□7 裏切り
深夜。ヨウが枕にしていたリュックの奥で、水没したはずの携帯電話が、指定した時間にバイブレーションをはじめた。目覚まし機能を解除していなかったことを呪いながら、ヨウはうっすらと瞼を上げた。確か、昨日は午前3時半にアラームをセットしたはずだった。誰かがかけてくれていた毛布の中から、手を伸ばして携帯を探る。
複数の月に照らされて、すぐそこで黒い人影が中腰になっているのを見た。カリカが寝ていた場所だった。焚火はすっかり炎を失い、弱々しい赤光を放つ。その静かな熾火に、カリカの髪が照らされている。
人影は、すっと両手を頭上に掲げた。両手で握った短剣が、月光を反射してギラリと光った。
「おい!」ヨウは警告の叫びを発した。
すぐさま目覚めたカリカが、驚きに大きく喘いだ。短剣を持った人影は、ぎょっとした様子で素早く振り向いたが、すぐにヨウから視線を離し、短剣をカリカに振り下ろした。彼女は半身をひねって短剣をかわそうとしたが、防具がないカリカの肩を、鋼鉄の刃が切り裂いた。
「つっ」カリカの押し殺したうめき。
彼女は眠っているときも常に長剣を握っていた。その用心が役に立つのは一生に一度あるかないか、といったところだろう。その備えが役に立った。襲撃者の第2撃が、カリカの掲げる剣に触れ、ギャリ、と音を発した。カリカは間髪入れず襲撃者の足を薙ぎ払おうとするが、両断されたのは雑草だけだった。襲撃者は、剣の攻撃範囲外に着地してカリカと向き合い、その顔を月光が照らし出した。
カリカはカッと目を見開いて、すぐに落ち着きを取り戻し冷酷な表情を浮かべる。「なぜだ、トレンチ」
「クソ、だが、まあいい。全員始末してやる」大きなフードの影で、トレンチの口の片側が引きつったように吊り上っていた。素早い斬撃がカリカをかすめ、彼女は後ろに回避した。そして再び剣を油断なく構えた。彼女の肩に黒い染みが広がる。
ヨウはタオルで包んだ自分のグロックもどきを取り出した。ここ数年、大量に出回っているプラスチックを多用した武器。まるでオモチャの外見だが、装填された16発の銃弾は人を殺せる。
安全装置を外し銃口を上げ――生きた人間に銃口を向けるのを一時躊躇した。ヨウは生屍に向けて撃った経験もなかった。人間の形をしたものに、ホローポイント弾を喜んで打ち込むような趣味はなかったのだ。
自衛軍に徴兵される前、高校生の頃、何度かひどく壊れた生屍を目撃したことがあった。夜な夜な、生屍がうろつく郊外にくりだして、面白半分に生屍を射撃の的にする輩がいるのだ。喜び勇んで、もとは人間だった生屍を撃って歩く者が。世界が闇に覆われ、自分たちの奇怪な欲望が容易に叶う時代が訪れたことに、狂喜している変人たちだ。
躊躇していた時間は、ヨウにはとても長く感じられた。実際のところはほんの数秒だったが、そのわずかな時間でトレンチに異変が起きていた。トレンチが剣を持つ右手が蛍光を放ちはじめ、急激に発光が増した。トレンチは詠唱を終え、次のように魔術の呪文を結んだ。
「ディプティック!」「デフレクト!」トレンチとカリカの唱和が重なった。
光と熱の矢がトレンチの剣を離れ、カリカの直前でそれた。一拍おいて、遠くに火柱が立ち上る。地響きと衝撃波が数秒遅れで土ぼこりをまきあげた。トレンチの攻撃魔法は失敗した。
その様子を、自然に片手で顔をかばうようにしたヨウが目撃していた。ヨウの目の奥に、魔法の閃光が残像になって残った。
トレンチが舌打ちをして、再び呪文を唱えはじめた。
カリカが叫ぶ。「無駄だ」
構わずトレンチが攻撃魔法を放つ。「モノプティック!」
さっきのよりも一回り細いビームは、やはりカリカの結界に弾かれた。トレンチの額に汗が浮かんでいた。カリカも同様だったが、彼女のそれは刀傷によるものだったかもしれない。
「トラクトを補充する時間があるかな、トレンチ。お前の魔力量はわたしほどないだろう」
カリカの背後では、片膝を立てた格好でエリアスも呪文を唱え、シールドを展開した。もはやトレンチの側に奇襲効果は完全に失われた。
「くっ」彼は何も言わずに背中を向け、森の方に走り去った。
カリカの周囲を覆う球形の光輝が薄れ、続いてウォルカをブートする。デフレクトで消費した魔力を補っている暇はない。カリカは最短にまで圧縮した呪文を唱えると、ありったけの魔力量を投じ、攻撃魔法を放った。
「ディプティック!」
強烈な光輝が森の枝葉を照らし、葉の影が素早く地面をよぎった。そして、光輝が到達して葉は蒸発、数本の樹木が左右に倒れた。カリカは息を整え、魔力の感覚を研ぎ澄ます。彼女らは、トレンチの魔力をごく微かに感じた。どうやらヤツは逃げおおせたらしい。
「チッ、逃がしたか」そう言い放って、直後にカリカはその場に座りこんだ。
ヨウが駆け寄った。「血が出てますよ」
長袖のブラウスに、ゆっくりと広がる紅い染み。ヨウが彼女の肩に手を伸ばす。その手をカリカが遮った。「大丈夫だ。治癒魔法で治すっ」カリカはヨウに拒絶の身振りをした。
「そ、そうですか」ヨウは気圧され、手を引いた。
そのとき、彼の二の腕にエリアスがそっと触れた。驚いてエリアスの横顔を眺めると、彼女はヨウの目を見てしっかりと瞬きした。そしてヨウのわきを抜けて、カリカの横にしゃがんだ。
「あなた魔力がないじゃないですか。私が治癒させます」エリアスが手のひらをカリカの傷にかざした。
「エリアスも充分じゃないでしょ。自分のことは自分でできる」
「そう邪険に扱わないでよ。さあ、傷から手をよけて」エリアスは、カリカの瞳に視線を合わせて微笑みかけた。
今度はカリカも抵抗しなかった。カリカは小さく微笑んで、エリアスの求めに従った。