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第一話 2 / 3


「で、だ」


 彼女の性格の豹変やらなにやらの混乱からやっとの思いで立ち直ったころ。俺は温かいお茶を片手にコタツで暖を取りながら彼女に問いかける。


「結局お前ってなんなの?」


 俺にとってはこれ以上ないくらい的のど真ん中を射た質問だが、彼女にとってはファールボールのようなものなのか、首をかしげるだけだった。

 つーか、俺はコタツに入って彼女はコタツの上に座ってるんだが、これはいったいどういうことなのか。


「まず降りろ。机の上は座るもんじゃありませんよ!」

「そうなのか」

「そうなんです」

「そうか」


 納得した彼女もコタツの中に入り込んだ。おおっ、とコタツのほのかな温かさに驚き、うれしそうな表情を見せる。


「で、最初の質問に戻るけど。お前は一体何?」

「私か? 私だ」


 胸を張りながら言われても。そーいうこと聞いてるわけじゃないんだけど。


「さっきテトラ……なんとかの書がなんとかとか言ってたじゃねーか」

「……?」


 心底わからなそうな顔で首をかしげる彼女。

 いや、お前に首を傾げられても……などと、彼女の様子に若干いらっと来ていた俺だったが、彼女はぼそりとつぶやいた。


「なんというか……」

「なんというか……?」


 どこか真剣な目で見返してくる。

 思わず唾を飲み込んで、


「なんとかって一文に二度も出すあたり馬鹿っぽいな」

「でてけーーーー!」


 それからしばらくして。


「はぁ……わかった。わかったよこのやろう……」


 いくつかの質問の後、俺は観念したように両手を机に投げ出した。なにせ彼女は質問にすべて首をかしげたのだから、俺の疲労の度合いは推し量れるだろう。


「お前はなにも知らない、ファイナルアンサー」


 クエスションはつけない。断定だ。

 ちなみに聞くのは無駄だと判断してヘルプに聞こうとしたが、なぜか使えなくなっていた。……なぜに。

 思わずため息が漏れる。

 これから苦労しそうだ。……いやほんとに。

 いっそのこと周りの迷惑考えずにどこか施設に預けてやろうか。

 黒い方向へと思考が走り始めた俺をよそに、彼女はお茶を片手に首をひねっている。しきりにべろを出してはひっこめている。一体どうしたというのか。

 聞くと彼女にしては珍しく何と言えばいいのかよくわからないような顔をした後に「舌が敏感なんだ」と自分の性癖をカミングアウトしてくれた。「喉もなんだ」もういっちょ追加だ!


「お前の性癖とかほんとどうでもいいわ。つかテレビ見ただけで自分の性癖暴露する変態になれるとか、逆にすげーよお前の知能」

「性癖? というのはよくわからないが、お茶を飲んでから喉が、こう……がりがりするというか、ざらざらするというか」


 ざらざら? 舌と喉? お茶で?


「……やけどしたんじゃね?」

「やけど? ……ああ、これがやけどか!」


 黄色い声が上がる。

 何がうれしいんだかわからないけれど、なにやら楽しそうな彼女。舌がやけどすると結構痛いと思うんだけど。

 というか……ほんとに常識知らないんだなぁ。

 コタツのうえに座ったり、熱いお茶でやけどしたり。

 目の前で楽しそうな彼女を見ていながら、頭の中の遠くにいる意識が、子供も知ってることを知らない彼女を赤子だと揶揄した。

 本当に子供だ。こんなことではしゃげているんだから。

 本格的に面倒なことになってるんじゃないか。俺はこれからの労力の一端を感じたような気がする。

 この調子じゃ常識だってほとんど知らないのだろう。

 ためしてみる。


「電車に座っている時おばあちゃんが現れました、あなたはどうしますか?」

「電車ってなに?」


 そこからですか。

 そもそも単語が分からないんじゃ常識だって教えにくい。

 最初の時のような反応なら困難すぎていっちょやったるか!という気分になるが、一応会話ができるている彼女にいちいち「これはこうなんだよ」なんて、教えなきゃいけないなんて思うとげんなりとした気分になる。

 全国のお父さんとお母さんはそんな面倒なことをしているのだと考えるととても頭があがりません。

 まさかピンポイントで「日常的な常識について教える本」なんかがあるわけもないし。というかみんな知ってる常識を本にしても、みんな知ってるんだから売れないし。

 ……こんだけ頭いいんだし、いっそのこと本とかパソコンで自分で調べてくれないかな。


「そうだ! パソコンだ!」


 パソコンならきっと変なやつが常識をまとめて教えてくれるサイトの一つや二つ作っているはず!

 すぐさまPCを起動、ブラウザを開いて「日常生活 常識」で検索した。

 すると出てくる出てくる。サイトによっては事細かにでてくるではないか。むしろ俺から見ても、いやそんな詳しくしらねーよレベルだ。


「へー、割り箸って横向きにして上下に割るのな」

「これはなんなんだー。なーなー」


 面倒が減ったとにんまりする俺のうしろから彼女がのぞきこんできた。

 若干なれなれしい。


「パソコンだよ。これを使って調べりゃ大抵のことはわかる。最近の大学生には必須の超便利アイテム」

「使っていい?」

「もちろん。あ、有料サイトには行くなよ。そして契約すんな」


 へー、これが。なんて感心している彼女に簡単にパソコンの使い方を教える。ついでになにかわからないことがあったらこれで調べろ、とも言いつけておく。

 こうすればねーねー、なんて言わずに自分で調べるようになるはず。


「とりあえず最優先に調べるのは常識だからな」

「わかってる」


 彼女が嬉々として――雰囲気はまさに嬉々としてなのだが、しかしまだ表情を動かすのは苦手なのか、わずかに頬をゆるめて――調べ始めるのを横目に、俺はコタツに体を潜らせた。

 そして気がつかれないように、彼女を観察する。

 光の加減によっては銀色に見えなくもない流れるような長髪。鋭さの中に無邪気な色を垣間見せる黒曜石の瞳。小さな逆卵型の顔に完璧な配置。彼女の美しさはアイドルもはだしで逃げ出すだろう。

 どちらかといえばきつい美人という感じなのに、表情は童女のような無邪気さに彩られているのが余計に彼女の美貌を引き立てている。

 とんでもない美人だ。

 こんな美人にあったことがないくらいの美人さんだ。しかし俺は彼女の顔に見覚えがあった。

 思い出してほしい。彼女の体はどんな形に作られたのかを。


 そう、『保持者が持つもっとも魔道書として適したイメージ』だ。


 俺はある程度落ち着いた心境になった今になって、その言葉の意味と彼女の容姿がなんなのかを理解したのだ。

 すなわち――あいつの顔、俺がメッチャ好みだったキャラそっくりやん。

 数年前、がちがちのアニオタであった俺が特に好きだったアニメ。その中に出てくる魔道書の管制人格(簡単に言えば魔道書の中に納められた魔法を管理する役目で、補佐もするプログラム体。いろんな魔法が使えてやたら強い)が銀髪で、彼女にそっくりなのだ。

 確かに、一時は熱狂的なファンだったので、魔道書と言われれば真っ先に思い浮かべる。おそらくそれが理由でテトラ……なんとかの書の姿が女性になったんだろう。

 まことに遺憾ながら何度かキャラにリアルで会ってみたいと思ったことが、予期せず叶ってしまったわけだ。

 しかしとんでもない美人と一つ屋根の下という驚愕歓喜すべき事実も、あきらかに起こりえる将来の厄介事を考えると、溜息しかでない。


 例えば、魔道書である彼女を奪いにこられて命がけのバトルとか。

 例えば、魔道書である彼女が実は呪われていて、俺の余命一年のみとか。

 例えば、魔道書である彼女はいずれ世界を滅ぼすとか。    …………そんなことありませんよねー?


 実はこれ、夢オチだったりしないかなー。

 なんて、惚けたことを考えながら、俺はコタツの温かさにうつらうつらと瞼を閉じていった。





 ◇






「……きて」


 まどろみの中、かすかな声が聞こえた。


「……起きて」


 しだいにはっきりしていく声。どこか艶っぽいその声に、母さん無理しすぎ、とぼやきながらコタツのもっと深い所へと身を潜らせる。

 耳元で聞こえる声に煩わしさを感じ寝がえりをしようとするも、コタツは狭い。やたら柔らかく体に絡みついている毛布の存在もあって、寝返りできない。

 しかもその毛布、もぞもぞと動く。コタツのなかでただでさえ熱いというのに足に絡み、体に巻きついてくるではないか。一層の暑苦しさに毛布を払った。しかし払った腕がなにかに捕まり、


「お」


 耳元にしっとりとした息。


「き」


 濡れた髪を想像させる艶のある声。


「て」


 そしてつままれる脇腹。


「ぎゃっ!」


 まったくもってかわいくない声が口から洩れた。

 同時、痛みに跳ね上がった足がコタツの天井についたヒーターを蹴り、熱が痛みとなって体を駆けあがってくる。俺はしばらくコタツの中で悶えることとなった。

 しばらくして痛みが引いたころ、俺は体に絡みつく毛布に言った。


「で、なにしてんの?」

「ふふ……さぁ?」


 毛布あらため彼女は昨日の純真無垢な様子とはうって変わって、抑えきれない色気を微笑の端からもらしながら俺に絡みついていた。


「何をしていると思う?」


 コタツの中の足が絡まり、すれる。彼女の柔らかい感触を存分に堪能した俺の太ももが悲鳴を上げた。

 なななななにしてんの。

 どもりそうになるのを抑える。にへら、とだらしない表情になりそうになるのも。がんばって俺の表情筋。


「……ふふ」


 今にも壊れそうな無表情。もしこの表情が崩れてだらしない表情を見せたら、俺はそのまま彼女にセクハラしそうな気がして、必死で抑える。

 しかし俺の努力をあざ笑うように触れるか触れないかの距離で彼女の手が俺の胸をなぞった。どこで覚えたんだよこのテク! 内心で絶叫しながら鉄の無表情をどうにか顔に張り付け、耐える。


 そんなこんなで彼女の――まことに恐ろしい――テクに耐え続け、唇の端からかすかに熱っぽい息が俺からも漏れ始めたころ――不覚ながら後一歩で被虐系お姉様趣味に目覚めるところだったことを白状せねばなるまい。彼女は「うーん」とうなりながらコタツから出て行った。

 あやうく理性がゴミ箱にシュートして原初の欲求に首ったけになるところだった。

 しかしいったいなんだったのか。

 朝っぱらからの心臓殺しに一言文句を言ってやろうと立ち上がると、彼女が立っていた。――裸エプロン装備で。


「じゃーん。……どうだ?」


 じゃーん、て。

 じゃーん、てなんやねん。

 それはあれか、有名人がテレビに登場する時の効果音的な感じなのか。

 しかもどうだって、俺にどうしろっちゅーねん。

 俺は首をかしげる。


「ん?」

「……ん?」


 彼女も首をかしげる。

 とても不思議そうな顔をしている。


「うれしくないのか?」

「いやなんで?」


 だって好きだろう? といったいどこから調べてきたのかわからないことをいう。


「だってブックマークにはこういうのが多かったぞ? お気に入りというくらいだし、好きなんだろう?」

「パソコン使って常識調べたんじゃなかったのかよ」

「あまった時間は有効に活用させてもらった。有意義な時間だった。とても有意義な時間だった。大切なことなので二度言いました」

「お前がどこを中心に見ていたのか今のでよーーーくわかった」


 掲示板の向こう、顔の見えない奴らめ。と頭を抱える俺を不思議そうな目で見ていた。

 ……確かにブックマークにはそういったネット小説やら絵のページが多く登録されている。


「ブックマークにはそういうのがたくさん登録されてるし、好きって言えば好きだけど。……でもリアルでは違うっていうか……」


 例えるなら小説では触手プレイとか寝取りとか大好きだけど、現実では無理! みたいな。

 ついでにいうと、いくら魔道書とはいえ、女の子の姿をした彼女に「僕は裸エプロンとか妹とか猫耳とか大好きです!」なんて恥ずかしくて口が裂けても言えない。

 俺は頭をかきつつ、そっぽ向いた。さすがに彼女の裸エプロンを直視続けられるほど大人にはなれていなかった。……見慣れるような大人にはなってみたいけれど。


「好きならうれしいんじゃないのか?」


 彼女はやはり不思議そうな顔で、わざわざ俺の視線の先に歩いてくる。再びそらされる俺の視線。

 しばらく彼女は俺を観察し、それから何か納得の言ったような顔をすると、


「それとも……こういうのが好みなのかっ?」


 するり。

 まるで猫のように俺の懐へと潜り込むと、俺の左腕を抱きしめた。

 彼女の腕が強く抱きしめる。圧迫感あり。薄布一枚を挟んだだけの感覚がやけに鮮明に脳裏に再生された。しばらく忘れることはできないだろう。


「もー、お兄ちゃんってば! はやく起きてってばぁー!」


 追い打ちのように、彼女が叫ぶ。

 さっきまでとはうって変わって、どこか甘い表情、無邪気にじゃれついてくるその様。まさに妹……っ!

 それはもはや落雷。

 体に電流走る。

 ……もう我慢しなくてもいいよね。

 自分で言うのもなんだが、朝にこんなことをされて我慢できるわけもない。

 今までは出会ったばかりの女(魔道書)に何考えてんの、と自粛してきた。こいつ人間じゃなくて本だよ本! 

 が、理性が本能に転化してしまった今の状況ではどうでもいいこと。むしろ手を出さねば男の沽券にかかわる……っ!

 そっと俺の手が彼女の体に伸び……


「――どうした?」


 眼と眼が向かい合う。

 あ、と思った。

 だから、駄目だ、と思った。

 彼女の瞳の中には、ただただ俺への信頼だけがあった。純粋な黒で、曇りなく輝いている。

 だから俺の手は中空で空気を掴んだだけで、だらりと力を失った。

 その手を見た彼女は、ふむと思案する。


「なんだ、こういうのも好きじゃないのか」


 コインが裏返るように彼女の表情が真顔に戻った。

 ……手を出さなくてよかった……っ


「よくわからない」

「見たり読んだりするのは好きでも、実際には好きじゃないものもあるってことだ」

「難しい」

「それが大人だ」


 なんていっても俺まだ18。ブックマークは若さと萌に溢れるお年頃。

 肩をすくめておどけ、俺は押し入れを開けた。中に見えるカラーボックスから適当に目についた服を一つ二つ。


「どれがいい?」


 持ち上げたのは黒のジーンズと紺のジーンズ。彼女は悩むそぶりも見せず、


「どっちの方が好きだ?」

「それは俺の台詞だ…………紺」

「なら紺だ」


 そんなことをさらにTシャツと上着でやって、男物で悪いとは思うが着替えさせる。


「だっぼだぼ。だっぼだぼ」


 なにやら楽しそうな彼女に顎で玄関を指し示すが、無反応。どうやら顎でつかうことはできない様なので、いくぞ、と声をかけてやる。


「何をするんだ?」


 問いかけてくるが……そんなん決まってんだろ。


「――買い物だ」





 ◇





「つまりだ。これからのことを考えるにお前の服は必須なわけ。がしかし、俺のタンスには男物の服しかない。正直、別に買わなくてもいいんじゃね?と思う俺がいるわけだが、世間体というものがありましてからにでもやっぱり服は高いよパパン……」

「長い一行」

「いっそ全裸でよくね?」

「それでいいなら」

「すんませんでした!」


 世間体の意味を考えるに全裸はまずい。なにより全裸でと言ったら本当に全裸で行動しそうなこいつがまずい。

 と、いうわけで現在俺たちは近くのショッピングモールへ彼女の服を買いに出ていた。どうやら初めてのお買い物が楽しみらしく表情は変えずに、彼女は肩を弾ませている。こうして隣に楽しそうな奴がいると自分も楽しくなるのだから不思議なものだ。

 しっかしこいつ綺麗に歩くな。

 というかなびく艶やかな髪と横顔からわかる顔面偏差値70のこいつにやたら目が集まる。服は俺の服なのでセンス偏差値50なのだが、それでも隠しきれないらしい。道行く人はひそひそと彼女について話していた。 ……ちょっと鼻がのびたことは否定しない。


 ショッピングモールにつくと、適当に二人で店を見ながら歩いて回ろうと思っていた。とりあえず必要なものは彼女の服と生活必需品だ。それに下着類も買わなくてはいけない。

 そう、下着。下着だ。

 ないと擦れたり蒸れて痛いと知り合いの女子が言ってた。多分無いと困るだろう。そうでなければ世界中の女性が下着をつけたりはしない。必要だからこんなに広まったのだ。だから必要なのだ。


「だから適当に下着上下セットで何個か買ってこい」

「ん」


 俺は下着売りの店の前で彼女に一万円を手渡した。財布から諭吉が去っていくまでの葛藤は四万文字を超えたが、最終的に必要なのだと自分に言い聞かせて別れを告げた。どうやらネットで学習したらしく、物の買い方はわかるとのこと。少し心配だが俺は彼女がしっかり買ってくることを信じて待つ。

 とはいえ待つことはどうにも暇だ。

 俺は自分のパソコンとブックマークを同期している携帯を取り出す。かつて多々お世話になったホームページをどんどん削除していく。悲しいが、彼女に目の前であんなことをされてから、大人になんなきゃな、とふと思ったからだ。

 そうしてやたら大量にあったブックマークを整理すること30秒。店内から彼女が出てきた。やたら早い。


「ちゃんと買えたか?」


 問いかけると彼女はやり切った顔で袋から戦利品を取り出し……た……って、


「子供用下着じゃねーか!」


 彼女の手にはくまさんがプリントされた小さなパンツが。どう考えてもこいつははけない。

 なんということか。こいつには下着を買いにいかせるのも難題だったらしい。

 よくよく考えてみるとこいつはまだ生後一日経っていない。とすると「適当に」というのは少々酷だったかもしれない。

 さらによくよく考えてみると、下着を買うというのはかなり難題だったかも。女性はトップとアンダーの差からカップサイズを求めて、さらには自分の体型にあったものを云々らしいからだ。


「……とりあえず、これはお店の人に言って返品しよう。いいか今からいうことをよく覚えておけよ」


 しかたない。最終手段、手取り足取り教えるを発動するしかあるまい。


「まず店員に買う物を間違えたので返品したいんですけど、という。次にお店が返品してきたお金を財布に仕舞ってから、店員さんにどんな下着を買えばいいのかわからないので、下着を選んでくれませんか?と聞くんだ。ついでにサイズも測ってもらえ。いいな、では行ってこい」


 再び、ん、とうなずいた彼女が店に入っていく。これで大丈夫だろう。

 ブックマークの整理を再び開始する。

 今度は十分ほど後、彼女が出てきた。なぜか彼女は俺の前にくると手を差し出し、


「お金が足りないらしい」

「どんな高級品買おうとしてんだ!」


 駄目だった。

 *注意 後で知ったことだが上下セットで一万円超えなんて普通にあるらしい。男からすればなんて恐ろしい服だ。


「あー、とりあえずお店の人になるべく安くて着心地いいのを四セットください、って行ってこい。多分いくつか見せられるからその中から気に入ったの買ってこい」

「お金は?」

「……ほれよ」


 少し考えてみると、上下セットで四千円くらいだとして(根拠は特にないが)四セットも買うと一万は軽くオーバーしてしまう。俺は財布の中からさらに一万円彼女に渡した。

 三度目の、ん、という頷きを残して彼女はお店に消えていった。……さすがにこれで大丈夫だろう。


 結局彼女は十分ほど経つと店から出てきた。いくつ買ったか聞くと四と答え、いくらだったと聞くと一万四千と言った。少々値が張ったが……まぁ諦めよう。これからバイトもするし。

 しかし今月後五万しかないのに、どうしよう。これでさらに服も買ったらさらに減るだろ……一人暮らしって二万もあれば一ヶ月暮らしていけんのかな。わからんから結構不安なんだが。でもこいつの服を買わないわけにも行かないし……

 ……うっし!

 うじうじしても仕方ない。

 足りなかったら足りなかったでそん時考えよう。


「よっしゃ、次は服だ服!」


 俺は待ち時間に買ってきていた缶コーヒーを一気に口に含んだ。やること決めたら即行動!


「あ、そういえば」


 次にあれして、その後これして……と考えてた俺の隣から声が上がり、


「お店の人に、下着をはかせないで下着を買いにくるって大胆なプレイですね、って引きつった顔で言われたんだが……プレイとはどういう意味だ?」

「――ぶはっ」


 コーヒーが気管に入った。


「ど、どういう意味だ……?」

「店員がサイズを測るときに服を脱いだが、私の体を見て顔を引きつらせたんだ」

「まじかよ……」


 思わず俺の顔も引きつった。

 ……そういえば服ははかせたけど、下着は無いからそのままだった気がする。

遠目で見たとき、対応していた人はかなり若そうな女性だった。後ろ姿だけだから多分だけど。……同じ大学の人ではありませんように……

 ごまかすように手を振り、次の店を指差した。


「次行くぞ次」

「……」


 返事はない。


「どうした?」


 俺は振り返った。あまりにも唐突だが、彼女はうつむいていた。

 最初あった日差しのような雰囲気は曇っている。

 不思議に思いつつも歩くと、三歩後ろを歩いてくるような気配がする。もしかして何か落ち込んでいるんだろうか。気に入った下着が買えなかった……とか。

 どうして彼女が落ち込んでいるようなそぶりを見せるのかまったくわからないまま、俺は次の店に足を踏み入れた。

 モールを二つ三つぶち抜いて作られた空間にはたくさんの服が飾られている。さっきの下着売り場の三倍くらいはあるだろう。俺は彼女がとなりにきたのを見計らって、離れないような速度で女性服コーナーまで歩いた。

 つくや広がる色とりどりの服の数々。男物のコーナーよりも商品が充実しているのは気のせいだろう。


「どれがいい?」

「どんなのが好きだ?」


 彼女は服には目をくれず、じっと俺の目を見ていた。

 俺は一度肩をすくめ、やれやれと言いたげなポーズを取った。そして適当な服を取って彼女に手渡してみる。


「これなんてどうだ?」

「これがいいのか?」

「オメーに聞いてんだよ」

「……わからない」


 彼女は首を横に振った。

 本当にわからないと瞳を閉じた表情が教えてくれていた。

 思わず頭の後ろをがりがりとかいてしまう。


「はぁ……」


 なんとなく、自己主張の少ない奴とは一緒にいたくないとぼやいていた旧友のことを思い出してしまった。まったくもってその通りだ。正直今のやり取りだけどめんどくさくなってきた俺がいる。どこぞのコーヒーショップでキャラメル濃いやつ頼んで待っていたい。

 がしかし、気がつけばうつむきながらも俺の服の端っこをつまんでいるこいつを放っておくのは、なにか間違えている気がする。放っておいたらしばらくは罪悪感でめしがうまくないだろう。


「しゃーない。ついてこいよ」


 周囲を見渡し、一人で洋服を物色している女性を何人か見つけ、俺は脅かさないようにゆっくりと一人の女性に近づいていった。


「あのー、すいません。今いいですか?」

「は、はいっ! ……なにかありました?」


 俺は服のセンスが良さそうなボブカットめがねの女子大生に声をかけた。女性は男に女性服売り場で声をかけられたのが怖かったのか、二歩、後ろへ下がる。

 怖がらせてはいけない。

 俺は彼女から一歩下がると、後ろに隠れていた彼女を前にだした。女性は彼女を見て口元に手を当てて驚くが、俺は畳み掛けるように、それでいて怖がらせないようにゆっくりと声をかける。

 ――もしも時間がありましたら、この子の服を選ぶのを手伝ってはもらえませんか、と。

 ……うさんくさいことは自分でもわかってる。

 事実目の前の女性はいぶかしげな表情で俺を見ていた。

 それでも俺が御願いします!と頼み込むと、ため息混じりに了解してくれた。押しに弱そうな女の子を選んだのが功をなしたようだ。


「男物の服を着てるし……何か事情があるんですよね?」

「それは……まぁ、あいつの服を選んでる途中にわかると思いますよ」


 彼女の問いかけに曖昧に答えておいた。この服、どうやって着るんだ? とかいう彼女と一緒にいれば、きっと勝手に記憶喪失とかそのへんで納得してくれるような気がしたからだ。

 それからしばらく見知らぬ女性を加えた三人で店を見て回ることとなった。どうやら――失礼な言い方だが――女性は当たりだったらしく、俺の希望であった安さと丈夫さ、そしてかわいさを真剣に考えて服を選んでくれていた。この服はどう? と訪ねてもわからないと答える彼女にも真摯に相対してくれる所をみるに、男にモテそうな性格をしている。

 十数分後、女子大生が選んだのは黒のオーバーニ―とタック入りのショートパンツ、ホワイトのシフォンフリル付プルオーバーの上からフリンジ付カーディガンを羽織ったものだった。……自分で言葉にしておいて何だけど、言葉だけだとどんな服かまったくわからない。


「……どう?」


 試着室で着替えた彼女が不安そうに問う。

 とりあえず言えることは、彼女のスタイルがとてもいいので、オーバーニーがとてもよく似合っているということだった。それにカーディガンもとても女性らしい。隣を歩いていたら鼻が天狗のように伸びるくらい、今の彼女は美人さんだった。

 服を選んだ女性に至ってはモデルに空港で出会ったファンのように彼女のことをほめていた。

 だから少し気恥ずかしかったが正直に似合ってる、と言葉にした。顔は意地でも赤面させなかった。

「そうか……」と彼女は安堵の息をはいて、「これを買う」と言った。しかし彼女に服を選んでくれた女性が待ったをかける。


「もっと他のも着てみませんか?」

「他の?」

「はい! スタイルもいいし他の洋服も似合いますよ! あ、後で一緒に帽子も見に行きましょうよ! さっきすごく似合いそうな帽子見つけたんです!」


 気がつけば遠慮もなく話しかけてきてくれる女性に彼女が困ったような顔をした。

 女性の提案に、伺うように俺を見る。俺は苦笑して、


「お好きなように。遠慮すんな」


 すると、まるで雲の切れ間から太陽が顔を出すように、彼女の表情が裏返った。三つ指突いたときの無垢な笑顔だった。

 その表情の変化には女子大生も驚いた。彼女はそんな女子大生の手を引いて、手当たり次第洋服をつかんではどうだと聞いている。

 俺に遠慮をしていたのかわからないが、心のつかえがとれたらしい。とても生き生きとした顔で服を選んでいる。

 この様子だとまだまだ時間がかかりそうだった。


 俺は彼女たちからいったん離れ、男物の服へと視線を走らせた。さすがに女連れとはいえ、彼女のいた経験もない俺が女性物の服に囲まれているのはなかなかに心理的ストレスがかかるものだった。

 多少心配ではある物のしばらくはあの女子大生に任せていても大丈夫だろうという判断もあった。

 なんとなく、今後ろの方にいるんだろうな、という奇妙な感覚を味わいながら俺は春物のパーカーに目を通す。

 さっと目を通すとおもむろにジッパーのついているパーカーに手を伸ばす。わりかしありがちなタータンチェックの紺のパーカーだ。見た感じちょっとお洒落なような気がしたので、今着ている赤いチェック柄のシャツを脱いで着てみる。

 ……若干袖が余った。最近の男は手が長いようで、俺の体型にはあっていないらしい。しょげつつも今度はその隣の少し小さいサイズのパーカーを取ってみる。そんなことを十度ほど繰り返した頃、


「それ、着てみるのか?」


 気がつけば後ろから彼女が手元をのぞいていた。


「さっきからその手の服を着たりしてるが……その形が好みなのか?」


 渡しておいたお金で買ったのか、両手には大きな袋を持っている。彼女はその袋をためらいも無く落とすと、近く似合ったフルジップパーカーをつかんだ。


「これなんてどうだろう?」


 そのパーカーは薄いオレンジ色で、胸の辺りをぐるっと一周するようにグリッド状の模様が入った物だった。手に触った感じかなり生地はしっかりしている。

 彼女は自信満々の顔で俺に押し付けた。

 が、俺個人としてはあまりセンスがよくないと思った。それは後ろでことの成り行きを見ていた女子大生も同じなのか、苦笑している。さて、なんて断ろうか。


「さぁ、さぁ!」


 自分がお勧めした服を着てほしいのか、俺が手に持っていた脱いだシャツを奪い取ると、パーカーのジッパーを渡してくる。この押しの強さには俺も諦めるしか無く、買うわけではない――これ以上服を買うのは家計的にダメージが大きすぎる――と、自分に言い聞かせてパーカーを着た。

 ここでサイズが合っていなかったならば断ることもできたのだが、成長性を期待してもいい程度のゆったり具合だった。


「ぴったりだ」

「あなたのサイズならどれだけ離れていてもちらりと見るだけで当ててみせるぞ」


 後ろにいた女子大生が居心地悪そうに肩をすくめた。

「あほ」と彼女の頭を軽くはたいて、パーカーを脱ごうとする。

 彼女はそれが嫌なのか、買おう、と肩を抑えた。ちろりと目を見れば、なるほど。諦めそうにない頑固な職人のような目をしている。ため息まじりに頷くしかない。

 買ってくるか、と俺が諦めたとき、彼女は何か考え事をしている。首を右に一回、左に一回、右にもう一回振った。


「……なにしてんの?」

「なにか色合いが足りない」

「生後一日のくせして生意気な」


 確かに黒のジーンズで中白Vネックのオレンジパーカーで派手ってわけでもない。しかし悪くもない。はず。

 彼女はせわしなく視線を巡らせ周りの服を見るが、どうにも納得がいかなかったらしい。わたわたと両手を上下に振った。


「……もういいか? 俺買ってくるぞ?」


 そういって彼女から赤いチェックシャツを受け取る。

 シャツを視界に入れた彼女の瞳が意外な物を見たように瞬いた。


「これだ! ここに私の納得があった!」


 朝の騒動のときのように彼女が素早く動いた。さっと俺の腰に手を回し、シャツを一周させた。止める間もなく彼女は俺の腰にシャツを巻いたのだ。

 オレンジ、白、赤、黒の色合いに歯車がかみ合ったような充足した顔で彼女は胸を張った。

 ……俺の姿をみて女子大生さんはコメントをひかえた。とだけ、この服装のセンスを語ろう。

 正直腰に巻くのはご遠慮したかったんだが、三歳児が自分の年齢を答えるときに似た表情を曇らせることは、なんだか熱い物に手を伸ばす感覚のようで、俺は口をつぐんだ。

 そして今日だけで財布から御引っ越ししてしまう人数にそっと涙した。





 ◇





 買い物を終えた帰り道。

 女子大生と分かれた後も買い物を続け、夕暮れが頬を染めるまで辺りを見て回っていた。

 パーカー色に染められた町、俺の隣では伸びた影がぴょんぴょんと跳ねている。よほど楽しかったのだろう。口元を柔らかくしながら、肩を弾ませている。

 楽しかったか? と聞かなくとも答えはあまり聡いとは言えない俺にもわかってしまった。


「楽しかったか?」


 それでも口に出してしまうのは、きっと仕方ないことだった。

 彼女は二歩、テンポよく前に進むと振り返って、ああ! と両手を広げた。


「楽しかった! これが楽しいってことなんだ! 私にもわかるくらい楽しかった!」

「このくらいでそんなに楽しそうな顔してちゃ、もっと楽しいことが起きたときが楽しみだ」


 なんとなく俺は照れくさくなって頬をかいた。


「そんなことがあるのか? 行こう!」

「ばか、今日はこれで終わりだよ」


 しょんぼりした彼女の横を通り過ぎる。彼女は慌てて振り返って、俺の隣を歩き始めた。彼女の方が少しだけ歩く速度が速くて、少し前に出るたび彼女は俺の方を見て合わせてくる。普通反対だろ、と俺は今日何度目かわからない苦笑を浮かべた。

 無言で歩く俺たちの足下に長い影が落ちる。

 見れば俺たちを横切るように老夫婦が歩いていた。思わず足を止めてしまう。

 彼らは一つの袋の取っ手を片方づつ持っていたのだ。朗らかに笑いあう彼らはとても夕暮れの町並みに似合っていた。

 気がつけば俺の片手が軽くなっていた。

 老夫婦を隣を歩いていた彼女も見ていたらしい。振り向いた俺と視線が合った瞬間、彼女の表情が変わる。

 今までの子供のような笑みではない。黒曜石の瞳に満天の星空のような優しさを秘めた笑みで俺に微笑んだ。


「きっとこれが優しい気持ちなんだろう?」


 質問という自答に、俺は否定の言葉を返さない。


「ふふ……不思議だ。私は今、あの部屋に帰りたいと思っている。どうだ?」

「……生後一日の癖に、生意気だ」

「あなたは子供のような人だな」


 お前には言われたくない。

 俺は足を速める。

 くすりと、彼女が笑い、しかし手は離さず俺たちは家路を急いだ。

 ……不思議とお互いに言葉は無かった。

 ただ隙間を埋めた袋が揺れる音が鼓膜をくすぐり、笑みがこぼれるだけだ。

 とても……とても優しい気持ちになれていた気がする。

 まだ一日ばかりしか一緒にいないのに、俺は不思議と彼女の存在を身近に感じていたのだ。それこそ遠く離れた母や父、姉と共にいたときのように。

 どうしてだろう、という疑問はすぐに解けていった。もう一度見つける必要はなさそうだ。


 夕暮れがもうすぐ沈む。

 けれどもう家は目と鼻の先だ。

 沈む前に、この色を視界に残したまま家の中に入れそうだった。そのために少し早めに歩こうか? とても魅力的な提案のような気がする。

 自然、俺は足を速めた。

 足を速めたことに無言の抗議が隣からあがった気がするけれど、気がするだけなので努めて無視。俺は家路を急ぐ。

 しかしすぐに速度を落とした。

 借り家の前、一人の男の影が長い道になって、俺の影とつながった。


「やぁ、初めまして」


 短髪の黒髪をなでつけた二枚目のその男は、縦線の入ったスーツを見事に着こなしている。やさしげな表情と赤いフレームの眼鏡が若さを感じさせた。

 年は二十七、八といったところだろう。まだ若さが見え隠れする声に、俺は眉をひそめた。

 ……誰だ?

 ちらりとも見覚えの無い顔だ。


「初めまして。え、っと。自分に何か用ですか?」


 俺は頭の後ろに手をやり、へこへことしながら彼に聞いてみた。

 一体全体どんな用だろう。…………などと戯けたことを考えるほど俺は馬鹿ではない。きっとそうなのだろう(・・・・・・・)と予想を付けて、彼に問いかけてみる。

 するとやはり、というべきだろうか。

 彼は微かに口角をつりあげ――不思議と優しげなイメージはくずれない笑みで、


「またまた、からかわないでくださいよ」


 頬が引きつったような気がした。

 そっと横目で彼女を流し見る。


「多分のこのことですよね」

「もちろん。……しかし、今回のことは私たちとしても予想外で……」

「……人の形を取ったことが、ですか?」

「……ええ」


 じろり、と彼女をみる彼に少し腹が立った。俺は一歩前にでて、


「失礼ですがお名前は?」

「これは失礼! 私は日本共同魔導師連盟の神谷と申します」


 彼は胸元から名刺を取り出すと、両手で丁寧に頭を下げながら差し出してきた。しぶしぶながら受け取る。

 さてはていったいどうするべきか。

 わかっていたとはいえ、あまりに唐突で、準備のないままに、俺は出会ってしまったらしい。


 魔導師。

 聞き間違えようもなく、彼は断言した。

 普通なら笑ってしまうその言葉を、俺は笑えない。聞き覚えがあるからだ。


――質問一! あなたは誰ですか!

――魔道書です。


 意識のなかった彼女は不思議な力を吹き出しながら、確かに言っていた。

 あの光景は決してまやかしではなかった。だから魔道書というものが実在しているのだということを、俺は有無を言わずに納得した。


 魔道書はこの世に確かに存在している。

 ならば魔道書を扱う魔導師がいたってなにもおかしくない。当然の帰結。

 ある日突然、魔道書を手に入れてしまった俺の目の前に、魔導師が現れることもまた……当然の出来事だということ。


 魔法――魔道と呼ぶべきかもしれないが、あえて魔法と呼ぶ――を扱えない俺にとって、魔導師が現れるということはあきらなか厄介ごとだ。

 なにせ魔法という存在が未だに広く知られていないのだから。

 冷や汗が神谷と名乗る男に見つからないことを祈りながら、俺は唇を開く。


「それで、具体的にはどんな御用ですか?」


 問いかけに神谷さんはだまりこんだ。

 ……なにか失敗したか?

 穏便に済んでくれと願う俺を、彼はただ黙って見ている。いとせぬ無言の空間が出来上がってしまった。

 第三者からみればにらみ合っているようにも感じるかもしれない。

 俺は穏便から不穏へと天秤が傾くのを恐れ、なにもできない。けれど、その空気を読み切れない生後一日が俺の袖を引っ張った。


「なぁ……あれはなんだ?」


 彼女は物の名前を問い、神谷さんを指差している。


「神谷さんだよ。あと人に指差すのはやめろよ」

「そんなことはわかってる。私はそんなに馬鹿じゃない。神谷の後ろだ」


 彼女の言葉に苛立が見え隠れした。

 ……そんなことより、その後ろ? 俺の視界には道路が延びているだけで、特になにもなかった。

 からかっているのか、と彼女を見るが、彼女は至って真剣だった。


「すぐそこにあるだろう。その赤色の蛇みたいなやつだ」

「は? そんなんどこに…………」


 蛇のようなものが神谷さんの背後にあるなら、いくらなんでも気がつく。だというのにそんなものどこにあるのか……

 再び目を凝らそうとした俺の耳に、


「おや、もしかして君……何も知らない(・・・・・・)?」


 あ、と思ったときは遅かった。

 彼は額に手を当てて空を仰いでいる。

 その何気ない仕草に俺はどうしようもない恐怖を感じた。

 彼自身の体から今までに無かった暗い、谷底の下から溢れる黒い風を見た気がした。


「困ったなぁ……そうなるとこっちの対応も変わってきちゃうんですよねーぇ。ほんと、どうしましょうか」


 それはおそらく、魔法を使えるならば見えるはずだったのだろう。

 事実、魔道書である彼女にはそれが見えていた。ずっと黙っていたのも、蛇のようなものをじっと見ていたからなのだ。


 俺にはそれが見えなかった。

 つまり、俺は彼の目の前で魔法が使えないことを、身を以て証明してしまったのだ。


「とりあえず、夜は用心してて置いた方がいいですよ?」


 そう言うと彼は俺に歩み寄り懐に手を入れた。思わず俺は一歩下がってしまう。

 彼は苦笑いをしながら、「別になにかしようってわけじゃありませんって」 と、懐から取り出した一枚の札を俺に手渡した。

 お札のような大きさで厚紙のように固い紙には、ふちを飾るような文様と、中心に形容しがたい絵が書いてあった。


「もしもの用心のためです。何かあれば、この紙を握りながら、『守れ』とでも叫んでください。守ってくれますから」

「はい? なにかってどんなことが起きる……んですか?」


 彼は、さぁ、とだけ答えた。

 さっきまでと、少しだけ印象が変わったような気がする。表面的な言葉も態度も変わっていないのに、どうしてだろう。背筋が伸びるような気配がする。

 ……多分、俺の反応は間違っちゃい無いのだろう。一般人は俺と同じことを思い、感じるはずだ。

 ただ隣にいる彼女もまた魔法扱うモノなのか、俺とは違い後ろにいるという蛇を興味深そうに見ているだけだった。


「私は対応が変わっちゃったので、上司の所に向かわなくちゃいけません。突然ですがこれで失礼させていただきますね。あ、これが私の連絡先です。なにかありましたら、連絡してください」


 まってくれ、という言葉があやうく口から飛び出そうになった。それを飲み込んで、俺は彼が背を向けるのを見るにとどまる。

 神谷と名乗った男が夕日の中にゆっくりと去っていく。

 俺は何かがこわくて、彼の背中が見えなくなるまでじっと見張っていた。


――夜は用心していた方がいいですよ?

――もしもの用心の為です。


 ……なんとも俺の不安を煽る男だ。

 彼が消えていった後も、心臓が不安定に音を打ち鳴らしている。

 ……どんな用だったのだろう。

 彼は一方的に現れ、一方的に納得し、一方的に去っていった。手元に残されたのは彼の名刺一枚と気味の悪い札だけ。

 そこから彼の目的を知ることはできそうになかった。


 いや、目的というものを考えるだけならば、そう。魔道書に用があったのだろう……とは想像できる。

 では魔道書にはいったいどんな用か……と考えたとき、具体的な話が思いつかないのだ。

 俺は今まで、あまり深く彼女のことを考えようとはしなかった。深く考えた結果、どうしても恐ろしい方向に物事を考えてしまいそうだったからだ。

 ここまでくると俺は彼女から逃避することは許されず、これからのことを熟孝しなければならない。


 密かにため息をついてから、ふと気がつく。

 隣で彼女はじっと俺の表情を眺めていたらしく、彼女の黒曜石の瞳が俺を見上げていた。

 俺は彼女の瞳を見ないよう明後日の方向を見ながら、家路を歩き出した。突然の一歩は彼女の手を裾から切り離し、同時に俺の口元から微かな安堵がもれてしまう。


 背後で、彼女が目をぱちくりと瞬いているような気がする。

 そんな彼女を置いていくように、俺はアパートの階段をのぼり、玄関の取っ手をつかんだ。

 横からはカンカンと階段を足が叩く音が聞こえる。彼女が階段を上っているのだろう。


 ……一瞬だけ。本当に一瞬だけ。

 このまま家に入って玄関を閉めてしまおうかと思った。

 さっきの魔導師は、あきらかに彼女が来たから現れた存在だ。

 だから今、俺のとこから彼女がいなくなってしまえば、俺はきっとこれから起こるかもしれない厄介ごとから解放されるだろう。


 ……だめだ。

 俺は首を横にふる。

 脳裏に、彼女が玄関の前で何時間も立ち尽くすのが容易に想像できた。


 開きそうになる手を抑え、俺は彼女が隣に来るのを待つ。

 彼女は急ぐこともなく、実にゆっくりした動きで俺の隣に立つ。


「先に行くのはあまりよくないことだとあの子が言っていたぞ」


 閉め出されるかもしれないとは欠片も考えていないに違いない。

 俺は顔に笑みを貼付けて、


「はっ、ベストオブベスト男ってのはな、女を置いていってなんぼなんだよ。女は着いてこいがデフォだ」


 彼女はそうか、と小さな微笑みを浮かべた。

 その笑みに、俺はなにか苦い物を感じて、それを我慢しつつも家の扉を開ける。


 ……神谷の言うもしもは、そのうち来るかもしれない。

 俺はそのときまでに知らなきゃいけないことがいくつもある。


 幸い今日はこれから家にずっとこもっていられる。

 彼女にはパソコンを使わせておけば、何時間も考えにふけられる。

 彼の目的。

 彼女の正体。

 魔法の存在。

 現状ではどうしようもないことも多いが、それでも考えないよりはマシだ。 ……と、頭では考えているのだが、さっきの出会いのせいで、どうしても俺の心はうつむいてしまっていた。それは家に踏み入れたときの声にも現れている。


「ただいまー」


 ぼそ、とつぶやくような声だった。

 いや、それでも言っただけマシだったか。一人暮らしになってまだ短い時間しか経っていないが、誰もいない家に声を張り上げる空しさを感じて、ここ数日は声にすら出していなかったのだから。


「お帰り」


 そんな俺に。いやそんな俺だから、後ろから聞こえた言葉に、俺は思わず振り返ってしまった。

 彼女は、勢いよく振り返った俺に驚いたような目をして、くすくすと笑った。


「ただいま」


 そしてそう言い返す。

 俺はしみどろになりながらも、「お、おかえり」となんとか返す。

 意図せず、俺は彼女の姿をじっと見ることになった。

 しかし、彼女がこの緊張を悟ることは無く、


「どどーーん!」


 と、俺の体を突き飛ばした。


「なにすんだ!」

「狭い玄関なんだ。はやく靴を脱いで部屋に入ってくれ」


 正論だった。

 俺は頬をかいてから家に上がって、手に持っていた食材を冷蔵庫の中に入れてゆく。

 対して、彼女は買った服をすぐに服の中から取り出して、部屋に並べていた。


「おいおい、どうせならちゃんとハンガーにかけないと。それとシャツとかはたたんで仕舞えって」

「どこに?」

「押し入れにから引き出しがあるから、そこにいれればいいって買うときに言ったのはお前だろうに」


 彼女は頷いて押し入れの引き出しを開けた。

 そのまま服をたたまずに引き出しの中にぶちこむ。適当に入れられ、買ったばかりの服がぐしゃぐしゃになっていく。


「いやいや、綺麗にいれろって!」

「ん? たたんであるぞ?」


 そういって彼女は一枚の洋服を取り出してみせるが、それはとてもたたんだものではなく、折りたたんだ服であった。だから引き出しに入れようとすると、ごちゃごちゃのまま入れているようにしか見えなかった。


「あーん、もう! 一回かせ!」


 彼女の手から洋服を全部取り上げる。そして服のたたみ方を目の前でやって教えてやる。


「ほう。なるほど。……しかしどうしてたたむんだ?」

「服がしわになるとかっこ悪いからだよ」

「かっこ悪いか?」


 その辺りの機微はわからないらしい。

 さっと、彼女が買った服をたたみ終えると、俺は台所へ戻った。

 とにかく気分を変えたかった。さっきから憂鬱でしかたない。なんでもいいから体を動かして気分を変えたい。


 そのときだった。

 背後から、からから、と窓を開ける音が聞こえた。


「――――――っ!」

「おおっ!」


 夕日が沈み切った空の冷たい風が頬をなでる。

 なにが、とは考えなかった。

 もしものことが起きたのだと、俺はすぐに直感したのだ。


 振り向きながら懐からもらった札を取り出す。不思議と腕に迷いはなかった。

 視線の先には、真っ黒な装束に身を包んだ人間が三人。不法侵入者だ。

 四肢が異様にほそく、腕が地面につくほど長い。その姿は生理的嫌悪を沸き立たせる。その異様な三人の姿に、俺はつばを飲み込んだ。どこからともなく現れた三人は、とても穏便な目的を持って窓からいらっしゃったお客さんには見えない。


「なーなーこれはなんなんだ!」


 彼女が喜色濃厚な声で叫んだ。

 それは服屋で見たことのない服を見たときのような、パソコンを初めて見たときのような、そんな声だった。

 人の家に見知らぬ誰かが押し入ってきた事実に及び腰になる俺とは全く反対の笑みすら浮かべている。


 あまりに場違いな声に反応したのか、先頭にいた黒装束が滑らかな動きで彼女へと飛びかかる。

 俺は咄嗟に彼女の手を引いた。後ろから体勢が崩された彼女は俺の胸にぶつかるように倒れ込む。かなり強引に引っ張ったが、謝る余裕は無い。

 わずかな時間の遅れを持って、黒装束の男の手が通り抜けた。細く折れてしまいそうな腕だというのに。側を通り過ぎた時の音は、コンクリート塊を振り回したときのよう。

 動物的本能が悲鳴を上げた。

 俺はあれに立ち向かってはいけない、と。

 

 彼女をつかむ腕とは反対の方向にもつ札をみる。

 ……一枚しか無い。しかし相手は三人いる。これでいったいどうしろと。


 この札を相手にぶつければいいのか。それとも手元に持ったままどうにかすればいいのか。

 少なくともぶつけるのは一人しか始末できなそうだ。いや、そもそもこれは一回しか使えないのか、それとも複数回使えるのか。使い方など一切知らされていないだけに、俺は三人の黒装束をにらみながらも動くことができない。

 どうする。どうする……


 家の中に入ってくるくらいだし、向こうはその手のことに慣れているんだろう、とすぐに推測できる。

 それを出し抜く方法なんて、とてもではないが考えられない。相手はいわばプロなのだから。

 焦る俺とは裏腹に、未だ目を輝かせている彼女の姿が、俺の心臓をさらに早くさせる。


 どうするか、答えも出せないまま、数秒。

 黒装束のやつらは、じりじりと間合いをつめる。

 ……だめだ、なにも考えつかない。

 ならば、


「だれか――っ……!」


 自分にできないのならば、他人に。

 この期に及んで俺は大声で助けを呼ぼうとした。

 けれど相手はそれに対する対処も相当に訓練されていたようだ。黒装束の一人が、なにやら札のようなものを俺に投げつけ、不思議なことに俺の口に張り付いた。

 ……声が、でない。


 とても叫べそうにはなかった。

 すぐさま方針を変化させ、彼女だけでも、と玄関に背中を押そうとする。

 しかしいつの間にか、玄関にも一人、黒装束がたたずんでいる。逃げ場はなかった。


 俺は彼女を自分の背中側に隠し、札を拳銃のように突き出した。これが精一杯の威嚇だった。

 けれど突き出された札は威嚇にもならず、恐怖心をあおるように黒装束たちはじりじりと近づいてくる。


 黒装束の一体の手元が動いた。

 手品のように指がするどい刃に早変わりする。まさかあれで斬り殺されるんだろうか。

 いやな考えほどよく当たるらしい。奴は刃を振り上げた。

 必然、俺の目は刃の先に集中する。電球の光に照らされた刃は異様に心胆を冷たくした。頭に血が足りないように感じる。

 そして振り上げられた刃は、当たり前のように振り下ろされた。


 ……死ぬんだろうか。

 死ぬんだろうな。


 なにせ魔法が世界に広まってないんだから。

 人の口に戸はかけられないのに、広まってないんだから。

 すぐにわかることだ。

 きっと、これまでずっと。


 魔導師たちは魔法を知ってしまった人間を殺して(・・・)きたのだ。

 だから広まらない。


 きっとこれもその一環。

 やけに手慣れているのも、そのため。


 殺されるんだろうな、俺。

 なんで殺されるんだろう。


 ……あーあ。


 俺の口からあきらめの吐息が漏れた。

 瞬間、世界は元の時間を刻み始めた。

 目にも留まらぬ刃は俺の肩口へと喰らいつき――――――


「――――――守れ!」


 背後から影が飛び出した。

 諦めた俺の腕から札を奪い取ると、黒装束の刃に正面から叩き付ける。刃に叩き付けられた札は瞬く間に強烈な光を放ち、視界を真っ白に染上げた。

 あっという間の出来事だった。


 汚れを知らない白百合のような光はなにか力があるのか、俺の肌に日焼けのような痛みをもたらす。しかしそれは人にとってで、黒装束にとってはまた違った効果があったらしい。

 溢れ出た光が収まった頃、恐る恐る俺が目を開くと、部屋には一人も残っていなかったのだ。口に付けられた札も消えていた。


「今の、何だったんだよ……」

「さぁ」


 つぶやきは風となって窓の外に流れていった。奴らを撃退した本人は、さしたる興味もなさそう。


「よくわからないが、これが魔法なんだろう?」


 肌寒いのが嫌なのか、彼女は窓を勢いよく閉めた。


「物理現象にしらばられない、摩訶不思議なことを起こすこと……が魔法なのだろう? 今の科学力ではあんな生き物を作り出すことはできないし、ただの紙をあんなに光らせることはできない。ならこの不思議なことをすべて魔法にくくれば問題解決だ」

「……ずいぶんあっさり言うんだな」


 彼女は首を傾げた。


「あっさりもなにもそれしかないだろう?」


 彼女は本当にそれ以外の言葉は考えていないようだった。

 ……俺は彼女と自分の間にある認識の違いに、血の気がひくような想いだ。

 今、殺されそうになったんだぞ……?

 家に勝手に入り込んできて、生理的嫌悪すら感じる形の生き物に襲われたんだ。

 どうしてあっさりとしていられようか。

 愕然とする俺をよそに、彼女は困ったような笑みを浮かべ、


「それよりもだ。私はさっきからおなかが、こう。くるくるしてるんだ」

「くるくる……? あ、ああ。多分おなかが減ってるんだろ」

「おなかが減っている? つまり――今からご飯か!」


 再び彼女の瞳に光が瞬いた。

 興味あります、と言いたげな瞳が俺に熱いまなざしを送っている。彼女は手に持っていた札を投げ捨て、俺の胸元にすりよると言っていいくらい近寄ってきて、


「なにを食べる? 何を食べるんだ? 私は初めてモノをたべるんだ! とても楽しみだ!」


 肩を弾ませている。

 俺は口をモゴモゴと何度か動かすも、


「おーけーおーけー、ちょっとコタツであったまりながら、まってろよ」


 俺は味わってしまった恐怖の味を心の底に沈め、初めて自分の家で誰かに料理を振る舞う、という機会に胸を躍らせることにした。

 買ってきた野菜を切って、買ってきておいたパンも耳を切り落とす。

 そして少し高かったものの奮発した鶏肉を焼いて、薄切りにしておく。


「さ、食うぞ!」


 大皿に載せた食材と、パンをコタツのうえに勢いよく置いた。がしゃんと大きな音がなるが、彼女は目の前の食材に目を輝かせ、気にした様子はない。

 箸の使い方はパソコンで見ていたのか、教えるまでもなかったようで、彼女はすぐにサンドイッチを作ると大口を開けて食らいついた。

 よく咀嚼し、噛み締め、くぅ〜〜、と頭を左右に振っているは、どうやら感動の動きらしい。俺も一口食べてみるが、いつも食べている物とそうかわりない。しかし彼女にはこれが初めての食事故の感動があるようで、俺の分も気にせず、延々口にサンドイッチを入れていった。

 よほど食事に感動したらしい。内心、そんなに一気に食べるとおなか痛くなるよ、と忠告しようかと思ったが、それもまた経験と思い口をつぐんだ。


 目の前で料理をおいしそうに食べる彼女はいたって普通に人間のようだ。

 しかし、俺は彼女の姿を視界に収めながら、こう思わざる終えないのだ。

 なんか胸の中にしこりがあるなぁ、と。





 ◇





 襲撃の次の日、俺は朝から近くのファミレスの前に立っていた。

 傍らに彼女はいない。魔道書は初めての二度寝の魔力に捕われ安眠中なのだ。俺も目の下に隈を作っている身なので二度寝したいところではあるが、人に会う約束をしていたのだと思うと遅れるわけにもいかない。


 これから会うのは昨日の夜に出会った神谷と名乗る男だ。

 昨日の夜に俺が連絡し、なるべく早くに会おうと約束したのだ。


 なぜ会うのか? という理由は言わずもがな。昨日の襲撃だ。

 どうして一日で俺の居場所がばれたのか。どうしていきなり襲ってきたのか。もう一度襲われたらどうすればいいのか。

 知らなければいけないことは多い。

 例え、いかにあの神谷という男が怪しくても、だ。


 考えてみれば、俺の居場所を知った彼がいなくなってから教われるまでの時間が短すぎる。個人的な見解ではあいつがやったんじゃないかと思うくらいだ。

 だから直接面を向かって会うのは危険だと思う。

 けれどそれ以外の方法で情報を得ることはできない。あいにく魔術師の知り合いはいないのだ。

 電話で教えてほしいといっても、直接会った方が早いと言われればそれまでだし。そこで電話を強調したら俺が怪しんでいることを知って、もう一度強硬手段を取ってくるかもしれないし。 ……あくまで彼が犯人だったときの場合だが。


 朝のファミレスに入るにしては過剰な緊張感に、つばを飲み込み、ドアを開けた。

 店員の挨拶をそこそこに見渡すと……いた。

 店内の端、窓側の席で、悠長に手を振っている。


「おはようございます」

「ああ、おはよう。 ……昨日はあんまりよく眠れなかったみたいだね」


 昨日の敬語は消え、年上のお兄さんのような柔和な笑みを浮かべていた。どうして口調が変わったのか内心で首をひねりながら、俺は彼の対面に座る。

 彼は手慣れた感じで、お冷やを運んできた店員にコーヒーとケーキを頼んだ。


「今日は僕のおごりだ。好きな物を注文してくれ」

「はぁ……じゃぁ、アイスティーとサンドイッチ的なものを」


 注文を受け取った店員が十分に離れたのを確認してから、彼は口元を隠すように肘をついて手を組んだ。

 俺が彼の一挙一動に細かく目を向けていると、警戒させちゃったかな、と苦笑いを浮かべた。


 警戒……していない。とは言い返せなかった。

 あのタイミングから、マッチポンプでもしているんじゃないのか、なんて考えが頭から無くならないのだ。

 魔導師という得体の知れないものに対する恐怖感も、ないとはいえない。

 個人的なことをいうならば、なるべく離れていたいのが本音で、彼はそんな俺の内心を読み取ったのか、


「単刀直入に話を進めたほうがいいかい? それとも、迂遠な話題提供のほうが好きかな?」

「……迂遠な話題提供じゃぁ、俺が着いていけないと思います。単刀直入に確信を話してから説明の方向で御願いします」


 早期に離れたいのはやまやまだが、簡潔すぎてわかった振りをしてしまうことが怖い。彼の提案を蹴って、俺にとってのベストを提案する。

 にっこりと笑って彼はぱっと手を離すと、ひらひらと振った。

 おそらく彼に取って、長かろうが短かろうが、どっちでもよかったのだろう。懐に手を入れて、何かを取り出す。長方形の……カードのようだ。なんのカードかはわからないが、彼はそれを机の上に置くと、


「――魔道書を譲ってほしい」


 俺がカードにピントを合わせると、有名な銀行の名前が書いてあった。


「ここに十億ある。足りなければこの倍は出そう。だから魔道書を譲ってほしい」


 はっと視線を上げる。彼の顔からは柔和な笑みが消え、鋭い目が眼鏡の奥で鈍い光を放っていた。

 十億なんて見たこともない金額にのどが干上がった。

 新手のどっきりだろうか。警戒しながら恐る恐る問う。


「……説明を聞いても、いいですか?」

「もちろん」


 鋭い瞳は姿を隠した。

 彼は一口、水を飲むと瞳を伏せ、それから自分の手を見た。


「まず話すべきことはあの魔道書の価値だろう」

「……十億の価値、ですよね」


 彼はその言葉に苦笑する。


「十億でその魔道書を譲ったと言ったら、世界中の魔導師に大笑いされるだろうね」


 それは釣り合わないということだろうか。

 十億では? それとも十億で? どちらの意味か彼の笑みからは判断できそうにない。


「あの魔道書がどんな魔道書なのかは知ってるかい?」

「確か……いろいろな魔法が記録されている魔道書……だったはず」


 彼女が起きたとき、確かそんなことをいっていたはずだ。

 彼は俺の答えに頷き、


「その通りだ。というか、魔道書というものは基本的にいくつかの魔法を記録した物なんだけれど……君の持つ魔道書は別格なのさ」


 彼は懐から出した紙に二つの■を描くと、片方に10と書いた。


「ものによりけりではあるけれど、これが普通の魔道書。そしてこっちが……」


 そしてもう片方の■の中に、8を横に倒したもの……つまり無限の記号を描いた。


「これが君の魔道書だ」

「……む、げん?」

「魔法が書かれた本を魔道書と呼ぶなら、あれほど魔道書という言葉にふさわしい本はどこにも無いよ。なにせ、あの魔道書は作られてから今までの、ありとあらゆる魔法が記されているんだから」

「だから価値が高い、と」

「あの魔道書はエジプト文明よりも以前に作られたらしいよ。そこまで古いと人間が認知している魔法のすべてどころか、失われた魔法さえも漏らさず書いてある。それこそ――神話の中の魔法すらも、ね」


 神話の魔法……というと、海を裂いたとか、天と地を分けた、とか。そういう明らかに物理法則をぶっちぎっているおとぎ話の現象のことをさしているのだろうか。

 想像を巡らせる俺をよそに、ちょうど店員が頼んでいた品物を持ってきた。彼は届いたチーズケーキを一口食べて、


「あれは君たち一般人にわかるように例えるなら……金銀パールにダイアモンド、レアメタルがざくざくとれる山脈の権利書……って感じかな」


 なんだそりゃ。

 それじゃぁ十億なんて安すぎるだろ。

 このときばかりは襲撃のことも忘れて、そんな値段で誰が売るか、と言いかけた。どうして言いかけてやめたのか。それは彼が含み笑いをしていたからだ。


「山脈の権利書に例えたのには訳がある。……もしも、だけど。今君が実際に山脈の権利書を持っていたらどうする? 十億で買い取るという申し出を断って、鉱石を掘り出すかい?」


 持っていたら……明らかに十億以上の価値があるとしたら、売らないで自分で掘り出すだろう。

 考えればすぐに売らない方が最終的な利益が大きいとわかるんだから。


 だが……それは本当なのか?

 例えば、掘ることはできるが俺は掘った物が何なのかわからないし、ダイヤを掘ったとしてもそれを高値で売る方法を知らない。

 そもそも……十億以上の利益を出すほどの掘り方も知らない。


「気がついてくれたと思うけど、君にはその山脈をどうにかする力がない。掘ったとしてもそれを売る場所も、錬磨する方法も、掘る方法もない。……いくら山脈に内蔵されていても、君がそれを掘り出せないなら一銭の価値もない」

「……まってください。もしも山脈にあるというなら、自分で少しでも掘って、それを元手に掘る方法だってある。元手を作れば人を雇ってもいい。別にやりようはいくらでもあります」

「それは例えの話で、今君が持っているのは『魔道書』だよ。鉱石はやりようがあっても、魔道書の魔法をどうこうするのは君には不可能だ」


 彼はもう一度ケーキを食べて、コーヒーを飲んだ。

 コーヒーはおいしくなかったようで、眉をひそめた後に、そっと遠くに置いた。

 そんな仕草が、俺には余裕のある仕草に見える。


「すこし話は変わるけれど……君は野球をすることに資格はいると思うかい?」

「野球を?」

「そうだね、例えば……そう。草野球でもいいし、プロ野球でもいい。そこらの小学校でやってる手打でもいい。とにかく野球をやることに資格は必要だと思うかい?」

「資格が……というと車の免許のようなもの、ですか?」

「どちらかと言えば……才能、かな。後は、手が無ければいけない、とか、男でなくてはいけない、とか。後は何歳以上でないといけない、とかかな」

「……精々ルールを知っていれば誰でもやっていいと思いますけど」

「野球をやることに資格なんていらないってことかい?」

「やりたいなら……資格なんてなくてもできるじゃないですか」


 そういうと彼は再び口元に笑みを浮かべた。

 ただ、今までと違うのは愉悦の笑みではなく、暗い情念の笑みと呼ぶべき物だった。


「その通り。野球をするのに資格はいらない。才能の有無は関係なく、やりたいと思うのなら、野球をしていい。素晴らしい答えだ。だが――」



「――魔法は違う」



 その言葉は厳かに響いた。

 ごく自然につぶやかれた言葉が周囲の音をかき消し、まっさらな静寂を生み出す。まるで唐突に響いた銃声のようだ。

 いや、それは事実銃声だった。

 彼の言葉は俺の胸を打ち抜き、その言葉を癒えぬ傷として刻み込んだのだから。


「ただ楽しみたいという想いは理由にならない。できるということは資格にならない。それが魔法だ。魔法は才能のある人間だけ(・・)が扱うことのできるものなんだ」


 つぶやかれた言葉は、小さい。

 しかし俺が聞き逃すことは無い。自分に言い聞かせるような声であっても、彼の言葉には聞き逃せない重みがあった。

 俺は机の下で思わず拳を握りしめた。


「才能のある人間だけ(・・)、というのは、ずいぶんと迂遠な話題提供じゃないですね」

「すまない。僕の趣味だ。 ……しかしそうだね。もっと直接的にいうなら……いや、言わなくても君はわかっているんじゃないか? わざわざ『だけ(・・)』と強調したんだから」

「……俺に、魔法の才能はない、と?」


 よくわかったぞと言いたげな顔で、彼は指を華麗にならした。


「正確には適性がない、というべきだ」

「才能とは違うんですか?」

「才能とも呼べる、ということだよ」


 例えばの話だが、と彼は再び紙にいくつかの簡単な絵を描いた。一つは炎でもう一つは雷だった。


「雷の魔法と炎の魔法があるとする。この二つの魔法はどちらも同じだけの魔力を消費して同じくらいの難易度だとする。けれど雷の魔法を使える人間が、必ずしも炎の魔法を使えるとは限らない。これは純粋に、その魔法の属性に適性が有るか無いかという違いがあるからだ」


 絵に書かれた人間の下に棒グラフがかかれ、炎の棒が長く、雷の棒が短く書かれた。その他にもいくつかの棒がかかれるも、どの棒の長さもまちまちだった。この棒が適性を表しているようだ。


「適性は人それぞれだ。個数も適性の高さも人それぞれで、例外を除いて遺伝しない。だからこの個数が多いほど、もしくは適性が高いほど魔法使いの才能としては優秀なわけだ」

「たくさん使えて、使える魔法が強い方がいいってことですか?」

「学校でも得意科目がたくさんあるか、もしくは一つの科目に特化していたほうが優秀だと思われるだろう? それに似たことだよ」


 適性の話はだいたいわかった。彼が才能ではなく適性と言ったわけもわかった。だから、


「……俺にはその適性がほとんどない、というんですか?」

「完全にない人間はいない。けれど、君の適性はどれも低い。……正直にいうと日本人の平均を大きく下回っているね」


 申し訳なさそうに言った。

 なぜかその言葉が上からの目線で言われたようで、心がざわつくのを抑えられない。

 話をなるべく早く打ち切りたくて、俺はそれで? と結論を問いかけた。


「……結局、なにがいいたいんですか?」

「ようするに山脈の権利書も魔道書も――――どちらも君には価値がない、ということだよ。例えそれが巨万の富を生み出すものであったとしても」


 ……彼の話を信じるならば、認めざる終えない。

 俺には彼の言う通り、魔法の価値を正しく発揮することはできない。

 故に、魔道書は『宝の持ち腐れ』であるということを。

 ため息にならないように気をつけながら、俺は息をはいた。


「だから自分がもらいたい、と?」

「資源の有効活用だ。と、言いたいところだけど、これは君にも大きなメリットがあると僕は思っているよ」

「少なくとも十億もらえるということですか?」


 扱うことのできない魔道書では、俺は大きな価値を生み出すことができない。つまり価値は低い。

 その魔道書に十億だすという。……持っていても価値が無いのなら、十億もらった方が確かにいいのかもしれない。

 彼はもちろんそれもある、とつぶやいた後、瞳を刃の切っ先のように細く研ぎ、


「――命の保証、だよ」


 シャレにならないことを、シャレにならない目で言った。

 彼の話を信じるか信じないかはまだ、決めていなかった。しかしこの言葉だけは真実だと俺は悟った。 ――この言葉に一切の嘘は無い、と。


「さっきもいったけれど、その魔道書にはとてつもない価値がある。それを君は、誰もほしがらないと思うかい? それも警察ではまず捕らえられない魔法という殺害方法を持つ人種が」

「そ、れは。……まさか」


 それは咎められることがないということ。

 法が抑止とならないということ。

 欲望のままに動き、邪魔する物を容赦なく蹴落とせるということであり……


「想像の通りだ、といっておくよ」


 彼は俺の想像を肯定した。ならばそれは――


「――殺してでも奪い取る、なんて考えの奴がいるんですか?」

「君は一歳児の握る金塊をどうやって手に入れる? 損得を説明するかい?」


 それは少しおかしな例えのはずなのに、不思議と彼の目は俺を納得させてしまう。

 誰だって一歳児に懇切丁寧に説明なんてしない。しても意味がないからだ。だからその手を抑えて、奪い取ってしまう。

 それが普通のことだ。

 そして、魔法使いにとって使えない人間のものを手に入れるということはそういうことらしい。

 俺の適性の話を、金の話を信じなかったのだとしても、魔法が存在することは魔道書のことを考えるに真実だ。そして俺が魔法を使えないのもまた真実だ。

 だから、思わず背筋を振るわせた。

 なぜなら、


「僕もまた、魔法使いだ」


 俺から奪うことだってできるということだから。


「……十億なんて魔道書があればすぐに取り返せるとは思うけれど、別に払わなくても手に入れられるんだ。……なにがいいたいかわかるかい?」

「……十億は神谷さんなりのやさしさ、ですか?」


 彼は一転して明るい笑みを浮かべると、席をたった。


「どうすればいいかもわかるだろう。行こうか」


 ……俺は。


「あの……!」


 彼の言うことの意味がわかっていた。けれど、それでも、


「……一日……考えさせて……もらえませんか?」





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