一緒にいたい……
「ん……」
寒い。
そう感じて、身体を起こせば、柔らかな日差しが身体を貫いていた。
少女は身の丈の何倍もの大きさのベッドの上で身じろぎをする。
背中を丸めて眠りについていた華奢な身体は、動かせば少し軋んで痛みを覚え、眉をひそめ身を起こしながら、少女は眠たげに瞼をこすった。
ぼやけた視界に映るのは、日差しに彩られた寝室。
風に揺れるカーテンが光を引き寄せ、たなびく柔らかな影が僅かに絨毯の上に浮かぶ。
「……」
少女は光に吸い寄せられ、窓を見つめる、
揺れる長いレースカーテン。
開いた窓の向こうには青空。
そして広大な湖。一体を覆う山々。
沈む青い月が大きく蒼穹に融けて霞みながら、そびえる山の頂から顔を覗かせていて、光が眩く大地を照らし、水面を煌めかせる。
それはまるで宝石を湖上にばら撒いたよう。
その輝きが、少女の紅い瞳に映って、眠りから目覚めた心を穏やかにした。
風の足音が聞こえる。
遊びたい。
心が躍り、吸い寄せられるように、少女はその爪先を絨毯に這わせるように床に足をおろして、大きなベッドからフワリと飛び降りた。
ギュッと胸を掻きむしる。
柔らかな風にピンクのキャミソールが揺れる。
少女は長いウェーブのかかった金色の髪を日差しの下になびかせ、風に引っ張られるようにたどたどしい足取りで窓辺に向かう。
レースのカーテンを押しのけ、手を伸ばす。
溢れる光を掴もうと、掌を広げる。
紅い瞳を見開き、テラスに一歩を踏み出す――――
「……」
――――ミィア。
「……お兄様……」
――――ミィア。明日は、隣国の和平交渉に行くよ。これが成功すればァンド―ルも平和になる。
「お兄様……お兄様……」
――――これで、みんな幸せに生きられる。
「お兄様、私もッ」
――――ミィア。必ずお前を。
「お兄ちゃんッ」
声が部屋中に響き渡る。
反響が後ろから響く。
はっとなって後ろを振り返れば、そこには広々とした少女の寝室があった。家具や寝具などが置かれた約百メートル四方の広大な空間が見開く少女の眼に映った。
誰もいない。
一人だけ。
薄暗い部屋に誰もいない。
長い影が伸びるだけ。
「あ……あ……」
少女はその場にへたり込む。
痛い。
胸の奥が突き刺さるように痛くて、少女はギュッと胸を両手で押さえて掻きむしって身体を丸める。
身体が寒い。
痛みは断続的に襲ってくる。止まらなくて、少女は大粒の涙を浮かべ痛みに眼をきつく閉じながら、祈るように顔を伏せて胸元に爪を食い込ませる。
(兄様……兄様……私……一人だよ……ずっと一人だよ……)
震えが止まらない。
(お兄ちゃん……お兄ちゃん……寂しいよ……怖いよ)
絨毯が涙で滲む。
(一人はヤダよ……一人にしちゃやだよ。守って、助けて……ずっと私のそばにいて……どこにも行かないで)
怖い。
(お兄ちゃん……)
意識が闇の底に吸い込まれる――――
「わ、わかってるって! 何度も言うなって、覚えてる覚えてる!」
――――声。
「いったぁい! 殴ったね、いや親父には何度も殴られてるけど殴ったねッ!」
――――聞き覚えの少ない声。
「いやいやいや、その拳はどう考えても顔がへしゃげますやんッ。やめましょう、暴力反対、お姫様泣きますよ。そんな潰れたあんパンみたいな顔なったらお嬢様泣きますよ?」
だけど――――
「……」
「ほげぇ! 腹パンですかぁ! やめて吐しゃ物出ちゃう、昨日から何も食べてないけどご飯出ちゃうぅ!」
「……ソウマ」
―――――懐かしい声。
少女はふらつく足で立ち上がる。
涙をぬぐい、鼻をすすり、胸に食い込ませていた手を下ろす。
風がウェーブのかかった長い金髪が揺れて、耳を掠めていく。
行こう。
光の風がそう囁いて、少女の身体を押す。
少女は少し息を切らして、目の前の扉へと駆け背を伸ばして、爪先立ちになって手を伸ばす。
恐る恐るノブを回す。
開く扉の隙間から、景色を覗きこむ――――
「おっと」
「ソウマ……」
そこには青年が一人立っていた。
黒い瞳。
すらりと伸びた背丈。服は父の執事のフェルトナと同じく黒いチョッキに白いワイシャツ、黒いズボンでネクタイは紅く、黒い革の手袋が手にはめ込まれていた。
扉の隙間から漏れだす風に揺れる黒い髪。
表情は少し緊張気味に微笑み、手袋をはずしながら、頬の赤らむ少女を見つめる。
そしてそっと惚ける少女の長い金髪を撫でる―――――
「おはよう、ミィア」
「……」
その手は暖かった。
ミィアは撫でられながら、少し俯きがちにコクリと口をつぐんだまま、躊躇いがちに頷く。
その仕草に、ソウマは微笑む。
「今日も、天気がいいな」
「ソウマ……」
「よく眠れたか? 俺はあまり眠れなかった」
「ソウマ……ソウマッ……」
「ん」
「あ……あの……」
「ん」
「このだらずがぁ!」
「げぼぉおお!」
飛んでくる鋭く重たい回し蹴りが頬に直撃し、吹き飛ぶソウマ。
その距離約二十メートル。ソウマの身体はまるでゴムボールの如く、軽々と吹き飛び地面にバウンドし、そのままうつぶせになる。
「いでぇ……」
「あほかキサマはぁ! お嬢様に! 挨拶をするときはぁああ!」
「……」
「膝をついて頭を撫でて頬をペロペロしておはようございますお嬢様ペロペロするんじゃぼけなすがぁああああああああ!」
「最後はあんたの趣味でしょうがぁ!」
「やかましぃいいい!」
「……」
きょとんとするミィアをよそに、傍に立っていたミルドレッド・ガウェインは、まるで獣のごとく四つん這いになって駆けだすと、よろよろと起き上がるソウマに飛びかかった。
「これからたっぷり教育しちゃるけんのぉおおおおおお!」
「ひぃいいいいい! 襲われるぅうううう!」
―――――少女は胸を掻きむしる。
そして少しだけ唇を開く。
「……やめて」
「はぃいいいいい!」
ムササビの如く空中で手足を広げたまま、飛びかかろうとしたミルドレッドは空中で静止するち、そう叫んで首だけ後ろに回してミィアのじっと見つめる視線に顔をこわばらせた。
その様は、鋲で壁に貼り付けられた昆虫の如く。
ソウマはよろよろと立ちあがりながら、苦い表情を浮かべて、股を広げて空中で固定される女から眼をそむけた。
「見たくないものが見えた……」
「ソウマ……」
「おう。とりあえずちょっと待って眼に汚物が映ったから今拭いてる」
「私のパンツを汚物扱いとなッ!」
「いいから黙ってそこで待ってなさいよぉ!」
「……」
「ったく……こうすればいいのか?」
そう言って、ソウマは再びミィアの下へと歩み寄ると、絨毯の上に片膝を折り、惚ける彼女の顔を覗きこんだ。そして、少しだけ照れくさそうに笑う。
そっとその長い髪を撫でて囁く。
「もう一度――――おはよう。ミィア」
「―――お」
「ん」
「……お、おはよう」
声を出すのも精一杯
だけど、ミィアは顔を真っ赤にして、眼を見開くと唇を震わせそう囁いた。
ソウマは微笑んだ。
その優しい瞳はほんのりと紅く、ミィアは吸い寄せられるように両手を首筋に伸ばし彼の肩に顔をうずめる。
ギュッと抱きつく。
心臓の音が聞こえる――――
「ソウマ……」
「寒いだろう。着替えを持ってきてやるから。中で待っていてくれ」
「やだ……」
「ミィア……」
「一緒がいい……傍にいて……」
「わがままな……」
「命令……」
「あいよ、お嬢様。行こうか」
――――そっと持ち上げる感触は変わらなかった。
顔立ちは違った。
背丈も少し違う。髪型も髪の色も、肌の色も何もかも違う。
だけど匂いが一緒だった。
太陽の匂い。
樹の匂い。
夜の匂い。
そして心臓の鼓動。
そっと抱きかかえられて、顔をたった一人の執事の肩に頬をすりよせながら、いろんなことがわかって、ミィアはギュッと彼の背中に手を這わせて爪を立てた。
「……」
「いたた」
「……。痛い?」
「おう」
「……やめない」
「そうかい」
「……うん」
そう呟いて唇を首筋に這わせて肌を舐めて牙を立てる。
いつもの仕草。
甘えるときの仕草。
ミィアは眠るように頬を肩に埋め眼を閉じると、かすかな心臓の音に身を傾けた。
何も変わらない。
いつも音が優しい闇の中で鼓動した。
「……。お嬢様、どうだった?」
「うむ。変わらずお綺麗だった」
「そうか。だったらそろそろそこから降りてこい、眼に汚物が入ってまた眼を洗わないといけない」
「ひどいものいいだにゃぁ」
「おっと手が滑ってナイフを投げてしまった」
「頭に的中させるとはさすがフェルトナ様」
頭部にナイフを突き刺したまま、ミルドレッドはゆっくりと絨毯の上に降り立つと、ミィアを抱えるソウマの背中を嶮しい表情で見つめていた。
その隣には、フェルトナ。
ミルドレッドの頭に刺さったナイフを引き抜きつつ、彼はこわばった表情は変わらず囁いた。
「姫様の容体はどうだ?」
「安定しています。あのままだと力を少しずつ彼の身体に移行させてもよいような気も。それとナイフ痛いです」
「そうだな。だが兄上様のこともある。事は慎重にな」
「はい」
そう言ってぱっくりと開いた額の傷痕を布で覆いつつ、ミルドレッドは嶮しい表情を崩さずフェルトナの横顔を見上げた。
「……後メイアの話だと。また少しずつ」
「それも彼にやらせる。身体も慣らさないと、いざというときに暴走されても困る」
「……。あの老体が関わっているとの話です。ローエングリンの眼がいなないています。森も騒がしい」
「あの死に損ないめ……ようやく出てきおったか。こっちに来るとは手間も省ける」
「どうします?」
「……。あやつが出てきたら、一応、ワシも出る」
「未練ですか?」
「他人事みたいに言うなガウェイン」
「……一つだけ」
「ん?」
「彼を選んだのは、兄上様に似ているからですか?」
「それを決めたのはミィア様だ」
「……」
「ただ直接ぶつかったワシの感想を言うのなら―――――強い、からだろうな」
「強い?」
「強いぞ。ワシのアレを任せてもいいくらいだ。今度出撃する機会あれば渡そうと思う」
「随分と熱の入れようですね」
そう言って微笑むミルドレッドに顔をそむけると、少し口を尖らせフェルトナは踵を返して歩き出した。
「安心はしている。今後は姫様の教育お世話、基本全て一任させるぞ」
「名残惜しいですが」
「行こう、仕事の時間だ」
「今日は何を?」
「農園作業。お前は適当にメイドに指示をしておけ。任せたぞミルドレッド・ガウェイン」
そう言うフェルトナの口ぶりは楽しそうで、その大きな背中を、ミルドレッドは困ったような、呆れたような笑みをにじませ見つめていた。