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山辺奈津子は何もなくなった和室の窓際にぽつんと蹲っていた。
その手のなかには、夫の康平が息子の晋平を抱いている写真があった。
写真の中で二人が幸せそうに笑っている。
「康平さん……」
すでに必要最低限のもの以外は、全て広島の実家に送り返している。
残っているのはわずかな衣類と生活品のみだ。それもほとんどはダンボールに箱詰めされ、明日の引越しを待つばかりになっている。
ここで暮らしはじめた時には、こんな日がやってくることなど予想もしていなかった。
康平から初めて声をかけられたのは、高校1年の秋だった。
サッカー部だった康平を奈津子は放課後、毎日のように見つめつづけていた。いつもサッカーボールを夢中で追いかけるその姿に胸をときめかせた。その思いが通じたのか、ある日、下校途中に突然、康平に呼び止められた。
――付き合ってくれませんか?
二つ年上の康平の言葉に、奈津子は真っ赤になって小さく頷くことしか出来なかった。
康平が高校を卒業し、就職のために仙台に引っ越した後も二人の関係は続いた。2年後に奈津子もその後を追って実家を離れた。
それからはずっと二人で暮らしてきた。
何度も喧嘩したし、家出をしたこともある。それでも別れることだけは考えなかった。死ぬまで離れることはないだろう。それが当たり前のように思っていた。どんな時でも心のなかには常に康平への愛情があった。
そして、二人は結婚し、晋平が産まれ、そこに『家族』が出来た。奈津子が何よりも望んだ『家族』の形。
奈津子の両親は奈津子が幼い時に離婚し、奈津子は母の手一つで育てられた。子供の頃からずっと母と二人きりの生活。母はパートや内職で家計を支え、懸命に奈津子を育ててくれた。母の愛情は奈津子にとってかけがえのないものだった。それでも、奈津子の心のなかには父を、そして家族を求める気持ちが常にあった。
幸せな家庭が欲しい。大切に思える家族が欲しい。
ずっと願ってきたことだった。
そんな奈津子にとって、康平と晋平の存在は何よりの生きがいだった。
大きな幸せなど望まなかった。ただ、暖かく三人が暮らしていけることだけをずっと願っていた。
今でも二人で歩んできた人生を、事細かく思い出すことが出来る。
(それなのに……)
あの事故から5ヶ月。
事故は奈津子の生きる望みを奪い去ってしまった。
康平の実家で二人の葬儀を済ませると、その後、奈津子は一つの使命を自分に課していた。
あの日、あの事故の原因を作った相手を見つけ出すこと。そして、裁きを与えること。
それが奈津子にとって何よりのやるべきこととなった。
重量以上の鉄骨を積んで運んでいたトラックの運転手。車から投げ出された最愛の子供を轢き殺した、並列して走っていた車の会社員。
事故に関係する全ての人たちを恨み、呪った。
その中でも奈津子が誰よりも許せないのが、事故の原因を作った車に乗っていた人物だった。
――逃げたんでしょ
あの夜の若者の言葉が頭のなかにこびりついていた。
(逃げた)
その卑怯な行動を許す事が出来なかった。
小さな偶然が生んだ不幸。だが、そのなかでもっとも憎むべきはやはり事故の原因を作った人間だ。しかもその相手は自分が起こしたそのことに目をつぶってその場からすぐに逃げ去ったという。
(許さない)
いつかこの憎しみの感情を忘れる事が出来るかもしれない、許せると思えるときがくるかもしれないと考えることもあった。けれど、あの事を忘れる事など出来なかった。むしろ、日に日に怒りは強くなってくる。あとはずっと考えてきた事を実行に移すしかない。
康平がかけていた生命保険のおかげで、当面の生活費には困る事はなかった。
奈津子はその金を使って興信所に依頼し、事故の原因を作った人間の行方を追うことにした。だが、事故の原因を作った車はすぐにその場を走り去っていて、正確に目撃していた人もおらず、その行方を見つけることは難しかった。
それでも奈津子は諦めることが出来なかった。奈津子はその手がかりをもとめて、ネットを使って情報を集めようとした。そんななか、一つの手がかりが奈津子のもとに飛び込んできた。
それが『川渕忠志』という男だった。
その情報によると、川渕忠志は女性と共にスキー場を訪れていたそうだ。興信所を使って調べてみたところ、川淵忠志はその情報通りに昨年末、長野のモントレーホテルに泊まっていたことが確認出来た。ただ、その夜、泊まっていたのは川淵忠志一人で、一緒にいたという女が誰なのかということまではわからなかった。
奈津子はその情報を信じることにした。きっと川淵忠志を知る人物が、匿名で協力してくれたのだろう。
自分を助けてくれる人がいる。その思いが奈津子の気持ちを奮い立たせた。
奈津子はさらに川淵忠志の詳しい情報を集めることにした。
川渕忠志を見つけ出した時、一ヵ月後に高澤恵美という女性との結婚をひかえていた。当然、冬に一緒にいた女性が高澤恵美である可能性を考えた。だが、その後すぐに高澤恵美はその時、実家である岩手に帰っていることがわかった。
(それじゃ――)
あの時、一緒にいたのは誰なのだろう。
奈津子はその女性のことを見つけ出したかった。事故を起こして逃げたのは、川淵忠志だけでなく、一緒にいたその女にも責任があるはずだ。
ただ、これ以上は興信所を使っても難しいかもしれない。
奈津子は川渕忠志、高澤恵美の二人を監視しながら、『女』を見つけ出そうとした。そんな時、藤井寺涼子のことを知った。藤井寺涼子はそれまで高澤恵美と一緒に暮らしていて、恵美がマンションを出ることで新しいルームメイトを捜しているという話を耳にした。
(チャンスかもしれない)
藤井寺涼子を利用すれば、二人に近づく事が出来るかもしれない。
奈津子は涼子の行動を調べ、偶然を装い近づいた。
(彼女には悪いけど――)
奈津子は涼子のことを思った。
バーで偶然知り合って『一緒に暮らす約束をした』と言ったのも嘘だったし、そのことで『部屋を解約した』というのも当然嘘だった。
バーでは涼子はカウンターに一人座り、ぐったりと具合悪そうにしていた。ただ、奈津子はその隣に座り、当り障りのない話をしていたに過ぎない。
涼子には悪いと思ったが、それでも奈津子は目的を達成するためなら、どんなことでもやろうと心に決めていた。
(あいつらに裁きを加えるためなら――)
二人の写真を胸に押し当て、奈津子は誓いをたてた。