性がある。
許容水平速度はもっと厳しい。水平速度があると、着地した瞬間に、脚が大地に引っかかり全長一○メートル近くの船が転倒してしまうのだ。二一世紀初頭に、打ち上げ用ロケットを、再利用のために着陸させようとしたことがある。大抵の失敗原因は転倒であったから、今回も注意しなければならない。
幸いなことにエウロパの重力は地球の約八分の一であるから、着陸の難易度は低い。ただし、イオンエンジンの推力は非力であり、必要な減速に長い時間がかかってしまうという欠点がある。一方、凍結化学燃料と化学エンジンの組み合わせは、推力は十分であるが、制御が難しく、着陸に用いる場合は、大小複数の化学エンジンをセットで用いるのが普通である。
改造救命ポッド1の場合、一基の化学エンジンと一基のイオンエンジンを備えていたから、一択であった。つまり、化学エンジンを捨て、イオンエンジンだけを使うことにした。さらに、余分な燃料を捨て、ギリギリまで減量した。その結果、船の重量は一○トン。その内、燃料は七トン。予定通りであれば、着陸した時には○・五トンの燃料が残るはずである。どのタイミングでどれだけイオンエンジンを吹かせばよいか、全てカールの作った着陸シーケンスに任せていれば、リュウイチは、見ているだけでいいはずである。
「後は、シーケンス開始の予約コマンドを入れればいい」
狭い船内の前部には緩衝器付のシートがあり、その周りに各種タッチパネル式ディスプレイが配置されている。手元のディスプレイだけは、最新式の3D浮彫タイプである。コマンド一つで、画素がせり上がり、スイッチ、ダイヤル、レバー、スライドが成形されて、簡易的なアナログ操作卓ができ上がる。メイファンが無理に積み込ませたものであるが、手動操縦でもしない限り、使用しないはずである。
「シーケンス開始まで、七分」
シーケンス開始時刻は厳密に定められている。そうしないと、神殿の近くには着陸できない。リュウイチの船は秒速一・三キロメートルで飛行しているから、一○秒の遅れは、一三キロメートルの着陸地点のずれになる。もちろん、シーケンスの途中に無推力慣性飛行の時間が2回設けてあるから、十秒ぐらいのずれは十分吸収できる。それでも、最初から遅れれば、余裕がなくなり、苦労することになる。
「あれ、カールからメールが来ているぞ」
メールには最新の着陸シーケンスが添付されていた。カールによれば、KE-IIIのインパクトで上昇したエウロパの大気圧を考慮したとの事であった。古いシーケンスとそれほど変わらないから、どちらを使ってもいいと書いてある。リュウイチは何も考えずに、シーケンスデータを上書きした。安易であった。
「えっ、データフォーマットが違う?」
フォーマットが違えば、役に立たない。正面ディスプレイで着陸制御プログラムがエラーを吐きだしていた。リュウイチは、すぐに手元の3D浮彫ディスプレイをキーボードに変形させて、フォルダーを探し始めた。
「変換ツールは…… どっかにあったっけ? そもそもこのフォーマット『%PDFX』は、初見だから…… ここには、ツールは無い?」
右側のディスプレイにはカウントアップ時計が表示されている。今はマイナスの時刻で、これがゼロになった時が着陸シーケンスを開始する時刻である。
「げっ、あと三二○秒! 焦るな、焦るな!」
リュウイチは宇宙服のヘルメットを両掌で叩いた。
「まずは、問題の整理と解決策の立案だ…… 問題は、シーケンスを開始できないこと?」
着陸制御プログラムにもう一度データを流し込んでみるが、結果は変わらない。リュウイチはため息をついた。
「変わらないか。ならば、案その一。通信機を再度オンにしてカールを呼び出して、古いフォーマットで再送信してもらう…… 二、三分じゃ利かないな」
二、三分もずれれば、二○○キロメートルぐらいはずれるから、これは論外である。
「案その二。この船は二時間でエウロパを周回するから、二時間後に再チャレンジする? でも、同じシーケンスだと、やっぱり、着陸地点がずれるし、この二時間の遅れがあとあと利いてくるかもしれないし……」
船が周回軌道に乗っているとは言っても、昇交点歳差運動のために軌道は一周ごとに一○キロメートルほど移動してしまう。おまけに、KE-Iのインパクトが迫っていて時間が無い状況で、二時間の遅れは痛い。
「しかし、このシーケンスは単純だな。六航程しかない」
左側ディスプレイ上のシーケンス概要図には、予定開始時刻と各ポイントでの推力と持続時間と方向が記載されている。最初に、高度を一○○キロメートル程上げて、九○度回転して、水平方向に制動をかけて、もう一度九○度回転して、鉛直方向に制動をかけながら降下していく。最後は自動着地プログラムに任せればいい。
「これは、手動でできるかも」
シーケンス自身は自動で走るが、途中での軌道誤差の修正は、リュウイチが確認し、必要であれば手動で行うことになっている。そもそも、エウロパのGPSの精度はそれほど良くないから、位置・速度測定の誤差は意外に大きい。リュウイチが『刀』で円筒状に成形した凍結化学燃料は真円には程遠く、船の重心は真ん中からずれているし、凍結化学燃料の消費に偏りがあれば、重心はさらにずれるだろう。ある程度の軌道修正は自動的に行うが、それでもチッェックポイントでの確認と微修正は必須である。
「シーケンスを流し込めばいいとは言っても、完全自動ではないし、手動とは言っても、値をセットしてコマンドを打ち込むだけだから、完全手動というわけでもない……」
リュウイチは、マイナス九○秒を示すカウントアップと左側ディスプレイ上のシーケンス概要図を見比べた。概要図には各航程に必要な設定数値が記載されている。また、横に長いチャートには、各時刻での位置、速度、方位の予定が赤線で示されており、現在までの変化が青線で更新されている。この青線を赤線に合わせるように操縦すればよい。
「思い切って手動で着陸してみる?」
リュウイチは着陸制御プログラムのカウントアップ時計以外を停止させた。そして、手元の3D浮彫ディスプレイを再び操作卓に変形させた。何事もなければ、この操作卓はほとんど使わないはずで、正面ディスプレイで数値を打ち込むだけでいいはずである。
「鉛直センサはプラスマイナス○・二度で問題ない」
無重力中で鉛直方向を知るには工夫が必要である。リュウイチの船の場合には、高精度重力勾配計で鉛直方向を測定する。
「よし、後二四秒。第一航程は、方位維持モード、オン、推力設定値は最大の九キロニュートン、噴射時間は二二○秒」
リュウイチは正面ディスプレイに設定値を打ち込んだ。
「操作卓連動オン」
手元の3D浮彫ディスプレイのスイッチやレバー類が設定値に合わせて一斉に動いた。
「操作卓優先」
これで、もし、リュウイチが操作卓を動かせば、船は素直に反応するはずである。
カウントアップが進む。
「五、四、三、二、一、オン!」
操作卓のトグルスイッチを倒すと、リュウイチの体はシートに押しつけられた。約○・一G。弱いG、加速度である。
「全航程は、水平移動距離一四九二キロ、鉛直方向はプラス一二○キロと、そこからマイナス四二五キロメートル。予定終了時刻は三○○八秒!」
イオンエンジンでこの規模の衛星に着陸するのは人類史上初の事であるが、リュウイチにそんなことを教えてくれる者はいない。怖いもの知らずである。
「鉛直は変わらないな」
船は周回軌道に乗っていたから、鉛直方向は刻々と変わっていく。鉛直が変わらないのはサンドスラスターに組みこまれた姿勢制御スラスターがフィードバック制御をしているからである。
「よし、もうすぐ上方加速は終わりだ」
エウロパに着陸しようとするのに上昇するのは、一見するとおかしいが、これには理由がある。イオンエンジンが非力であるために、減速するための高度と時間が必要なのだ。そうしないと水平方向に制動をかけている間に大地に激突することになる。
「二一○秒。もうすぐだ。一八、一九、オフ!」
トグルスイッチが反対側へ倒され、エンジンが停止する。無重力でリュウイチの体がほんの少し浮き上がるが、シートベルトが体を縛りつけている。高度は三二○キロメートル。上昇速度は秒速二○○メートル。加速が止まっても、高度はしばらく上がり続ける。
「さて、今のうちに、九○度回転しないと。えーと方位は、水平面内の進行方向にエンジンを向ければいいから…… この辺りかな?」
リュウイチは、地球ゴマのような方位の立体画像を見ながら角度を調整した。
「後は、角度をセットして、オン!」
サンドスラスターの姿勢制御スラスター群が定型プログラムに従って、ガスを噴き出した。鉛直からの角度計が九二度を指した所で回転が停止した。
「二パーセントほど行き過ぎたか。しかし、なぜだろう? 校正運転で係数を決めたはずなんだが…… 」
リュウイチは頭をひねったが、すぐに答えは出てこないし、考えている暇もない。
「まあ、後で考えよう。取りあえず、マイナス二度に設定して、オン!」
再度回転し、今度は目標値の九○度に落ち着いた。
「後は、同じようにして、水平面内の角度調整…… もう一度、オン!」
エンジンの噴射方向を正しい向きにセットしなければならない。そうしないと秒速一三○○メートルの対地水平速度をゼロにまで減速することができない。
「また、行き過ぎた。しょうがない、もう一度反対方向に回転…… オン! …… オン!」
リュウイチはディスプレイ上の方位と角速度の測定値をじっと睨んだ。値が変わらないのを確認して、安堵した。着陸シーケンスにおいて最も重要なのは方位とその安定性である。間違った方位に推力を与えては、大きく軌道がずれ、そのずれは、着陸地点のずれ、最悪の場合は大地への激突となるから、リュウイチが細心の注意を払うのも当然のことである。
「ピッチ、ロールもないし、恒星センサの方位計ともコンマ五度で矛盾していない」
恒星センサは、星の見える方向から船の方位を導き出すもので、高精度なすぐれものである。しかし、これはあくまでも太陽系座標系での方位であって、公転する木星の周りまわるエウロパの座標系での方位ではない。欲しいのはエウロパから見た鉛直と東西南北の方位である。恒星センサのデータの他に、各種計測データを使って、複雑な計算をしなければ、欲しい方位は得られない。そうやって得られた方位は大きな誤差を含んでいる。
そこで、直接、鉛直方向を測る重力勾配計の出番である。鉛直とは万有引力の向きである。だから、無重力の中で引力の向きを知ることはできない。だが、厳密には、重力の向きは場所によるから、船の端と真ん中では向きが異なる。凡そ一億分の一の重力の差から鉛直の真下をはじき出すのが重力勾配計である。ややこしいのは木星の引力である。これをきちんと補正しないと真下はわからない。結局、どの値も誤差を持つから、データの吟味は必須である。
リュウイチは方位が正しいことを確認してから、カウントアップを見やった。四五○秒を過ぎた所である。
「あと一分以上、余裕があるか……」
ドップラーレーダーの示す高度はまだ上昇し続けている。
「よし、ここからが本番だ。減速を始めれば、後戻りはできない」
これから一○○○秒以上をかけて、対地水平速度をゼロにする。その間、エウロパの重力を打ち消していた遠心力は徐々になくなり、落下が始まる。そう、後戻りはできない。エウロパに軟着陸するか、激突するかのどちらかだ。
「減速!」
リュウイチの体は再びシートに押し付けられた。GPS受信機が吐き出す水平速度が凡そ一秒間に秒速一メートルの割合で下がっていく。
「手動でも問題なさそうだな」
チャート上の予定軌道を示す赤線を、実際の軌道を示す青線がなぞっているから、順調と言っていいだろう。
「そろそろ、下降し始めるぞ。水平方向、秒速七五○、落下速度、秒速ゼロ」
最初の上昇速度は力を失い、遠心力にエウロパの引力が勝り始めれば、後は落下するだけである。それでも、水平方向の減速はやめない。これをゼロにしなければ、エウロパ地表で氷山に突っ込むことになるからだ。
「よし、水平速度はほぼゼロ。カウンターは一六二二秒。落下速度は秒速五六一メートル。高度三○七キロメートル。さて、これからが大変だ」
リュウイチは船を九○度回転させ、噴射方向を真下に向けようとした。
「あれ、今度も行き過ぎたぞ。はて?」
船を回転させるには、姿勢制御スラスターを吹かし、決められた時間の後に逆方向へ吹かして回転を止める。どうやら予想よりも回転が速いのである。
「そうか! 船が短くなっているのか!」
船の尾端にはイオンエンジンと原子力電池を積んだサンドスラスターがあり、その上に円筒状の氷の燃料。そこにラグビーボール型の救命ポッドが突き刺さっているのだが、燃料を四トン程消費したおかげで船の長さが短くなっているのである。
「慣性モーメントが小さくなっているんだ! だから、同じ推力でも大きく回転するのか。ということは、設定角度を小さめすればよくって……」
カールから送られてきた着陸シーケンスはその辺りも考慮して設定データを決めていたが、手動の場合は、船の長さの変化も設定しなおさなければならなかった。それでも、慣れれば何とかなるものである。
「よし、これで真下だ、後は減速しながら降下していけばいい。最大推力でオン!」
リュウイチはすぐにエンジンを吹かした。落下速度はすでに秒速六○○メートル。地球上なら超音速である。一刻も早く減速したいが、イオンエンジンは非力である。
「残り燃料は約三トン。電池残量六○パーセント。高度は二一○キロメートル、降下速度は秒速五九八メートル」
棒グラフの棒が一斉に減っていく。高度がゼロになるまでに降下速度がゼロにならなければ、氷の大地に激突することになる。残り燃料がゼロになった時に、高度があれば、そこからは自由落下であり、やはり大地に激突する。電池の残量がゼロになっても同じである。原子力電池の発電能力だけでは、最大推力の百分の一も出ない。
「まるで、チキンレースだな」
リュウイチは、ゼロに向かって減っていく棒グラフに、古い二次元映像を思い出していた。二人の青年が車で崖に向かって疾走する。どれだけ崖近くまで逃げ出さずにいられるかという度胸比べである。
「主人公はギリギリの所で車から飛び降りたが……」
リュウイチは船外モニターに目をやった。さっきまで丸みを帯びていた灰白色の大地は画面いっぱいにひろがっている。
「さすがに、船から飛び降りるわけにはいかない」
そんなことをすれば、リュウイチは隕石のようにエウロパに衝突するだろう。
「二三○○秒。落下速度は二○○を切ったぞ。高度は二○キロメートル。燃料残量は…… 一トン弱」
リュウイチは、大きく息を吸った。宇宙服内は○・五気圧に保たれている。宇宙服としては正常値であるが、薄いと感じるのは当然である。
「あっ、そうだ。壁面モニターがあった」
リュウイチは船壁のスイッチを押した。直ぐに、船内の壁がスクリーンに変わる。画質は悪いが、壁が透明になったかのように外の風景が壁面に映し出される。もちろん、船内機器は透明にならないから三六○度の視界が得られるわけでない。それでも、一瞬空中に放り出されたような気分になる。
「恐いな」
それでも、スイッチは切らない。リュウイチは恐怖感を紛らわすために、ディスプレイを注視した。
「燃料を二トン使って、秒速四○○メートル分か。残り一トンで秒速二○○メートルを減速しなければならないからギリギリだな。いや余裕かな?」
同じ割合ならばギリギリだが、燃料を消費した分、船は軽くなるから、減速は速くなる。少しは余裕があるはずだ。
「とにかく、降下速度を一端ゼロにして……」
レーザードップラー計が高度一○キロメートルを示している。リュウイチはちらりと外を見やった。視界の端に角ばった箱のようなものが映った。
「あった! 神殿が見えたぞ! 少し離れている。四、五キロか」
リュウイチは正面ディスプレイの数値を見ながら、チラチラと外を見た。
「こっちが先だ…… よし、降下速度ゼロで、高度、五一○○メートル。推力を少し落として……」
リュウイチは3D浮彫操作卓の推力ノブを微調した。
「降下速度を、秒速五○メートル! このまま、高度五○○メートルまで放置! その間に水平方向を何とかしないと」
着陸しても、神殿から遠ければ苦労するだろうし、地表での移動がどのくらい難しいのかはまったく想像できない。できるだけ、神殿の近くに降りたい所である。そのためには横方向の推力が必要だ。
「姿勢制御スラスターを手動で吹かせば…… コントロールは全て手動にして、コレとコレでいいだろう」
リュウイチは二つのボタンを同時に押した。
「おっ、あれっ?」
回りの景色が回転し始めた。
「まずいまずい。逆側を吹かさないと」
リュウイチは別のボタンを断続的に押した。徐々に回転が止まり、更には逆方向に回転しはじめ、船の軸が鉛直に戻っていく。いくつかのボタンを押して、景色を見ながら鉛直に戻した。加速度の働いている時に、敏感すぎる重力勾配計は使えない。
「ふーっ、姿勢制御スラスターはサンドスラスターについているんだった」
船の重心はもっと上にあるから、この姿勢制御スラスターを何も考えずに吹かせば、横方向の推力だけでなく、回転力も発生する。
「カールのシーケンスを使っていれば、こんな苦労はしなくて良かったけど…… まあ、ここまで来られたんだから、いいだろう」
いつの間にか高度計は二五○メートル、降下速度は秒速八メートルにまで落ちていた。
「あれ、高度はいいけど、降下速度が落ちているぞ。このままだと、降下が止まって、上昇し始める!」
上昇し始めては意味がない。リュウイチは即座に推力を切った。一端秒速三メートルまで減った降下速度が、自由落下で増加に転じた。船の重量が軽くなるから、推力が一定でも加速度は徐々に変化していく。降下速度を手動で一定に保つのは簡単ではない。
「とにかく、秒速五メートルだ」
秒速五メートルを超えると、サンドスラスターの伸縮脚がもたない。逆に言えば、五メートル以下なら何とかなると言うことである。
「まずいな、燃料があと○・二トン」
ただし、途中で燃料切れになれば、そこからは自由落下である。
「しかも、この残量は計算上の値だし」
燃料はどんどん溶けていく氷の塊であるから、燃料計は無い。○・二トンはあくまでの計算上の値であり、誤差もあるはずである。
「まあ、あと八○メートルちょっと。自由落下しても、エウロパの弱重力なら何とかなるだろう」
リュウイチは楽観的である。重力が八分の一であるから、八○メートルからの自由落下は、地球上なら一○メートルの落下、マンションの四階から飛び降りるようなものである。この高度から自由落下して、無事で済む高さではない。
不意に辺りが暗くなった。
「夜側に入った? いやいやこの地域は当分昼間のはず」
エウロパの一日は、八五時間であるから、夜は当分先である。空を見上げると巨大な木星があった。木星が太陽を覆い隠したのである。
「げっ、日食か!」
日食は三時間近く続く。
「見えなくても何とかなるだろう」
レーザードップラー計を含め、主要計器は暗闇でも問題なく動作する。数値さえ見ていればいいはずとリュウイチはディスプレイに目をやった。
『ズン!』
突然、衝撃が伝わる。一瞬の大G。が、すぐに弱いGに変わる。エウロパの○・一三Gである。
「いつの間に……」
無事に着陸したようである。
「あれ?」
重力のかかる方向が変わっていく。
「回転?」
ディスプレイ上で、振り小型傾斜計の角度が増えている。
「倒れている? げっ!」
全長七メートルの船がゆっくりと倒れていった。
『ドーン!』




