3-2
日曜日。
康平と晋平の二人のことを思いながら、奈津子は川渕忠志の住むマンションを見上げた。
一歩、まず一歩づつ。
復讐への近道などありはしない。
全ては川渕忠志に近づくためだった。
涼子を利用し、忠志や恵美と知り合いになること。それが奈津子の目的だった。
すでに復讐の対象となる忠志という存在はハッキリしている。先日、食事会の時に見た忠志の姿は、奈津子が思っていたイメージとは違っていた。それでも、あの男が自分の捜している相手であることは間違いないはずだ。残るはもう一人。あの事故の時、忠志と一緒にいた女を見つけることだ。
彼らが夫と子供に直接手を下したわけではないことは、奈津子にもわかっている。それでもあの事故のことを思い出すたびに、心の底からどうすることもない憎しみが沸き上がってくる。
この感情を消すためには、原因となった相手を見つけて復讐するしかない。
5階でエレベータをおりると、迷うことなく恵美たちの部屋に向って歩いていった。
503号室。
ドアの脇には綺麗に印刷されたネームプレートが貼られている。
川渕 忠志
恵美
二人の名前が仲良く二つ並べられている。
(ここだ)
もともと住所は調べてあった。
川渕忠志の名前を知った時、その姿を確認するために、すぐ近所にあるファーストフード店からマンションを見張ったこともある。
気持ちを落ち着かせるため、一度ドアに背を向けて通路の手すりに手をかけると、街を見渡し大きく深呼吸した。
ふとマンション下の駐車場が目に入った。
ここから身を投げれば、きっと簡単に死ねるだろう。
(死んでしまいたい)
これまで何度そう思ったことだろう。死んだ二人のことを思うたびに、自分がなぜ生きているのかわからなくなった。無意識のうちにフラリとビルの屋上に登って、警備員に止められたこともあったし、夜中に剃刀を手に一晩中震えていたこともあった。
だが、その都度、あの時の声が頭になかに蘇ってきた。
(死んじゃいけない……裁きを終わらせるまで)
康平と晋平のために、全てを終わらせる。
その気持ちだけが、奈津子を今でも生かしつづけている。
それが正しい行いなどと思ったことはない。あの時の事故の原因となった相手を責めることが、いかに理不尽なことであるかも頭ではわかっている。
それでも、その思いだけが今の奈津子を支えていた。
(さあ……行こう)
奈津子はドアに向き合うとインターホンを押した。
「おはようございます。山辺です」
インターホンのマイクに向かって声をかけると、すぐにドアが開いて恵美が顔を出した。
「おはようござます。わざわざすいません」
恵美は丁寧に頭をさげ、奈津子を招き入れた。
リビングに入っていくと、忠志がジーンズにトレーナー姿でソファに座って新聞を読んでいた。奈津子の姿を見て、慌てて立ち上がって頭を下げる。
「ワガママなお願いをしてしまってすいません。今日はよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそありがとうございます。呼んでもらって嬉しいですよ」
「ちょっと教えていただいたからって、山辺さんみたいにすぐに料理上手になるはずもないんですけどね」
恵美をからかうように忠志は言った。
「この人、今日、奈津子さんが来るって聞いて、友達とゴルフに行く約束していたのを止めたんですよ。山辺さんの料理が食べたいんだそうです」
たちまち恵美は膨れてみせた。
「それじゃがんばって作らないと」
奈津子は笑顔をふりまきながら、部屋をぐるりと見回した。新婚生活を誇示するかのように真新しい家具が並んでいる。何もかもが未来への明るい希望に光り輝いているように見える。
ふと、康平と暮らし始めた時のことを思い出す。あの頃は自分も、今の恵美のように希望に満ちていた。
部屋の隅にはゴルフケースが無造作に置かれている。ゴルフに行く約束があったというのは本当なのだろう。
「ゴルフ、お得意なんですか?」
奈津子は忠志に顔を向けると訊いた。
「この人、流行りものはみんな好きなんですよ。ゴルフもやれば釣りもやるんです」
恵美が代わりに答える。
「別に流行りだからやるんじゃないよ。ゴルフにも釣りにも面白いところはあるんだから」
言い訳をするように忠志は言った。
「多趣味なんですね。それじゃ冬はスキー?」
「最近はスノボのほうですけどね」
「去年も行かれたんですか?」
「ええ、でも去年は仕事が忙しかったから少なかったです」
「恵美さんも?」
「前にちょっとだけ」
と恵美は答えた。
「涼子さんと一緒に行ったんでしょ?」
奈津子は適当に言ってみた。涼子とはそんな話をしたことはなかった。だが、奈津子の言葉は意外にも当たったようだ。
「そうそう。あの頃は涼子が連れてってくれたから。でも、涼子はわりと上手だったけど私はダメでした」
「涼子さん、上手なんですか? 運動神経がないって言ってましたよ。免許取るのも苦労したって」
「そんなことないですよ。私に比べたらずっと上手。車の免許だって私は途中で諦めたんですから。ま、涼子が運転してくれたから苦労しなかったけど」
「そうなんですか。涼子さんはペーパードライバーだって話してたけど」
「今はそうかも。昔は知らないうちに一人でレンタカー借りて遠くまでドライブ行ったりもしてたんですよ。でも、最近は全然運転しなくなっちゃったみたいだけど」
「恵美さんは、川淵さんと二人でスキーに行ったことはないんですか?」
「ええ……でも来年は教えてもらおうと思ってるんですよ」
そう言って恵美は忠志の顔を見た。なぜか、忠志はそんな恵美の視線からすっと顔をそらした。
もともと事故の時に恵美が一緒でないことはわかっている。
(誰と一緒だったんだろう……)
それを知りたかった。
「車持ってるんですか?」
テーブルの上に車のキーが無造作に置かれているのを見て、奈津子は話題を切り替えた。
「ええ……」
「何に乗ってるんですか?」
「プラドですよ」
「あの大きい奴ですね」
康平が生きている時、いつか買いたいといってカタログを貰ってきたのを思い出した。どんな些細なことも、ついつい康平と晋平に結び付けて考えてしまう。
「そうです」
「あれって高いんでしょ?」
「まあ、普通ですよ。もっと高いのはいっぱいありますから」
「私も車欲しいんだけど、ぶつけちゃいそうで……街中は怖くて乗れませんね」
「馴れですよ。怖がってるうちはいつまでたっても運転できません。よかったら運転してみますか?」
冗談のつもりか、忠志はキーを手にすると奈津子に差し出した。
「いえいえ、ぶつけたら大変ですから」
慌てて手をあげて断った。
「そうよ。この前だって20万もかかったんだから」
恵美が渋い顔をした。
「この前? ぶつけたんですか?」
「そう。2週間前に修理からもどってきたばかりなの」
「どこで?」
「ちょっと実家に戻ったときに……」
忠志は口篭もりながら言った。
どこかその忠志の様子に嘘をついているように感じた。
「大丈夫だったんですか?」
「駐車するときにちょっとこすった程度です。まあ、最近の車は安全性も高いので、よほどの事故じゃない限り死ぬようなことはないですよ。日頃の行いが良いですからね」
冗談のつもりか忠志はそう言って笑った。
その言葉が奈津子の胸を抉った。
(それじゃ康平さんたちは? あの人たちにどんな罪があるっていうの?)
思わず言い返したくなるのを、奈津子はぐっと押さえつけた。
「……そうですね……」
表情を変えないよう気を付けながら奈津子は答えた。
「忠志さんって面白いんですよ。ちょっと遠くへ行く時は、必ずナビを使うんです。それが前にも行ったとこでも」
「方向音痴なんですか?」
「違いますよ」
笑いながら忠志が答える。「ナビを使うと、目的地に到着する時間がだいたいわかるじゃないですか。その時間を計るために使うんです」
「おかげで私は忠志さんがどこ行ったかナビの履歴見るだけでわかるんですけどね」
そう言って恵美は笑った。
「別に隠すようなところには行かないよ」
と忠志が言い返す。
見てみたいと奈津子は思った。その履歴のなかにあの日の記録も残っているに違いないのだから。
「それじゃそろそろ教えてもらいますか?」
恵美はデパートの紙袋から真新しい黄色いエプロンを取り出した。