王様の美術館
ベルギーの画家ルネ・マグリットの作品に『王様の美術館』というものがあります。この小説は、その絵を初めて見たときに思いついたものです。
白昼の海浜公園だ。かもめの鳴き声に隠れているのは人の泣く声、潮の香に混じる涙の味。こんな海辺に集うのは、寄せては返す波のように、人の情が行ったり来たり。
日鷹はレンガの散歩道を歩いていた。潮騒が耳をふさぎ、ひとりひとりに特別な空間を作り出している。他に見当たるのは、つまらなそうに海を眺めている大学生風の青年と、ベンチに座って遅い昼食をとっている会社員、くるくると走りまわる犬を連れた老人くらいだった。
脇に目を向ければ、少し幅の狭くなった道が公園の奥に続いている。日鷹はそちらに歩みを変えた。波の音の内側に葉擦れが混じった。木の葉を透かして降り注ぐ陽光はもったいないほど濃い。コンクリートの歩道さえ、陽を浴びて生き返るようだった。
やがて日鷹は公園の中央に位置する広場に出た。いつもなら地面から噴水がふき出ている。平日の昼間には、若い母親たちがまだ学校に通わない子どもを連れて集まってくる。
今はそこに、巨大なテントが張ってあった。
トリコロールの色褪せた縦縞模様。円柱の上に円錐が乗った形をしており、てっぺんで小旗がひるがえる。こぶし大の電球がぐるりと取り付けられ、明かりが灯ればにぎやかだろう。布地は長い年月にくたびれていた。何の物音もしない。入口は閉じていたが、日鷹は布の隙間から中に入った。
明かりはなく、ぷつぷつ開いた穴から光が差し込むだけで、内部は薄暗かった。目の前の通路の先にはステージがある。それを骨組みが見えたままの観客席が囲んでいる。客席の上にはロープが一本ぴんと張り、その両脇では、はしごや折りたたまれたブランコが影を潜めている。それらがちょうどテントの半円を形成していた。ステージの後ろの真紅の幕が仕切っているのだ。両袖から奥に入れそうだった。日鷹は右袖を選んだ。
幕の裏では、個室の扉が二列、ずらりと並んでいた。合わせて五十はあるだろう。外に出ている者はいない。寝息や低い囁き声が、寒い部屋につけたばかりの暖房の空気のように、流れを作って漂っていた。上手に他よりも大きい部屋があった。それだけぽつんと、箱のように建っている。日鷹はその扉を開けた。
箱の真ん中、ピエロがいた。日鷹が来ることを予期していたように、重厚な椅子に深く腰かけじっと扉の方を見ていた。口元にはべったりと笑みが浮かんでいる。パーマがかかったグレーの髪の上にシルクハットをかぶり、大きすぎる黒いジャケットを着て、銀と青のストライプの蝶ネクタイは、顔の幅ほどもある。臙脂のだぼだぼのズボンと、足のサイズの二倍もありそうな茶の靴を履いている。顔は白塗りで赤い丸鼻、頬に大きな涙のマーク。濃いメイクに埋もれた目が、一瞬きらりと光った。
「予期せぬお客様は大歓迎ですよ」
ピエロはしゃがれた声でゆっくり話した。
「地下の喫茶店が見えます。それに、画家の小屋、診療所……」
殺風景な部屋だった。ピエロの座っている椅子の他、ランプをのせた小机があるのみである。左手の壁に換気用の窓がひとつ、窓枠の向こうにはテントの壁が見えた。
ピエロは白い手袋をはめた手で手招きする。日鷹が近づくと、こう囁いた。
「感覚を研ぎ澄ませることです。そうすれば、直感的に見えてくるものがありますよ」
ドンドンドンと、誰かが部屋の扉を叩いた。
「団長! お待たせいたしました」
甲高い声で叫びながら入ってきたのは、ピエロとまったく同じ格好をした、だがふた回りも小さい、見習いピエロだった。若い男を後ろに従えている。
「ブランコ乗り3です!」
空中ブランコ乗りの男は部屋着らしい服を着ていた。小さいが引き締まった体をしている。見習いピエロに促され、椅子の前に進み出た。
ピエロは何も言わず、微動だにしないまま、ブランコ乗りを眺める。日鷹もその傍らで様子を見守った。
男の立ち姿には隙がない。瞳は正面にピエロと日鷹を捉えている。だが視線が前に飛んでこなかった。そこに宿る意志は、自分の周りで起こる事を起こるままに受け入れようという意志だ。まるで鉄塔のようだった。
ほんの一瞬、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。
男の胸にちろりと光るものがある。それは暖炉に燃え盛る火の明滅だ。その家では老いた母がひとりで暮している。たき火のはぜる音の底に、ぐつぐつと鍋の中身の煮える音がしている。小さい鍋に用意するのは自分だけのつましい食事だ。テーブルの上に、パステルカラーの小花が散った子ども用の便箋は、たった半分書いたところで、筆が止まってからずいぶん経つ。もう春だというのに手編みのマフラーは仕上がらない。空色の毛糸玉がひとつ、テーブルの下に転がっている。はるか遠く山間の、小さな村の風景である。
五分ほど経った頃、ピエロは大きくうなずいた。
それが合図だった。ブランコ乗りは深く礼をし、くるりと回れ右をした。見習いピエロも男の背を押し押し部屋を出ていく。その後ろ姿にピエロは言った。
「次は鼓笛隊7を連れてくるように」
見習いは足を止め、躊躇するようだった。
「ですが、今日はもう――」
「連れてこいと言っている、早くしろ!」
見習いは一礼し、部屋を飛び出していった。
「日鷹さん、せっかくですからもうひとつふたつ、お見せしましょう」
ピエロはにやにやと笑ったまま話す。
しばらくして、
「団長! お待たせいたしました」
見習いが寝ぼけ眼の少年を連れて戻ってきた。
「鼓笛隊7です!」
パジャマのあまった袖で目をごしごし擦っている少年を見たピエロは、肘掛をこぶしでドンと叩き、怒鳴った。
「こんな時間まで寝ていたのか! お前はここに何をしに来てるんだ、働きに来てるんじゃないのか!」
鼓笛隊の少年はびくっと肩を震わせ、目を見開いて直立した。まだ母の膝に寝ていてもいいくらいの年齢だが、目に宿る光はひとりで立ってもぶれない。
世界中が同時に息をついだときのような、瞬間の静寂が訪れた。
少年の胸に輝くのは、天高く昇った太陽だ。ぐんぐん青い空に負けじと、校舎と校庭とが背伸びしている。くすんだ建物の壁には百年以上のときを超えた子どもたちの手垢が、埃っぽい庭には時代ごとの靴跡が誇れる。舞い落ちる桜の花びらの下で走り回る学友たちの姿が見える。そこでは満開の笑顔と、吹き溜まりのようなぴりぴりとした空気が絶えない。閑散とした教室の机の中では、教科書とノートがうずうずしだす。休み時間の終わりを告げるベルが鳴った。
ピエロがうなずき、少年はぺこりと頭を下げて部屋を出ていった。見習いが去り際に、ピエロは猛獣使いを連れてくるよう命じた。
すぐに、
「団長! お待たせいたしました」
見習いピエロが連れてきたのは、先の少年の母親ほどの年の女だった。
「猛獣使いです!」
猛獣使いの女は化粧をせず、明るい茶髪を髪留めでひとつにまとめていた。どこかの会社の事務机に座っていそうな顔で、ピエロの前に立った。
時計の秒針が止まったように見える瞬間の、息がつまるような静寂が訪れた。
ぴかっと強く光ったのは、フロントガラスの反射だ。黄信号を走り去るその車をなんとなく目で追う。助手席に座る女の赤いドレスが焼きついた。はっとした時には、男はこちらに背を向けている。スーツの後ろ姿は、あっという間に、ビルの谷間をうねる黒髪の波に消えていった。しつこくしつこく脳に刺さる高いヒールの靴音、鼻腔に張りつく口紅の匂い。救いのような子どもの明るい笑い声が、ふと脳裏を横切った。それもつかの間、すぐに都会の喧騒に掻き消える。
ピエロはうなずき、猛獣使いと見習いピエロを部屋から出した。
「どうです、悪くないでしょう?」
日鷹を振り向いて言う。
「私の唯一の楽しみですよ。ここに呼ぶたびに新たな絵を見せてくれるから飽きない。次が待ち遠しくてしょうがない。普段は一日ひとりなのです。そうでも決めないと、はまってしまいそうでね。日鷹さんはどんな絵を見ました? そのうち、世界一の秘境や夢と現実のはざまの動物、黄金の雨の味や天使の衣の触感まで見えるようになりますよ。人の情はプリズムのようです。とある女の見果てぬ夢は、別の少女の体に残る痣と同じ色をしています。心臓の鼓動の美しさには、トップレベルの音楽家もかなわない。そして、そう、お気づきですか? 誰もこのサーカスに心を寄せる者はいないのですよ」
ピエロは真っ赤に貼りついた唇をこれ以上ないくらい横に広げた。黒く塗りつぶされた目は、開いているのかどうかも分からない。
「こんなに慕われているのに」
そう言った日鷹を、ピエロはくっくっと笑い飛ばした。
「慕われている? 見え透いたお世辞は結構ですよ。ここの団員たちはみな一流です。私が才能のある者ばかり無理に集めてきたからです。全国を駆け巡って、あるときは学校から、あるときは別のサーカス団から、またあるときは道端で、文字通り腕を引っ張って連れてきたのです。そしてこのテントに閉じ込めている。嫌われていて当然なのですよ」
「鏡を見たことはありますか」
「鏡?」
「あなた自身の絵は何かと聞きたいのです」
日鷹は笑ってばかりのピエロの腕をつかみ、部屋の換気窓の前に立たせた。
暗いテントの布が見える枠にうっすらと、ピエロの胸から上が収まった。
静寂。
かちりと、照明の下に映し出されたのは、柔らかく談笑する団員たちの姿だ。ステージに寝そべる軽業師、林檎をかじるジャグラー、シルクハットを捨てた手品師、中から飛び出した兎が食事に出かける。ブランコ乗りは観客席に座って手紙を読んでいる。鼓笛隊の少年は仲間たちと鬼ごっこに興じる。猛獣使いは古い写真を見せびらかす。彼女のライオンを枕にして雑誌のページをめくるのは見習いピエロだ。テントの中は眠くなりそうに暖かい。照明の届かないステージの裏で、今度は誰かの涙が光った。
そのとき、ピエロは日鷹の腕を振り払った。
「お分かりでしょう、あなたがどんな絵を見たかは知りませんが」
「もう少し見ていてごらんなさい」
ピエロは鏡を覗きこんだ。そこに映った自分の姿にお辞儀をする。首を傾げる。さらに不自然なほど傾けてみせる。鏡像の自分と握手をしようとして、窓に手をぶつけて痛がるふりをした。痛い手を抱えて部屋をあたふた走り回ったあと、ピエロはにんまり笑った顔を日鷹にぐいと近づけて、
「これでいいのですよ。私は団長だから」
「団長だからこそ――」
なお言いつのろうとする日鷹の鼻さきに、ピエロは指を突き付けた。手首をくるりと回し、いつのまにか薔薇の花を一輪持っている。
「招待状です。今日は公演はお休みですが、日鷹さんのための特別な演目をお見せしましょう。さあさ、観客席のほうへ」
ピエロは部屋の扉を開け、団員たちの個室に向けて叫んだ。
「開演だ、開演だあ! みな、持ち場に着くように! お客様をお待たせするなよ、早くしろ!」
トランペットが闇を貫く。青い光に沈んでラプソディ。
暗闇の中で色が揺れる。ブランコに乗って弧を描いた人影は、宙を飛び、別の影とつながり、また離れる。回転しながら空中に着地した。ロープの上を右に行き、左に行き、歩いて止まる。止まって走る。音楽がやみ、ごろごろと喉を鳴らす音が聞こえた。獣の匂いが鼻をつく。ひゅんと鞭が唸った途端、それは飛び出し、火の輪をくぐった。火が消えて、今度は光の玉が観覧車のように回りだす。それは見ているうちに速さを増し、いつしか小さな虹を描いた。色が膨れては萎み、伸びては縮んだ。やがてはじけて、最後にまた暗闇が戻る。
ジャンジャカジャカと鼓笛が始まり、テントに音が充満する。ぱっとスポットライトがついて、ステージの真ん中にピエロの姿が浮かび上がる。だぼだぼの黒いジャケット、臙脂のズボン。銀と青の蝶ネクタイは顔を覆いそうなほど、茶の靴は実際の足の倍からさらに大きい。べったり笑顔のメイクを施した顔が迫る。頬に落ちた大粒の涙が光る前に、それはシルクハットの陰に隠れた。
日鷹は静かにこのサーカスを後にした。
外はすっかり夜だった。海辺の空気が肌を刺した。
潮の香漂う風にため息を乗せ、呟いた。
「分かるわけないんだ――その人が本当に淋しいのかどうかなんて」