涙は預けた
「マ~マ~!!!」
今日も我が息子は泣きながら私に駆け寄ってくる。
歯ブラシをくわえ、パジャマ姿で駆け寄ってくる。
私はやれやれと呆れたように首を振る。
家の息子は泣き虫だ。
ちょっと痛いことがあっては泣き。
ちょっと出来ないことがあっては泣き。
ちょっと叱られては泣いてしまう。
春から小学生になるというのにどうしたものかと困ってしまう。
「はいはい、今日はなにがあったの?」
「あのねあのね、これまずいの」
そう言って指さしたのはくわえている歯ブラシだ。
「まずいってなにが?」
「はみがきこ」
「ああ」
納得する。
今日、いつもの歯磨き粉がなかったため、違う歯磨き粉を買ってきたのだ。
「我慢しなさい、同じメロン味でしょ」
「や~、まずいの~」
地団駄を踏む息子に頭を抱えてしまう。
このままではこの社会の荒波で生き残れないんじゃないだろうか、この子。
本気で心配になってきたところで後ろから旦那の声がする。
「なー、これ、何でいつもの歯磨き粉じゃないんだよー」
振り返ると駄々をこねる息子と同じような顔をした旦那が立っていた。
その手には安売りしていたいつもと違う歯磨き粉が持たれている。
私は思った。
もしやこれはDNAかと――。
「申し訳ありませんでした!」
上司に向かって後輩の男の子と一緒に頭を下げる。
「……まあ、起きちゃったことは仕方がないけど。次は気を付けてね」
「……はい」
顔をしかめる上司に私は沈んだ声で答える。
私が担当している後輩の確認ミスにより、商品の進行に遅れが生じた。
この遅れは社内で補わなければいけない。
「久しぶりに社内で内職か。腕が鳴るねえ」
いつも明るい先輩が腕をまわしながらはりきってくれる。
私は「ありがとうございます」と答えながらちらりと時計を見る。
このまま仕事を続けたら保育園のお迎えには確実に間に合わない。
旦那に代わりに……。
そうも思うが今日は接待で遅くなると言っていたことを思い出す。
息子の泣いている顔が思い浮かぶ。
泣き虫なあの子は私が遅くなればなるほどたくさん泣くだろう。
私の視線に先輩が気付く。
先輩は気遣うように私の背中をたたいた。
「息子さんのお迎えあるもんな。いいよいいよ、気にすんな」
「ごめんなさい……」
肩を落とし、隣の後輩を伺う。
後輩はがっかりした表情で言った。
「良いですね、「お母さん」って」
悔しくて仕方がなかった。
「マ~マ~!!!」
保育園に着くと息子は泣きながら駆け寄ってきた。
「おそいよー。ぼく、すっごいまったんだから!」
必死に抱き付きながら訴える息子に私は「ごめんごめん」と頭を撫でる。
「もう~」と頬を膨らませて私を見上げる息子。
途端、息子の表情が変わった。
「ん? どうした?」
訊ねると息子は少し考え、「ん~ん」と横に首を振る。
自転車の後ろに息子を乗せて家へと向かう。
道には街灯が灯り、他の家からは晩御飯の匂いが漂ってくる。
いつもはその日あった出来事についてうるさいほど話してくる息子は今日は黙っている。
私は「しまったな」と思う。
上手く隠せるつもりだったのにこんなに簡単にばれてしまうなんて母親失格だ。
自分の未熟さに落ち込んでいると背中にぴとっと何かが当たるのを感じる。
「ん?」
自転車を止め、振り返る。
見ると息子が真剣な表情で私の背中に両手をくっつけていた。
「……何してるの?」
行動の意味がよく分からない。
息子は顔をあげて言った。
「きょうだけぼくのなみだ、ママにあげる」
「……え?」
「ぼく、なきむしだから、いっぱいなけるよ?」
「…………」
言葉の意味を理解するのに少しだけ時間がかかった。
理解するとたまらなくなった。
だから、私はまた自転車を発進させた。
「ねえ、ママ、あしたはかえしてね」
「……うん」
背中に息子の小さな手の温もりを感じながら、泣き虫な息子も悪くないと思った。