□5 新しい月
記憶にない事柄を延々と指摘されたけれども、どうにも納得できない。でも「そんなこと知らない」と断言するには妙に心当たりがある。そのようなもどかしい記憶の狂乱に、ヨウは見舞われていた。
「ぐぁぁぁぁ、熱い」背骨の中を、熱い塊が脈打ちながら頭に達して跳ね返り、こんどは手足の先まで這い降りる。「いったい……何をした」頭の中に無数の笑顔、怒り、悲しみの表情がフラッシュバックしてゆく。
――あれ、僕は都立立川高校に通う学生で農民、弟や妹たちが冬を越せるだけの小麦を……戦時下につき5月21日で無期限休校に……売られる日、最後の昼食を泣きながら食べる弟たちを……はい、父は一昨年他界しましたので保証人には叔父が……汚らしい平民にはもったいないほどの……奇病は全世界に広まりを見せつつあり防衛省は自衛軍の出動を……ここは誰で僕はどこだ?
目を大きく見開いて、ヨウはエリアスを見上げた。「何を……した」ヨウはたどたどしく言った。頭の中を渦巻く記憶の洪水に逆らって、言葉を紡ぐのがひどく難しかったからだ。なぜか、自分が喋っている言葉が、正しいという確信がもてなかった。
「よかった、ちゃんと喋れますね」エリアスが笑顔で日本語を喋った。
ヨウのぼんやりとした表情が引き締まる。
――え、日本語? 本当に日本語だったか?
どうもはっきりしなかった。耳が受け取った彼女の言葉に意識を集中すると、それは無意味な音の集合のようにも思えたが、ヨウの頭の中で、その音の集合は理解可能な言葉に翻訳されていた。
「翻訳用のトラクトを使ったの。言葉、もうわかりますよね?」
「え、ええ」ヨウはあいまいに同意する。「僕に何をしたんですか。それよりここはどこです?」
エリアスが頭を傾けると、さらさらの長い髪が波打った。「どこって、ヒレンブランド領から西に60トエル以上離れたアクターボよ」
「ヒレンブランド? アクターボ?」
言葉はわかるが、聞き覚えのない名詞がいくつも混じっていた。それらの単語は、漠然とした像をヨウの脳裏に結ばせたが、具体的に何なのかという点まで明らかにしてはくれなかった。とりあえず単語を記憶して、気になっていることを先に尋ねた。
「千華という女の子を見ませんでしたか? 僕と一緒に居た子です」
ヨウに向かって全員が怪訝な表情を浮かべる。「お前だけしかいないぜ」とトレンチが代表して答えた。
次いで、エリアスもヨウを失望させることを言った。「あなたが湖の上に現れたとき、他には誰もいなかったと思います。そうよね、カリカ」
カリカはうなづく。
「そんな。じゃあ千華は……」ヨウは黙りこくった。千華はここに来れなかったんだ。その事実だけが、頭の中をぐるぐると駆け回る。
石のような沈黙を破り、エリアスがためらいがちに、何か言葉を口にしかけた。「あなたは、もしや――」
その瞬間、エリアスに代わり、厳しい目つきのカリカが質問――いや、尋問した。「お前どこから来た。なぜ言葉を話せなかった。答えろ」
ヨウはそんなカリカの顔を、心ここにあらずといった様子で眺めた。そして、カリカの背後の夜空で、小さな光の円盤が光を放つのに心を引かれた。赤い髪の上にひっかかった綿毛のごとく、それは異彩を放っている。「……あの月の右下にある小さいやつ、なんですか」
「はあ? 小さいやつって、凍月のことか? 冗談だろお前、知らないのか? 大月を挟んで反対側の上にある赤っぽいのが重月。ここから見えるのはあの3つだけだ。時に現れる極月を除けばな」
「月……」ヨウは絶句した。「月が3つも?」
カリカが不機嫌そうに喉の奥でうなった。「当たり前だ。質問に答えろ。お前はどこから来た」
「どこって、日本だけど。いや、まさか。念のために確認したいんですけど、今年って何年でしたっけ」
顔を見合わせるヨウ以外の面々。「もちろん3776年ですけど。オムニ歴で」とエリアスは不思議そうに、だが身を乗り出して言った。なぜか彼女の表情に、歓喜に近い感情が表れていた。
カリカは挑発的だ。「そしてここはオムニ氏族連合帝国。お前が言うニッポンというのはどこだ。ニッポン族なんて聞いたこともない。帝国標準語を話せないほどのド田舎にでも生息しているのかな、ボク?」
「うーん、どうにも説明できないですけど。こういうシチュはアニメでは見たことあるんだけどな。こう言ったら信じてくれますか。あなた方の世界とは違う世界らか来ました――」口に出して言うと恥ずかしい、というかなんだか怖かった。冗談めかして、予防線じみたものを張る。「――なんちゃって」
「……何言ってるんだお前」と氷の視線をぐさぐさ突き刺してくるカリカ。
一方、エリアスは目を見開いてヨウの顔を見つめていた。