2.ヘッドオン・インパクト(西暦二一七八年七月)
「おせえぞ、リュウイチ! カウントダウンはもう始まっとるで!」
広いブリッジの真ん中で、真っ白な顎ひげに手をやりながら老人が言った。老人は無重力のブリッジで、磁気ブーツの片足だけを床につけて、もう片方の足を組んでいる。まるでフラミンゴのようである。滑稽な恰好ではあるが、船長の機嫌が悪くない証拠である。磁気ブーツの底には電磁石が仕込んであり、ブリッジ床の電磁石との引力で体を床に固定する者である。前世紀に流行ったものであるが、今、ドラゴンフルーツ号で磁気ブーツを使っているのは、船長だけである。
「すいません、船長! って、まだ七○分もあるじゃないですか」
リュウイチ・タニヤマは正面の大型モニターパネルに映し出された、軌道図とカウントダウンに目をやりながら言った。エンジンが稼働していない時のブリッジは無重力である。化学エンジンが稼働している時は、ブリッジには床方向に最大○・三Gの加速度がかかる。つまり、ブリッジの天井が、加速方向である。
「七五分前からカウントダウンを始めると言ったはずやで! 遅れたのはお前だけや!」
青い眼を細めた船長の口調は荒いが、今日は機嫌がいいはずである。なにせ、フラミンゴ状態なのだから。
床以外の五面をモニターパネルに囲まれたブリッジには、マイケル・リサール船長以外に二人のクルーがいた。前方の操縦席に座っているのは幼女体形の操縦士兼航宙士、メイファン・グェン。ブリッジの左側では、眼鏡をかけた中年女性、医師兼通信士のパトリシア・フェルミが手元のモニターを見ていた。最後の一人の機関士兼施設整備士サム・シケルは、ブリッジにはいない。エンジンの稼働していない今は、後方のバイオ水槽の前に座っているはずである。リュウイチは、肩をすくめて、持ち場の右側の席へと漂っていった。
固定ベルトを締めたリュウイチの眼前には、船前方のオープンプラットフォームの映像が映し出されている。オープンプラットフォームはステンレスパイプを組んだ板状の荷台である。そこに、黒光りする大釜、小釜が固定されている。リュウイチの商売道具である四基のサンドスラスター50と一基のサンドスラスター01である。サンドスラスター01は電気出力○・一メガワットのイオンエンジンで、推力が小さいため、彼がクルーとして乗り込んで以来出番はなかった。
木星の衛星カルポにサンドスラスター50を据え付けたのは、リュウイチである。この十年間ほど、四基サンドスラスターは、カルポの地面を削り、それを飲み込み吐き続けた。その心臓部は、出力五メガワットの原子力電池を電源にして毎秒一○○トンの砂を秒速一○メートルで上空に噴射する高出力粉体ポンプである。これにより、衛星カルポは、軌道をわずかに変えた。その結果が、もうすぐ起きる衛星エウアンテとの正面衝突、ヘッドオン・インパクトである。相対速度にして秒速六キロメートルでこの二つの衛星が衝突するはずである。大仕事をした四つの大釜はドラゴンフルーツに回収され、静かに休んでいる。
リュウイチは大事な商売道具に異常がないのを確認しようとして、映像がおかしいことに気がついた。大釜の一つの口から人が這い出てきたのだ。大きな袋を背負った白ひげの人形である。よく見るとその映像は前世紀のCGアニメのように粗い。その人形がにやにや笑っている。
「ちっ、ザントマン、砂男か」
ドイツの民話に登場する砂袋を持ったキャラクターの映像が合成されているのだ。その砂袋には、眠りをさそう粉が入っていると言われている。遅れたリュウイチをからかったメイファンの仕業である。
ちらりと、前方の操縦席に目をやると、幼女が背中を見せたまま肩を震わせている。
「寝坊したわけじゃないさ」
小声で呟きながら、リュウイチは球形のコントローラーを握って画像を切り替えた。
リュウイチが小惑星系開発公社から木星系開発公社に転職したのが二○年程前。最初はエウロパへの発電機設置に関わっていたが、この船、ドラゴンフルーツ号に欠員が出て、新人クルーとなった。以来一五年をこの船で過ごしてきた。一五年と言っても、クルーたちは、ほぼコールドスリープを常態としているので、実効的には、三年にもならない。操縦士メイファン・グェンの悪戯はいつものことであるが、それが新人いびりなのかは、後輩のいない彼にはわからない。彼に分かるのは、どのクルーも個性的であるということである。
マイケル・リサール船長は、経験豊富で、抜け目のない老人である。変性者と噂されているが、それが本当ならば、過去には女性であったはずである。だが、荒く訛った言葉は、男らしく、古風なキャプテンそのものである。この上司の教育的指導は容赦ない。また、筋金入りの拝律教真理派との噂もある。ただ、エウロパの拝水神殿が話題になると、何故か不機嫌になるし、パシファエ灯台の話には興味なさそうな顔を見せる。もっとも、噂の出どころは機関士兼施設整備士のサムであるから、怪しいものである。
操縦士兼航宙士のメイファン・グェンは、幼女体形である。細胞年齢は一三歳と診断されているらしい。細胞年齢二五歳のリュウイチよりもずっと若い。だが、どう考えても、起きていた時間から計算した経過年齢はリュウイチよりもかなり上である。操縦士兼航宙士としての豊富な経験は、一○○年以上前に廃止されたNASAで培ったものと噂されている。軌道計算にかけては天才的な能力をもつ航宙士であり、重力の魔術師という二つ名を持つ。
医師兼通信士のパトリシア・フェルミは、一見、人の良さそうな中年婦人であるが、定期健診での舐めるような視線にリュウイチは貞操の危機を感じたことがある。
巨漢の機関士兼施設整備士のサム・シケルはヲタクである。エンジンが稼働していない時は、大抵、バイオ水槽の藻を眺めているか、二次元アニメを視ている。二十二世紀後葉の現代において、新作二次元アニメはないはずだから、見ているのは前世紀のものであろう。彼も変性者であるが、二度性転換をしたとリュウイチに告白した。一度目は、二次元アニメに出て来る変身美少女のコスプレのためであり、二度目はコスプレを諦めた後である。ある意味かわいそうな青年である。リュウイチともっとも仲がよい。スペースエンジニアとしての実務経験はリュウイチとそれほど変わらないようで、船外活動では、リュウイチが指導することもある。
そんな一癖も二癖もあるクルーに囲まれながらも、着実に仕事をこなしてきたとリュウイチは考えている。木星系での最初の仕事は、カルポ、エウンテの全面人工地震による内部結合力の調査だった。これは、二天体の衝突後の分裂・飛散の仕方を予測するための大事なデータとなった。
リュウイチの次の仕事は、カルポ地表へのサンドスラスター50の設置と稼働であった。これには苦労した。故障が起きるたびに、現場に行かなければならなかったし、サンドスラスターの自動掘削機が硬い岩盤で阻まれるたびにリュウイチが爆弾で吹き飛ばさなければならなかった。最初に岩盤にぶち当たった時、船長は、誘導ミサイルで岩盤をぶっ放すとわめいていたが、操縦士メイファンがもったいないと船長を諌めた。結果的には、七回も爆弾を使ったから、二発しかない誘導ミサイルを使わなくて正解であった。
ドラゴンフルーツに与えられたミッションは、最低でもあと数年続くはずである。そして、与えられたミッションすべてが上手くいけば、クルーたちは辺境でも指折りのクルーとして賞賛を浴びることは間違いなかった。もちろん、控えめなリュウイチ自身がそれを口にすることはない。第一、カルポとエウアンテの正面衝突はミッション最初の山場であって、まだまだミッションには先がある。
メイファンが口を開いた。
「衝突三○分前です」
「ヘッドオン・インパクトからのずれは?」
船長がすかさず報告を求める。
「衛星の地表カメラで測定したインパクトパラメータは、誤差三○○メートルの範囲で有意なずれはありません。まだ一万キロメートルほど離れていますので、こんなものでしょう」
衝突までの衛星の軌道予測とモニターは、彼女の仕事である。
一方、サンドスラスター操作士のリュウイチが今やるべきことは何もない。実際、最終軌道調整機器である四組二○基の小型スラスターは、もう一週間前から自動運転をしており、軌道と回転の自動修正は順調である。衝突後に用いる回転抑止スラスターの試運転もとうの昔に終えてある。だが、インパクトは水物である。ほぼ正面衝突に近い形で衝突する二つの衛星が、いくつの破片に分裂し、それぞれの破片がどれだけの速度を持って飛び去り、どのくらいの自転周期を持っているかを予測するなど神でも不可能だと思われていた。それを可能にしたのは、イオ天文台跡にある太陽系一のスパコン『埋もれたピラミッド』である。一五年も準備してきたリュウイチは、その予測を半ば信じつつも半ば疑っていた。
「喉が渇くな」
リュウイチはボトルの精製水で喉を潤した。
「メイファン! 次の報告は五分後や! あっ、そうや、すべての現地カメラの映像を正面に出してくれ。軌道図はリュウイチ側のパネルに移動や」
船長の命令に、操縦士兼航宙士が頷いて、手元の映像を正面にミラーリングする。
カルポ地表から見上げた映像、エウアンテ地表から見上げた映像は、迫りつつある互いを映している。自動ズームがオンになっているはずだが、距離が遠すぎて光点にしか見えない。カルポ軌道上、エウアンテ軌道上のカメラは、それぞれの衛星を後方から映している。黄道面上にもいくつかのカメラを配置してあり、その一つには木星が映り込んでいる。リュウイチは、大赤斑が睨みを利かせているような気がした。
「これを生放送で見せられんのは惜しい。全く公社の幹部は、失敗するとでも思うとるんやろうか……」
ある意味、人類始まって以来の一大イベントであるから、船長がぼやくのもわかる。ただ、リュウイチは、そんなことをしては、エウロパの巫女の生放送を見る者が居なくなってしまうのではないかと心配していた。
「案外、公社上層部も、うちからの生中継を控えるよう拝律教団本部から言われているのかもしれないわね」
リュウイチの考えに同意するかのように、反対側に座ったパトリシアが呟いた。
それに、船長はわずかに眉をひそめて、口を開いた。
「パトリシア! 公社本部に、三○分前すべて順調とメールや!」
「了解!」
パトリシアが眼鏡のブリッジを押し上げて、キーを叩き始めた。
リュウイチは、右側に衝突シミュレーションの立体画像を出しながら、カルポとエウアンテの両方を捉えた画像を見ていた。画面の左上と右下から、二つの光点がゆっくりと近づいている。その二つの光点が交わる時、ここ一五年程の仕事の成果が花火となって打ち上がるはずである。
カルポは、内側から数えて十五番目の木星の衛星であり、エウアンテは十九番目である。元々の平均軌道半径はそれぞれ、一七○○万キロメートルと二○○○万キロメートルであり、実に太陽地球間の距離(AU)の八分の一ほどの距離で木星の周りを公転している。公転周期は五○○日ほどである。この二つは、直径三キロメートルほどの小さな衛星であるが、特筆すべき点は軌道傾斜角である。地球や木星の軌道面はほぼ太陽の赤道面(黄道)と一致しており、北極側から見て反時計向きに回っている。ところが、二つの衛星の軌道傾斜角は、順行衛星カルポが五六度で、逆行衛星エウアンテが一二四度である。それらの和は一八○度となり、このことは、黄道面を横切る時に互いに逆向きの速度を持つことを意味する。すなわち正面衝突する可能性がある。もちろん、軌道半径が異なるから、今まで衝突しなかったのである。だが、星を動かせれば話は別である。
それを可能にしたのがサンドスラスターである。限られたエネルギーと有り余るほどの質量のもとで推力を出すことに特化したエンジンは、高温燃焼ガスを噴き出す化学エンジンでも、プラズマを噴き出すイオンエンジンでもなかった。特殊なポンプであった。衛星表面を削り、砕き、砂にして、毎秒一○○トンを秒速一○メートルで吐き出すサンドスラスターであった。
「一五分前。相対速度は秒速五・六三キロメートル。想定内です。インパクトパラメータは誤差一○○メートルでゼロです」
メイファンが簡潔に報告すると、
「ドラゴンフルーツとの距離は、九五万キロメートルで、こちらも想定内です。ちなみに光の伝搬遅れは、約三・二秒です」
パトリシアも簡潔に報告する。
「リュウイチ! わしの頭上に、密度分布の立体図を映し出せ! シミュレーションも重ね描きするんや」
「了解! 自動スケールで出します」
リュウイチは既に手元に表示していた濃淡付立体図をブリッジ天井付近にミラーリングした。
立体図を確認しながら、船長は指示をする。
「サム・シケル! 聞いているか? そろそろ、四つ子を暖めておくんや」
四基の化学エンジンの準備を指示したのだ。
一瞬遅れて、機関士サムの顔だけの立体像が宙に浮かび
「了解! 燃料解凍機の暖機運転を開始します!」
と答えた。その瞳は黄色の光を反射していたから、いつものようにバイオ水槽を眺めていたのだろう。
「いいか、お前ら! 急がず、焦らず、遅滞なく、素早くこなせ!」
船長がいつもの台詞を吐いた。ここからが正念場である。
「船長、リュードベリ総裁からのリアルタイム通信の要求です」
パトリシアが言った。
「取り込み中やからって、通信は拒否せい!」
「無理です。優先度4です」
パトリシアが答えた。
「ちっ、通信機の電源を落とせんか?」
「優先度が4ですので、それも無理です」
「いっそのこと、予備アンテナで干渉したろうか?」
船長がにやりとして言った。
「ノイズキャンセラーですか? できないことはありませんが」
パトリシアが渋い顔を見せた。
「ノイズキャンセラーって、前世紀の……」
リュウイチは、小声でつぶやいた。ノイズを拾って、それを打ち消す反位相の波を立てて、ノイズを消す技術である。外部の雑音を消して聞きたい音だけ聞かせる技術である。
「立体映像、出ます」
パトリシアが言い、
「ちっ、」
船長が舌打ちをした。
ブリッジに立ち姿の女性が現れた。グレーのスカートスーツを着た中年女性である。ヒールから鮮やかな赤毛の頭まで全身が映し出されており、パッと見には実体と区別できない程の高質である。高精度立体像を伝送する場合は、回線容量を圧迫しないように、顔だけとか、精々半身の立体像を送るのが普通なのだが、総裁は頓着しない。それはそれで、権力者の職権として理解できるが、リュウイチがおかしいと思う点は、スカート丈と胸元が不必要に扇情的に調整されている点だ。
「リュードベリだ。辺境インパクト作業船I号の諸君、ご苦労様。全て順調と聞いているが、ささやかな激励を送ろうと思う」
リュードベリ総裁は、男のような口調で言った。
「わざわざ、激励、ホンマにありがとうございます」
マイケル・リサール船長が、迷惑そうに言った。そして、リュウイチは、顔には出さずに賛同した。もう少しすれば、収集した膨大な観測データをイオの天文台跡の『埋もれたピラミッド』に送ることになっているから、立体映像通信で回線容量を使われるのは、迷惑であった。
「リサール船長、リュウイチ操砂士、すぐに終わるから、ほんの少しつき合ってくれたまえ」
リュウイチは思わず渋い顔を見せた。姓ではなく名前で呼ばれるのは、総裁と個人的な知り合いだからなのだが、それを気にしているわけではない。気に入らないのは操砂士という呼称である。リュウイチの正式な肩書はサンドスラスター操作士である。操砂士(Sand operator)という通称は馬鹿にされているようで心外であった。
総裁は言葉をつづけた。
「今回のインパクトは、このプロジェクト、エウロパ潮汐発電プロジェクトの第一段階であり、要でもある。木星系開発の未来はこの君たちにかかっていると言っても過言ではない」
そこで言葉を切って、ブリッジを見回した。ブリッジ側の立体映像が公社本部に届いたのであろう。光速での伝搬時間は往復で二分弱である。
「成功を祈る」
そう言って、立体画像は唐突に消えた。
「えっ、あっ…… 何も言い返せんかった。リュードベリ総裁め、なんちゅうやっちゃ!」
挨拶も返せなかった船長は、そうぼやいた。
「五分前。インパクトパラメータは、内軌道側に八○メートルとプラスマイナス一五、北極側のずれは二○メートルとプラスマイナス一五。いずれも予定通りです。両衛星の回転も誤差の範囲内です」
「よし! ええぞ!」
船長は叫んだ。
カルポとエウアンテの衝突は厳密な正面衝突ではない。ほんのわずかだけずらしてある。正面衝突であれば、衝突後の破片は四方へ飛び散る。速度ゼロを中心に四方へ飛び散る。もし、ゼロの破片が残ったのであれば、木星の重力に囚われて、真っ直ぐに落下していく。もしわずかでも軌道方向の速度を持っていれば、角運動量保存のため、木星に落下していくにしたがって、軌道方向の速度は増えていく。丁度フィギュアスケーターが体を縮めることでスピンを速くするように、木星方向と垂直な軌道方向のスピードが増し、木星と衝突しない可能性が出て来る。そして、木星のそばを高速ですり抜ける楕円軌道となる。
正面衝突からわずかにずらすのは、破片の軌道方向の速度を残して予定している楕円軌道に載せるためであるが、もう一つの目的は大きな破片を残すためでもある。
どんな破片が出来て、どんな方向に飛び散るかを予測することは、恐ろしく膨大な計算となるが、それをイオ天文台跡のスパコン『埋もれたピラミッド』がこなした。計算のもとになる情報は、リュウイチが、両衛星で人工地震を使って得た内部構造のデータである。
リュウイチは拳を握りしめて、正面の映像を見つめた。
互いの距離は一○○○キロメートル余り、口径一○センチメートルの望遠鏡映像が徐々に鮮明になっていく。回折限界に近い画像は、リュウイチが慣れ親しんだカルポ、エウアンテの微妙な起伏を映し出していた。サンドスラスターの自動掘削ロボットが削った跡も、太陽光の作るコントラストに浮き上がる。
「一分前、インパクトパラメータは、七五メートルとプラスマイナス三、二二メートルとプラスマイナス二。回転もありません!」
メイファンの口調がわずかに高くなる。
「よし、よし」
船長が呟く。
「距離、二五○キロ。両衛星のカメラレンズを固定焦点に切り替えます」
ぶれ始めた望遠映像が消えて、広角映像に切り替わる。衛星は漆黒の背景の光点となる。
「カウントダウン始めます! 三○、二九、二八、二七……」
エウアンテから見たカルポの光点が輝きを増していく。秒速三キロメートルで互いに近づいているのだから、ライフルの弾丸よりも速い。しかも弾丸の大きさは三キロメートルである。
直径三メートルの巨大ボールが、秒速六メートルで自分に向かってきたと思えばいい。ただし、実際には千倍スケールが異なるが。
「一○、九、八……」
片方の映像の中のカルポがみるみる大きくなる。隣の映像ではエウアンテもみるみる大きくなっている。リュウイチは思わず、瞬きをした。
「三、二、一、○!」
リュウイチの見ていた映像で衛星が画面いっぱいに広がり、プツリと消えた。代わりにブリッジ天井の立体映像が光を放った。
「うっ」
船長が頭上を見上げて、目を細めている。二つの衛星が互いにのめりこむように潰れ始めている。衝突面は明るく輝いている。予測では二万度のプラズマができているはずである。破片が衝突面に沿って、周囲に四散していく。大きな破片の映像に、薄いシミュレーション像が重なる。二重になった立体画像はシミュレーションの正しさを証明している。
十秒ほどでプラズマ光が減光する。大きな塊が五つほど、上下に別れてゆっくりと飛び去っていく。衝突面に近い側は灼熱している。
「報告!」
船長が叫ぶ。
「最大温度、一万八千度。分光スペクトルでは、炭素、酸素、鉄の輝線が見えます」
パトリシアの声に、リュウイチは視線を手元のモニターに移した。数値のリストが生成され始めた。
衝突点周りに配置された多数の観測機器から膨大なデータがドラゴンフルーツに送られてくる。そのデータを船内コンピュータが処理している。
「多点光学カメラ計測は正常です。自動同定作業も正常に進行中。同定された破片は、現在八○以上!」
リュウイチが叫んだ。
軌道上に配置された一○台以上のカメラで観測した結果が数表となって画面に表れている。解析が進み、各行の欄に徐々に数値が現れる。そして、破片の大きさの順に並べ替えられていく。
「破片の平均直径は、大きい方から…… 一・二キロ、一・一キロ、○・五キロ、あっ、順番が変わりました」
値が更新されて順番が変わる。リュウイチは数値を必死に追う。
「三番目は○・八キロ、それから、○・五キロ、○・三キロが二つ、○・二五キロ……」
「直径はもうええ! マルチドップラーはどないや?」
リュウイチが読み上げているのを船長がさえぎった。
「は、はい」
リュウイチは球形コントローラーを操作して、別の画面を手元に出した。多数のドップラーレーダーで測定した速度ベクトルが表示される。
「マイクロ波ドップラーレーダー群正常。光学測定との連動と同定機構も正常です。破片の大きさで並べ替えて読み上げます」
「数値はええ。シミュレーションとの一致度合を報告せい!」
「は、はい。速報値で精度は不明ですが、読み上げます。破片-Iは直径一・二キロ、速さのずれ三%、方向のずれ五度。破片-IIは直径一・一キロ、速さのずれマイナス七%、方向のずれ三度 …… 破片-Vは○・五キロ、プラス二三%、一五度」
「そこまでで、ええ! 候補のI、III、Vは上々と言った所か」
船長が真っ白な顎ひげに手をやった。
「あっ、すいません、回転を忘れていました。破片Iは結構回転しています。予想回転周期は一五分からに二○分です」
「うーむ。まっ、こんなものか」
「船長、カメラ3、カメラ4、通信途絶しました」
メイファンが報告した。
「カメラ3、4?」
船長が首を傾げた。
「衛星軌道後方に配置した二台です。おそらくは、衝突破片雲に突っ込んで被弾したものと思われます。想定済みです」
「よし。そっちはいいが、本船の衝突監視レーダーは見とけよ」
「了解。全方位レーダーは正常稼働中。狭視野レーダーは、予測飛来方向に向けておきます。早ければ、来週に監視に引っかかるかもしれません」
「リュウイチ! 簡易軌道計算の結果が出たら報告しろ」
「了解! あっ、もう出ていました」
「なんや、えらい早いな」
「破片-Iは回転周期が短く、想定範囲ギリギリです。破片-IIIは、想定範囲内です。破片-Vは速度がだいぶずれています」
リュウイチがきびきびと答えた。
「メイファン、想定範囲の安全率は、いくらや?」
「二倍です。手持ちの装備の能力のどれか一つでも予測の半分超えた所に安全率を設定していたはずです」
「わかった…… よし、パトリシア!」
「はい、船長」
「本部にメール、内容は『これまでの観測結果では、一勝一敗一引き分けで成功!』や」
「了解!」
その瞬間、安堵の吐息がブリッジに漏れた。
「リュウイチ! 観測できた全破片のデータをまとめて報告しろ!」
「了解!」
「それまでは寝るな!」
「ええっ! り、了解しました」
「木星系の軌道船に迷惑はかけられんからな」
船長は、わずかに眉をひそめた。
今回のインパクトで大量のデブリが生じたから、その軌道データを公開して、不用意に衝突しないようにしなければならない。これは、船乗りのマナーである。もちろん、プロジェクトのためであれば、少々の事は目をつぶらなければならない。ただ、船乗りとしては、後ろめたいものがある。
リュウイチが○・五Gの船室に戻れたのは、九時間後であった。頭と指先は疲労困憊していたが、コールドスリープを起動させたいとは思わなかった。
「一回ぐらい、通常睡眠でもいいだろう」
リュウイチはスイッチを入れずにカプセルに横たわった。もちろん、コールドスリープ用の錠剤も飲んでいない。
木星系で必要なものは時間と人材である。訓練され経験を積んだ人材は貴重であるが、何をするのにも時間のかかる木星系では、貴重な人材を老いさせておくほど余裕はない。木星系開発公社は、職員の定年を無くすだけでは足りず、その睡眠時間を引き延ばすことにした。職員の睡眠はすべてコールドスリープとした。これにより、数百日の待ち時間中の老いを防ぎ、職員の労働可能時間を有効に使うことに成功した。だから、コールドスリープは業務の一環でもある。
ただ、今のリュウイチは、眠りたくなかった。達成感を堪能したかった。あの悪魔のようなプロジェクトに魅せられて辺境に来て以来、二○年。やっと仕事が一段落したのだ。一日や二日、細胞年齢が上がっても、興奮は冷めない気がした。
リュウイチは、初めて悪魔のささやきに耳を傾けた時のことを思い出していた。
人類が木星系の開発に乗り出したのは、二十一世紀後葉のことである。現在、開発を取り仕切っている木星系開発公社は、その最初期から存在した。その頃から一○○年間一貫して衛星イオが開発された。イオ以外はほとんど見向きもされなかった。イオは特別に恵まれた楽園であった。
木星がイオに及ぼす強力な潮汐力はイオの内部を溶かしマグマを生み出す。その豊富な熱源が地熱発電を可能とした。丁度、地球が太陽の恵みに支えられているように、木星系の開発はイオの地熱に支えられた。
潤沢な電力、豊富な液体状の資源があった。鉄、ニッケル、銅、タングステン、ジルコニウム、ほとんどすべての資源に恵まれ、これらをもとにイオ工業プラントが作られ、工業都市が発展した。現在のプラントの規模は一○○キロメートル四方に及ぶ。だが、これ以上の発展には、ある物資が不足していた。水である。
一方、エウロパには地球の何十倍という水が存在している。それをイオに輸送できれば、木星系は飛躍的に発展するはずである。そこで、木星系開発公社は驚くべきプランを立てた。
エウロパの氷上に秒速三キロメートルまで加速できる電磁カタパルトを建設し、立方体状に切り出した氷を打ち出して、直接イオまで輸送すればいいと考えた。体高一○キロメートル、全長一○○キロメートルの、電線と磁石と鉄骨でできた巨人を想像してもらえればいい。その巨人が、氷の塊を砲丸投げのように打ちだす。一○○万キロメートルの遠投である。その巨人が、宅配便のように三日に一度、イオ工業都市の玄関先に氷を届けてくれるのである。ドシン、ドシンと。
だが、そんな巨人を養うには、莫大な電力が必要である。地熱の使えるイオと違って、エウロパにはそんなものはない。あるのは、氷と水だけである。
どうやって電力をひねり出すか。公社は、それを潮汐発電でまかなえばいいと考えた。悪魔のような計画である。実際、当時の木星系開発公社には悪魔のような天才が何人もいた。
エウロパ表面の氷に大穴を開けて、海水を露出させタービンを設置する。潮の満ち引きで海水面は何キロメートルも上下するはずで、その流れでタービンを回して発電すればいい。三峡ダムを造った人類が、エウロパに潮汐発電所を造れないわけがない。公社幹部はそう息巻いた。だが、最後に難問が残った。平均厚さ三○キロメートルの氷の大地にどうやって大穴を開けるかである。
計画立案当時、地球では南極の氷にボーリングした経験があった。厚さ四キロの氷に、直径二○センチの穴を開けた。だが、エウロパの潮汐発電で必要な穴は直径二キロメートル。氷の薄い所を狙ったとしても一○キロメートルの深さの穴を穿つ必要がある。
最後の悪魔が囁いた。隕石を落下させて穴を開ければいい。幸い手ごろな衛星がある。カルポとエウアンテである。それを正面衝突させて、速度を落として、内側軌道のエウロパまで持ってくればいいと囁いた。こうして、悪魔のような計画が走り出した。