10.交わらない世界線(西暦二一八三年四月)
リュウイチ達、ドラゴンフルーツ号のクルーは順調にミッションを遂行した。もちろん、小さなトラブルや想定外の出来事はいくつもあった。それでも何とかKE-IIIにサンドスラスターを四基設置し、稼働させた。その結果、KE-IIIを予定軌道に載せることに成功した。エウロパの赤道に落下する軌道である。
一方、ドラゴンフルーツは、KE-IIIと並走し、衝突直前にサンドスラスターを回収した。その後すぐに定格加速度○・三Gで減速をかけた。そうしなければ、KE-IIIと運命を共にしていただろう。
秒速一四キロメートル、直径八百メートルの巨大な弾丸がエウロパに打ち込まれた。核爆弾九○○発分のエネルギーが解放され、厚い氷に大穴を穿ち、天変地異を引き起こした。
氷の嵐が吹き荒れ、巨大氷震が起き、全長何十キロメートルのクレバスがいくつもできた。大穴は氷下一○キロにあった海まで貫通し、閉じこめられていた海水がエウロパ上空二○○キロメートルの高さまで吹き上がり、洪水が周囲一○○キロメートルに広がった。
天変地異であったが、絶滅するかもしれない恐竜もいなければ、氷河期がひどくなると文句を言う住人もいなかった。そもそも、エウロパはほぼ無生物の世界である。正確には、拝水神殿に巫女が住んでいたが。
リュウイチは、ドラゴンフルーツの展望室から眼前に広がる灰白色エウロパの大地を見ていた。縦横に走るリネアと呼ばれる線状の地形は幅数一○キロメートル程の隆起で、長さは数千キロメートルに及ぶ。多重リング状のクレータやカオスと呼ばれる複雑な地形もある。もちろん、それらモノトーンの光景は、色彩豊かで、刻々と変化する地球に比ぶべくもない。しかし、太陽光をきらりきらりと散乱する大地、時折、高度二○○キロメートルまで立ち上る水蒸気柱は、漆黒の外軌道空間で過ごしてきたリュウイチには新鮮な光景であった。何よりも、光の伝搬遅れが無視できるほど近くに、エウロパの巫女がいると考えるだけで心が浮き立った。
居室に戻ったリュウイチは髭をそったばかりの顎に手をやった。そして、モニターのカウントダウンを注視した。不意に明るくなったウィンドウから、透き通った青い瞳がリュウイチを覗き込む。
「あっ、ひ、姫!」
エウロパの巫女の唐突な出現にリュウイチは慌てた。
「今日は。お久しぶりね、リュウイチ」
アルトの声に、ようやくリュウイチは落ち着きを取り戻した。これまでの低質立体画像通信は、帯域制限のため、画像の解像度、フレームレートが抑えられているのはもちろん、音声も歪んでいた。それが、今は、中継器なしで、直接、広帯域で通信ができるのである。何よりも光の伝搬によるタイムラグが無い。巫女の曇りのない美貌を改めて目にし、暖かみのある声を聞くと、リュウイチは、舞い上がってしまった。
「こんにちはです。今、我々は…… いや、俺達は、姫のすぐそばに居ます」
舞上がった一因は、巫女の服にある。正確には、大きく切れ込んだ襟ぐりとそこから覗く深い谷間である。
「すぐ、そば?」
「そう、そばです。最低高度五○○キロメートルのスイングバイ軌道上に居ます」
「スイングバイ? また遠くに行っちゃうの?」
「いや、逆だよ。この間まで、KE-IIIと同じ超楕円軌道だったから、もう少し
速度を落とさないといけないんだ」
「あら、そんなに近くなら、私のことも見えている?」
「いや、見えなかっ…… さすがにそれはないと思う」
実のところ、昨晩、ドラゴンフルーツの口径十センチ光学望遠鏡で、拝水神殿があるはずの南緯五○度東経五五度を見てみたのだが、回折限界近くの分解能三○メートルでも黒いクレバスが見えるだけだった。
「あら、それは、残念ね。これから、裸で日光浴をしようと思っているのに」
「えっ、ほ、ほんと?」
「…… 冗談よ。外気温は零下一六○度よ」
すがめた目に怖さはない。
「で、ですよね」
「でも、ここまで降りてきたら、一緒にお風呂に入ってもいいわよ」
「氷風呂とか」
「氷風呂? そっちがいいの?」
「えっ、マジで氷風呂があるのか?」
「ええ。レベルIIのコールドスリープは氷風呂みたいなものよ」
「いや、やっぱり、普通の熱いお風呂がいい」
「そうね。それじゃ、約束ね。降りてきたら一緒にお風呂に入るって約束よ」
「ああ、約束だ」
過熱する妄想は、永遠に妄想である。
「「はあーっ」」
どちらからともなく二人は溜息を洩らした。
ドラゴンフルーツは秒速一○キロメートルでエウロパの上空を去りつつある。二人の距離が一番縮まった先ほどでさえ九○○キロメートルは離れているのだ。そう簡単に立ち寄るわけにはいかない。
「行くのね」
「ああ、減速してイオの軌道まで落ちる」
「それから、イオ工業都市で火遊び?」
巫女が鎌をかけてみた。
「火遊びかー」
リュウイチは父に連れて行ってもらった発電複合プラント、通称、マグマ宮殿を思い出していた。地下空洞のマグマ溜まりにどっぷりつかったコバルト合金製熱交換パイプは圧巻であった。灼熱するマグマに差し込まれた黒いパイプ群は猛獣使いの鞭のようであった。
「火遊びじゃないけれど……」
迫力満点の光景は、リュウイチの目に焼き付いているし、ごみ焼却エリアの放射熱は、宇宙服を通しても苛烈であった。リュウイチは、圧縮ゴミのブロックをいくつもいくつもマグマに落としては、それが炭化しマグマに飲み込まれていくのを見ていた。立派な火遊びである。
「いや、まっ、火遊びだな。地下のあの熱い世界は、もう一度見てみたい」
「そう、そうなの」
勘違いをしているのか、巫女の顔が赤い。
「ところで、KE-IIIのインパクトは、どうだった。公社の業務サイトが洪水や地震映像を配信していただけれど、そっちには何か変化はあった? 洪水は、姫の所までは届かなかったはずだけれど……」
「そうね。私も、フロンティアニュースの映像は見たけれど、三○○○キロメートル近く離れているから、実際にここで目に見える変化は、雪が降り積もったことぐらいかしら」
「雪?」
「ええ、インパクトで上空まで吹き上がった水や水蒸気が氷になって落下してくるのよ」
「もしかして、真空中の自由落下だから相当なスピードで地表に降り注ぐとか?」
「もし、自由落下なら秒速五○○メートル、拳銃の弾ぐらいスピードにはなるわ。実際、インパクト地点のそばは、凄かったらしいわ」
「すごい?」
「直径一センチほどの氷弾で、氷の大地はぼこぼこになる。えぐれた氷が、舞い上がって、エウロパの弱い重力の元で、ゆっくりゆっくりと地面に落ちる。あたり一面に氷の霞が立ち込めるの。その間にも天から降ってくる氷弾が霞を作り出す。もし、鳥が飛んでいたら、その翼は一瞬でぼろ雑巾のようになるはず」
「さすが、地元。ずいぶん、詳しいんだね」
「あら、今のは、フロンティアニュースの受け売りよ。私の居る辺りは、細氷が降り積ったぐらいでたいしたことはなかったわ。粒径一○ミクロンぐらい小さくなると空中の水蒸気の抵抗で終端速度は秒速一○メートルぐらいにしかならない。サラサラの雪が二三センチほど積もったわ」
「でも無事でよかった」
「無事だと思ったから、ここに居たのよ。どちらにしろ、巫女は滅多な事では、神殿を離れられないのよ」
「神殿から離れられないのか?」
「巫女は、何も考えずに、祈り続けていればいいの。太陽系中の信者が巫女に期待するのは祈り続けること。誰も、巫女が、泣いたり、笑ったり、悩んだりすることを求めてはいない」
「そんなことはないさ。もし、そうなら、巫女はロボットでもいいはずだ。俺達は、ロボットではない生身の人間がそこに居ることに感動するんだ」
「もし、私がロボットだとしたら? もし、この胸の中にシリコンが詰まっているとしたら」
そう言って、巫女は両手で豊かな胸を押し上げた。
「そ、そんなことあるはずがない!」
「何十年も歳を取らないって変だと思わない?」
「へ、変なことは…… ないんじゃないかな」
トーンの落ちたリュウイチの台詞に、巫女は目を伏せ、溜息をついた。
「……」
リュウイチは、かけるべき言葉を探して宙を睨んだ。一方の、巫女は、自身がロボットであれば、歳だけでなく、記憶が無いことも説明できると思い至り困惑していた。深淵を覗きこんで目が離せなくなった思春期の少女のように。
「あのさ~」
「な、なに?」
「さっきの神殿を離れられないって話だけど…… 例えば、洪水がそこまで来るような事態の時に、脱出できるような緊急離昇機はないのか?」
「ないわ。教団は、私が逃げるのを警戒しているの」
「それじゃ、どこに避難するんだ」
「どこって言っても…… エウロパ地表に常駐施設はない。ここから北へ五○○キロメートルほど行った所に、昔使われた研究施設があるらしいけれど、だいぶ前に放棄された。それこそ、潮汐発電所ができれば、誰かは滞在するようになると思うけれど、今は、私だけ。どこにも行くところはないわ。巫女は一生、ここに鎖でつながれているの」
「そんな…… 何とかできないのか? いや、何とかするよ」
「何とかするったって……」
巫女が呆れた顔を見せた。あまりにも子供っぽいリュウイチのセリフに巫女はいら立ちを覚えた。自分は、もしかしたら、生身の人間は無いかもしれないと心配しているのに、リュウイチは、所詮は、他人なのだ。
「一人前のスペースエンジニアになって、お金を溜めて」
「スペースエンジニアの稼ぎなんて知れているわ!」
巫女のトーンが一段、高くなった。
「そりゃそうだろうけれど……」
「それに、お金があれば、済む話じゃないのよ。パイロットと機材をどうやって調達するの」
「自分で何とかするよ」
「冗談言わないで!」
「それじゃ、出世して、教団と話をつけるよ」
「その頃には、あなたはいい年のおじいさんよ! きっと、飽きるほど、イオで火遊びを経験しているはずだわ」
「いや、そりゃ火遊びは嫌いじゃないけれど……」
「リュウイチは、私に関わらない方がいいの。その方がきっと幸せよ」
「いや、まあ、何が幸せかは、人それぞれで……」
「リュウイチ、これで、おしまいにしましょう。所詮、私達の世界線は交わらない運命」
「世界線って、アインシュタインの定義した四次元空間での軌跡のこと?」
「そう。同じ時刻に同じ空間を通る時に世界線は交わる。この辺境の地では、皆、イオを出発して、またイオに戻ってくる。だからイオ工業都市は世界線の交わる所。私を除く皆の世界線が交わる所」
「姫、そんな悲観的にならないで。いつかは、会えるよ」
「いいえ、お仕舞にしましょう」
「姫、一体全体、どうしたんだよ。何か気に障ることを言ったのか」
「何も。ただ、私のために、おしまいにして頂戴。これ以上、みじめな気持にさせないで」
「わけわかんねぇ」
「とにかく、さようなら」
リュウイチの船室でプツリと画像が消えた。
「おい、姫! 姫!」
リュウイチの叫びは誰にも伝わらなかった。
個人の意思に関係なくプロジェクトは進む。リュウイチのミッションも巫女の日常も変わらないはずであった。二人の世界線は永遠に交わらないはずであった。