□36 バードガース
盛夏の頃、いくらか減ったとはいえ、少なくとも70万の兵力で帝国領に侵入したテクサカ軍。それに対峙する帝国軍歩兵連隊は、書類上は新旧織り交ぜた271個連隊を数えたが、実質的には80個連隊程度しか実戦に投入できない状況だった。しかもほとんどは農機具を武器代わりにした民兵レベルの連隊に過ぎず、ひどい準備不足と定員割れ状態にあった。
この程度の、テクサカに圧倒的に劣る戦力で正面から野戦を挑むのは無理がある。しかも、帝国軍には魔術師や将校が絶望的に不足していた。壮健な若者の多くは先の戦いで失われ、帝国各地で徴募されつつあったのは、どう見ても二軍落ちの人材ばかりだった。
唯一、帝国軍に見るべきものがあるとすれば、それはメトセラ処置を受けた老軍人が、ドゥーガルの敗戦処理の過程で軍行政系統や指揮系統からパージされたことだ。逆に、今までは冷や飯を食らわされてきた、変り者だが優秀な平民出身の将校や若手将校が、表舞台に立つ条件が整ったのだ。
再編された帝国軍総司令部は、かつての官立軍学校や魔法学院の建物を、まるごと差し押さえて設立された。複数の異なる組織を横断して作られた、急ごしらえのあばら屋のようなものだった。
以前から軍の組織改革は急務とされてきたが、国の危機に直面して、宿願の組織改革が一挙に進んだのだ。来年卒業予定だった魔法学院の学生や、軍学校の若き貴族の子弟、城の軍組織中枢が一ヶ所に集中したことで、思わぬ複合効果が現れつつあった。これまでなら、「フェニックスならばそうはしない」「前例がないから」という理由で遠ざけられてきた作戦も、柔軟に活用されるようになった。
正面からの対決ではなく、密集して進撃するテクサカ軍からはぐれたモンスターを襲撃したり、テクサカ軍の補給路を断つ、といった作戦が立案された。しかしそれらの作戦が実際に着手されることはなかった。なぜなら突如として、帝国東部辺境アムール領を中心とする反乱軍が帝国各地に起ったからだ。
帝国東部 - アムール・ファンガレイ・シントロン
帝国南部 - ライオネル・カハール
帝国北部 - バードガース
他にも5領あまりが蜂起を計画していたようだが、計画に齟齬を来たし未遂に終わった。だが、蜂起に成功した6領だけでも由々しき問題だった。特に、辺境領東部タイル軍第1軍の集結拠点であったアムール領の造反は、6000名余りの歩兵がアムール領の支配下に落ちたことを意味していた。各地の帝国軍が反乱軍に戦力を割かれたそのとき、テクサカ軍は帝国西部国境を食い破った。帝国は、内乱と外敵という、2つの敵を相手にせざるを得なくなったのだ。
◆
バードガースは小領主だった。周辺領と合同で、やっと1個連隊を拠出できる程度の規模しかない。
この、とりたてて語るべき華々しい歴史もない小領が、今や帝国領に浮かぶ反乱軍の小島として、注目を浴びていた。それは帝国北部に刺さった棘のようなもの。なぜなら、1000人足らずの兵と市民が立て篭もるバードガース城下の包囲に、帝国軍4000名が拘束されたからだ。その数は、北部辺境領が拠出する帝国軍歩兵の1割以上に相当する数だ。
包囲する帝国軍が反乱軍の規模より薄ければ、反乱軍は城壁の外に展開し、野戦で帝国軍歩兵連隊を撃破するだろう。そうなれば、反乱軍は北部辺境領を荒らし放題にできる。反乱軍に篭城を決意させるには、帝国軍は4倍の兵数を用意するしかなかったのだ。
また、一般に軍事的には攻城戦は防御側の3倍以上の攻撃側兵力が必要といわれているが、帝国軍に攻城を成功させる力はない。
なぜなら、バードガースは先の侵攻作戦イウビレオにおいて、魔術師のかなりの部分を手元に残し、温存していたからだ。今のところバードガースを包囲する帝国軍は4倍の数的有優位にあるが、魔術戦力面の補正を加えれば、実質的な戦力差はそれほどないものと考えてよい。とてもではないが、攻城戦打って出られる戦力ではなかった。
北部タイル司令部の作戦立案に当たる職業軍人の将校たちは、頭を抱えていた。バードガース領包囲に4000、さらに北部辺境領に残置する治安部隊が最低でも3000。これだけで北部タイルが動員できる兵数の一割強が食いつぶされているのだ。
東部・南部辺境領はもっと情勢が悪く、ほとんど兵を拠出できないことを考えれば、実質的に帝国中央と北部だけが、戦力に貢献するのみ、という極めて心細い状況だった。ただでさえテクサカ軍の圧迫により右往左往していた帝国軍は、反乱によりさらに右往左往するはめになったわけだ。
帝国軍は西部国境において兵力を小出しにしては敗北し、徴兵をいくら厳しく実施しても、充分な兵力の蓄積ができないうちに優勢な敵に再び挑まれ敗北――という、負のスパイラルに落ちようとしていた。帝国はこのまま滅び去ってしまうのか? 極めてフェータルなこの局面で転機となったのが、帝国辺境領北部の安定化であった。
北部においては反乱の火の手は比較的小さく、当初から、他の地域に比べれば反乱軍征討は容易と考えられた。その反乱鎮圧における尖兵となったのが、北部辺境領屈指の大領主、ヒレンブランドが新たに編成した、ヒレンブランド第2連隊であった。実質的に歩兵連隊でしかない彼らが、どうやって城に篭る反乱軍を短時間で撃破できたのだろうか?
ヒレンブランド第2連隊の1200名を含む、4000の帝国包囲軍には、魔術師もろくにいない。それに対し、バードガース側には15人に1人の割合で魔術師がいる。帝国軍が、いかに数的に4倍量を擁するといえど、バードガースの優位は歴然としていた。
8月半ば。
暑い日が続いているために城内における伝染病の発生は危惧すべきレベルに達していたが、バードガース領主は過去半月の戦いにおいて、帝国軍4000を相手によく防戦していた。前年にバードガース領主となった新領主は、人心掌握術を心得ているらしい。氷結魔術を用い、人工の雪を降らせるパフォーマンスで、陰鬱になりがちな守備軍を楽しませたりもした。純軍事的な意味がないため利用されることが少ない、アコーミ系魔術のパゴマを、城の上空に放ったのだ。
バードガース守備軍は、近寄る帝国軍歩兵が城壁に手を触れる前に、モノプティックかサンダーで撃退できた。逆に帝国軍が遠方から及び腰の魔法攻撃を仕掛けたこともあったが、いかんせん命中率が悪く、しかも威力が足りず城壁を破壊することはできなかった。
このままでは、この方面も戦況がこう着状態に陥ってしまう。陰鬱な帝国軍とは対照的に、バードガース守備軍が希望を持ちはじめた頃、異変は起こった。
---あるバードガース兵の個人的戦闘記録---
8月14日。
敵連隊が一斉に後退した。当監視所からは視認できない。連中は何を企んでいる?
8月17日。
南方街道沿いのキマン教会の鐘楼から、オーレオールの夜間照射を受ける。敵襲なし。
8月18日。
敵の監視塔のようなものが西方のズニー丘陵で建設中。敵は長期戦を覚悟したのかもしれない。我が城壁から1トエル余り。木立で偽装されていたため、発見が遅れる。今日もサンダーの射撃音を確認、詳細確認の要ありと認む。
8月20日。
本日もサンダー射撃音がかすかに聞こえる。敵監視塔からサンダーを放っているようだ。何がしたいのか意味不明だ。サンダーはせいぜい数十エルしか届かないのに。我が魔法攻撃中隊が、監視塔にモノプティック攻撃を実施。距離があり過ぎて命中せず。木々の葉を焦がすだけに終わる。敵のサンダー射撃音はしばらくして復活。本当に何がしたいのだ。
8月24日。
気分が悪いと訴える兵が4人。監視位置間隔を再検討する。
8月27日。
城内の市民にも倒れる者が増える。体に赤い斑点が現れている者多数。部下の手首、顔にも赤い斑点が現れる。汗疹ではないようだ。アーマーで覆われている部分は斑点が少ない。とても奇妙。
8月29日。
何かがおかしい。体に水泡ができる者多数。私も唇に潰瘍ができる。部下の半数は立ち上がることもできない。魔術師の多くも同様。いま敵が攻めてきたら、有効に反撃できるか疑問。ひどく困る。
8月31日。
領主様のお姿を見た。いつも精力的に城壁に登って我々を励ましてくれる。心配なことに、領主様も赤い斑点が顔に散らばっていた。帝国軍が、治癒魔法も効かない疫病をバードガース城内に撒いたのだという言説が飛ぶ。メトセラ処置を受けている魔術師も多くが床に臥せっている。何が起きているのだろう。
数分おきに、遠雷のような敵のサンダー射撃音が聞こえる。何を狙って放たれているサンダーなのか、全くわからない。いつも、いつも、聞こえる。もう聞きたくない。あれは、何か不吉な感じがする。
どうもこのところ一つのことに意識を集中できない。文字を書くのも一苦労だ。明日はペンを持てるだろうか……。
個人的戦闘記録はここで終わっている。
それから間もなくのこと。帝国包囲軍歩兵たちが、大挙してバードガース城に突撃していた。小さな市街を囲う城壁は、守る範囲が小さいぶん、極めて高く、頑丈に作られている。
歩兵の一隊が城壁にタッチしたが、以前はあれほど激しく防戦したバードガース兵の姿は見えない。攻撃魔法で城門を破る大音響が、地響きを伴って響いた。工兵が群れ集まり、水が張られた堀に橋を渡す。いま、ヒレンブランド連隊を中心とする北部タイル軍は勝利を手にしようとしていた。