□52 地球
「嫌なら滅びろ」と言い放った千華のことを、エリアスとカリカは厳しい表情で睨む。
千華は他人の感情など全く気にかけてはいないようだった。おもむろに現在時刻を声に出して読み上げ、ニヤリとする。「ああ、もうそろそろ時間切れね。オムニ帝国はわたしたちのものよ」
もう太陽は南天にかかっている。天人による帝国への最後通牒の期限は過ぎていた。千華がどこからか棒状のものを取り出すと、鮮やかな立体映像が肩の高さにいきなり出現した。宙に浮く映像には、“スリミアから実況中”と、なんと日本語で記されていた。映像のスリミア上空には、大小の白い飛行物体が浮かぶ。青空をバックにしたその非現実的な光景は、ヨウにマグリットの絵画を連想させた。
いくつかの角度からの映像がせわしなく切り替わり、アナウンサーが早口でまくしたてる。「ついさきほど、5thEローカルのオムニ帝国が連邦への帰順を表明! どうするどうなる5thE世界の投資戦略っ。 先日“マルチワールド資産運用術決定版”の出版で超話題の、投資アグレッシヴァイザー、トーマス・金田さんにお話をうかがいます」
千華が「チャンネル4、11、16、34」と言うと、映像が分裂して幾つもの放送が映し出された。ニュース番組、教育番組。中には、帝国や謎めいたテクサカ、それにモンスター種族のことが面白おかしくパロディされている番組も見受けられた。
「5thEとの接触の模様は、地球連邦じゅうで大々的に報道されているの。新しい世界が手に入るたびに、地球連邦の経済はにわかに沸き立つものだから、今じゃ新世界への進出は、人類世界最大のイベントになった感じね」
ヨウの目に、光沢をはなつスチールと、ガラスでできた暖かみのない大都会が一瞬だけとまった。どこまでも続く市街。天を覆うホログラフィック広告。このようなスレた商業主義の極致にある文明がファンタジー世界に流入すれば、ここはいったいどうなってしまうのか。ヨウの胸に芽生えた不安が、みるみる膨れ上がる。奇妙な服装をした平行世界歴史学者や投資専門家とやらが、我先にがなりたてる早口のせいで、ヨウは頭に痛みを覚えた。
映像の一つには、ヒースの生い茂る斜面から、笑顔で手を振る三つ編みの少女が映っていた。カメラがズームして、質素な衣服を着た純朴そうなエルフ族の少女を映しだす。あんな子を、カメラの向こうにいる何百万人もの金に飢えたすれっからしの人々が見たのかと思うと、ヨウは背筋が寒くなった。
歴史は巡り、天地は変わるのが世の理だ。ヨウの故郷だってフィデスに蹂躙され、ある意味ではフィデスがもたらした苦境が、人類を早々と幼年期から卒業させてくれたのだろう。テクサカとの戦争によって変わらざるを得なかったオムニ帝国も同様、ヨウが端緒となった一連の変化によって、滅亡から免れることができた。その一方で、多くの望ましくない変質も、疑問を差し挟む余地もなく招いているのだろう。
だが、工業化に向けてリフトオフしつつある現在の帝国の雄姿は、皆が耐えた変化の苦しみの配当だ。個々人にとっては耐えかねるほどの悲劇が襲い、住み慣れた環境を追われても――苦しみの末にたどり着いた場所には、これまでとは異なる地平が広がっているだろう。より遠く、より高い場所はたぶん理想郷ではないけど、そこにはより大きな展望が開けているはずだ。
カリカがヨウの前に立ちはだかった。「故郷に帰るつもりか?」
エリアスがヨウの肘に触れた。切ない表情を浮かべている。「ヨウ、ご家族のところに帰るのですか? お願い、ヒレンブランドに――」言いかけて、エリアスは苦しげに喉を押さえ、言葉を飲み込んだ。
「はっきり言ってくれて構わない。ここで決めてくれ」とカリカ。
「僕は――」言いかけて、勝ち誇ったように明るい笑みを浮かべる千華に、ヨウは気づいた。兄が自分を裏切るなどと、夢にも思っていないのだ。妹の顔から笑みが去るのを見るのは、ヨウにとっても耐え難い苦痛だった。それでも、千華と一緒には行けない。
ヨウは決断した。「僕は、お前とは行かないよ、千華」
密かに恐れた通りに、千華の顔から笑みが消えた。「どういうことなの、ねえ、どういうこと?」
「千華、僕は地球に帰りたいと願ってきた。それなのに、帰ろうと努力していた世界そのものが、予期もせず、逆にこちらの世界にあふれてきた。驚いたよ」
「じゃあ良かったじゃない。帰れるのよ、懐かしい世界に。お兄とわたしの故郷でしょ」千華は頬を上気させ、まくしたてた。
ヨウは首を振る。「もう、僕たちがいた世界はどこにもないのだと思う。むしろ、僕のせいですっかり変わってしまったこの世界が――今では僕の故郷なんだ。ここまで自分の道を歩んでしまったんだから」
「そんな――」
「僕が転移してきてから、ずっと守ろうとしてきたこの世界、このファンタジックな世界を傷つけようと襲いかかる者がいるなら、それは僕の敵だよ。僕はここを守る。この選択が後悔すべき結果――デッドエンドに連なる分岐点だったとしても、それを後悔しない」
千華は、ばらばらの角度で奇怪に丸められた指を、ヨウの方に突き出した。苦しげに、ヨウを引き寄せるような仕草をする。そうするうちに、いきなり近寄った千華が、ヨウの耳元でささやいた。
「わたしを見て」
そのざらざらした低い声に、ヨウの心臓は飛び上がった。こんなひび割れた声が、千華の唇から流れ出したものだとは、信じられなかった。ヨウは妹を間近に見つめた。
千華がボディスーツの手首をさすると、スーツの上半身がパクリと割れ、力を失って千華の足下に落ちた。その下のインナースーツには、縦横に幾何学模様が浮き出していた。それがみるみる透明になる。
「なっ」ヨウは咄嗟に妹のささやかな膨らみを見てしまい、すぐに視線を外した。
「ここを、見て」
「馬鹿言え、そんなとこ見れるわけあるかあっ」
千華がヨウを捕まえようとして一歩踏み出すと、ヨウもそのぶん後ろに退がった。
「この傷――」
「傷?」それは茶色いかぎ裂きの傷だった。傷跡は、千華のへそから下腹部にかけて広がっていた。
ヨウは目を剥いて怒鳴るように言う。「どうした、その怪我!?」
千華は哀しげに微笑んだ。「わたしが軍隊に保護されたとき、わたしはまだ生屍だったの。どこで発見されたと思う?」
ヨウはゆっくりとぎこちなく首を振った。
「わからないでしょうね。わからない方がいい。わたしは――」千華の目がうるんでいた。「これを見ても、わたしを捨てるの? お兄にまた会えると信じて、もう一度家族になれると思って――」
ヨウは両手のこぶしを握った。爪がてのひらに食い込んで、皮膚を突き破る痛みが走った。「今でも家族だよ。だけど、一緒には行けない」ヨウは妹の瞳をのぞき込んだ。愛情を押し殺して、妹の傷に聖油をかける。「ごめんな、千華――僕を生きる理由にするのはやめて、お前はお前の人生を生きるんだ」
「ヨウ、それは余りに――」エリアスが口を開いた瞬間、千華の周りに火花が散った。ヨウが使えるのとは異なる方式のエンテレケイアが、再び呼び出されているのだ。
戦闘時反射機構が立ち上がり、ヨウは電光石火で腕を引き戻した。次の瞬間、ヨウはシールドで千華と自分の間を断ち切った。ほぼ同時に、千華もシールドを張る。同じ純粋科学の基盤から成立した、異なる方式のシールドが、干渉し合ってブルブルと音を放つ。
エリアスとカリカはといえば、水あめのような自然の時間経過に閉じ込められて、状況の変化を徐々に察知しはじめたところらしい。驚愕の表情をゆっくりと形作っているところだった。
シールド表面の揺らぎの向こうで、千華は素早くボディスーツから球形の何かを取り上げ、掲げ持った。くぐもってはいるが、千華の声が届く。
(これが何だかわかる?)
呆けていたはずのサインが身を乗り出して、不明瞭に歪む球を睨んだ。「あれは――まさか」
千華は唇を歪め、激しい口調で言った。(サイン、あんたが探していたのはこれじゃない?)
サインがあえぐ。(それ、アルトゥリ・ムンディの制御装置!)
(ご名答。わたしがあの施設に潜入したとき、頂戴したの。すごいでしょ、アハハ)千華は首を反らして笑った。(異星技術将校としては処刑モノの犯罪ね。別にいいでしょ、わたしは地球連邦軍人だけど、別に軍に恩義があるわけじゃない。軍を利用していただけだもの)
「待て、聞くんだ、アルトゥリ・ムンディは危険な装置だ。巨大なエネルギー――」
(わかってるわよ! 恒星からエネルギーを抽出する装置だということくらい知ってる。あれの技術データを2ndEに持って帰ったら、成功に飢えた科学者の群れが1個師団も、涎を流して食いついてくるでしょうよ。でもそんなことはどうでもいい。タップはわたしたちの墓標になるんだから)
「どういうことだ千華。お前――」
(わたしこうなるのを恐れていた。お兄が見つからないことがじゃない。やっと見つけたお兄に、ゴミのように捨てられちまうのが怖かった。こんな日がくるなら、くるくらいなら、捨てられる前に――)
ヨウは許しを請うかのように腕を広げた。「お前を捨ててなんかいないだろう!」
千華が切り返す。(なら、わたしと来てくれるの?)
「いや、それとこれとは――」
千華は唇を固く結んで、小さく首を振った。(交渉決裂。じゃあね。わたしの…………お兄ちゃん)
「待ってくれ、千華!」
(タップ、全力稼動)千華が手にする球がかすかに震えた。
昼の月たちは、夜に比べれば色も薄く、儚い。千華の背後にかかる月の一つから、安息日に見たのと同じ、白い靄の翼が開いていた。
サインが息を呑む気配が伝わる。「まずい、もう冷却ガスが放出されている。ヨウ、アルトゥリ・ムンディは、太陽から大量のエネルギーをワームトランスしている。もしアルトゥリ・ムンディを暴走させたら、一瞬で――」
サインは最後まで喋ることができなかった。青空に閃光が走ったからだ。