□3 コスプレイヤー?
――気持ち悪い。
陽生は、半ば夢うつつで寝返りを打った。頭は痛いし、鼻の奥は更に痛い。子供の頃。風邪をひいたときに母が飲ませてくれた、生姜湯のピリッとした辛みと香りの記憶が、不意に蘇った。同時に、日本が、いや世界が平和だったあの時代を思い出す。なつかしさと自己憐憫の、発作的な感情がこみ上げてきた。自分がウツに落ちこんでしまうのを警戒して、歯をきつくかみしめることで、記憶を押し殺した。
心の底にわだかまる、怒り。生屍、平和の失速――フィデス。
フィデスのことは普段から考えないようにしていた。地獄の蓋が開いて、悪夢のような現実がこの世に溢れた。生屍が墓から蘇ってからは、かつての日常は余りに貴重なものになってしまった。普通に死ぬことすらも、この数ヶ月は贅沢と呼ばれるまでになっていた。ソワーと呼ばれる異星の細菌に体を乗っ取られ、寄生菌のネットワークが放出する化学物質に肉体を操られる生屍――ゾンビになってしまうことを、痺れるほどの恐怖と共に、生きている誰もが嫌悪していた。
「********」
――誰の声だろう、よく聞き取れない。
その話し言葉を理解しようと、雲のように不確かな意味に手を伸ばしても、それはひとすじの煙のように、指の間をすり抜けてしまう。それに、何かが普段の様子とは違っていた。ぼんやりした焦燥を感じてモゾモゾ身動きする。頬が外気に触れた。手に触れるのは毛布の肌触り、鼻腔をくすぐるのは埃っぽい匂い。陽生はまどろみから急激に浮上した。いままで嗅いだこともないような毛布の匂いに、違和感を感じたからだ。
目覚めると、夕暮れ時の野外にいた。
「********」
知らない男のくぐもった声が聞こえた。どうも耳がおかしいようだった。半身を起こし、頭を傾けて耳の水を抜いた。柔らかい感触に気づいて手元を見ると、見慣れない植物が手の下で潰れていて、青臭い香りが漂った。
そのとき、何かが動くのを視野の端に捉えた。心臓が跳ね上がり、押さえきれず喘ぎが漏れた。こみ上げる恐怖に背筋が凍る。もし、そこにいるのが生屍だったら――。
陽生から数歩はなれたところに一人、焚き火の向こうにもう一人、ゆらめく炎に男女が照らされている。緊迫した一瞬が過ぎ、陽生は胸をなで下ろした。彼らは明らかに知性ある人間の顔だった。顔の造りは日本人ではないが、それは珍しくもない。陽生でなくとも、外国人にはとうに慣れていた。ここ数年、ユーラシアや南米からの避難民が、島国であるがゆえに比較的安全な日本に押し寄せていたからだ。
日本各地で、自衛軍と米軍が共同でフィデスや生屍の脅威と向き合っている。逆に自衛軍も世界各地で国連軍の一員として戦っている。生屍の脅威を前にしとき、外見の違いなどは瑣末な相違だ。人種や国籍の違いも二義的な問題に過ぎない。外からの脅威が、人類をはじめて一つにしつつあったのだ。
「よかった……」
心底からの安堵で体から力が抜けそうになる。生屍に噛まれたり、連中の体液が人間の血液に一滴でも侵入したら、もうおしまいだ。もう何年も、生屍に怯える日々が続いていた。陽生も含め、誰もが絶え間ない緊張の中で生きていた。
ふいに叔父と研究所での記憶が蘇った。フィデス製の機械に囲まれた、異質な実験室。風に乗って野の草が揺れる、この美しい場所が現実なら、あの場所は悪夢そのものだった。
――夢、だったのか?
陽生は、まさしく夢のような想いをもてあそんでみた。焚き火の揺らめく炎を眺め、重たく静寂を包んだ空気にパチパチはぜる音に耳を傾けていると、あの世界の方が夢だという考えが真実に思えた。研究所、生屍の群れに飲み込まれた叔父、そして――。
「そうだ千華、千華が」
そばにいる茶色の髪をした細面の男が、困ったように眉をしかめ、数語喋った。男の言葉はまったく理解できなかった。それに改めてよく見れば、変な格好をしている。
少し離れた場所に、蛍光を放つものを手にして女性が立っている。何かを呟いてそのボールを放ると、それはフラッシュして分裂し、頭上を飛び越え、いくつもの光の矢となって消えた。
「うわっ」
そんな展開を予期していなかった陽生は、閃光に驚きの声をあげた。瞬きして、まぶたの裏に刻まれた紫の残像を追い払おうと試みる。同時に、目撃したものの正体を理解しようとする。
――新型の閃光手榴弾? 米軍がフィデスどもから奪ったテクノロジーで、また何か作ったのか?
一方、光の矢を放った女にとっては、これはごく当たり前の作業だったらしい。落ち着いた動作で両手をパンパンと打ち鳴らした。彼女は近づきざま、陽生に厳しい声音で何事か言ったが、理解できない。
非日常的な焚き火の明りには、電気の明りにはない外見のプラス補正効果でもあるのだろうか……そういう心理効果はありそうなことだ。すっごい美人のエキゾチックな雰囲気香るお姉さんが、そこにはいた。歳は僕より少し上か、と推定する。彼女は豊かな赤毛を波打たせて、焚き火の前に座った。
――言葉がわからない。水中に落ちた時に記憶を失った?
まさか、と陽生はその考えを打ち消した。脳に損傷を受けるほど水中にいたとは思えない。
ふと、陽生が湖に視線を投げると、波もなく静かな湖面に何かが映っているのを目にした。それは、真っ暗になりつつある湖面に、ゆったりと波打ち映る月と――かなり小さめの、2つ目の月だった。陽生は息の呑み天をふり仰ぐ。するとそこには月齢9日目くらいのお馴染みの月。それはいい。もう一つ、月の斜め上にずっと小さな光の円盤が当然のように輝いていた。
呆然として目をこらす陽生に、柔和な感じの茶髪男が話しかけてきた。それが少なくとも英語ではないことは、混乱した頭でもわかった。焚き火のゆらめく暖かい光に照らされた少女(赤髪のお姉さんも美人だと思ったが、この子には“超”を冠するべきだった)も、小首をかしげて陽生を眺めている。
――ひょっとして、こいつらコスプレ集団なのか?
そういえば、こいつらの手元には、剣と防具のようなけばけばしい装備が積んであった。それらはオモチャというには余りにも質感が高い。ひょっとすると、社会人コスプレイヤーが結構な大金を投じているのかもしれなかった。
――戦時下の、このご時勢に? まさか。
もしそうなのだとしたら優雅なことだった。世界中の人口密集地帯に生屍が溢れている昨今、コスプレするほど余裕をかましている人間がいるとは驚きだった。陽生は軽く首を振り、日本語でたずねた。
「あのー、すいませんが、ここはどこですか」
反応はない。彼らはよく判らない言語を話すばかりだ。次に英語を試しても、やはり誰からも答えはなかった。赤髪のお姉さんは鋭い視線で陽生を観察しながら、二つ三つ金髪の少女と言葉を交わす。しばらく相談したのち、おもむろに金髪の少女は自分を指さし、「エ リ ア ス」と慎重に発音した。
どうも、この子はおっとり属性っぽいな、などと陽生は場違いな感想を抱く。それはそうと、このやりとりはファーストコンタクト物の小説によくあるシチュエーションだった。第三種接近遭遇、というやつ。まあ、フィデスと人類が接触してから10年以上を経た今となっては、ファースト・コンタクトなど苦々しい思い出に過ぎない。むしろトラウマだ。“進歩した宇宙人”に対する人類の幼い夢は、すっかり汚されてしまったわけだ。
それはそうと、エリアスは陽生の顔に視線を走らせて待っていた。
「ヨ ウ」自分の胸を指差し、陽生は答えた。
茶髪男も自己紹介する。「ト レ ン チ、****」
何か余計なことまで言っているようだ。ヨウはとりあえずトレンチ、と記憶した。
「カ リ カ」と赤髪のお姉さん。
かなり間を置いて、「ゲ ン ト」といかにも寡黙そうな角刈り太眉の男が名前を明かした。ゲントは背後の袋の中に大きな手を突っ込んでゴソゴソして、大きな三角形の金属筒を取り出した。彼はそれの内側に素早く白っぽいものをはりつけ、焚き火に乗せた。
三角形の頂点は円く穴が開いていて、やがてそこから良い香りが漂ってきた。彼は慣れた手つきで筒をひっくり返すと、彼は筒の内側からキツネ色に焼けたものを取り出した。
「コーン」とゲントがつぶやいた。
どうやら、この食べ物はコーンというらしい。良い香りに刺激されて、ヨウの腹がぐうぐう鳴る。
エリアスが口に運ぶ仕草をしていて、ヨウと目が合うと、彼女は控え目に微笑んだ。
――か、かわええ。
ヨウはたったそれだけのことで、エリアスのことを味方だと半ば信じた。食べるのをわずかでも躊躇して、彼女を信用していないと思われるのが嫌で、ヨウはコーンとかいう、どこかナンのような、ピザ生地にも似た見慣れぬ食物にかぶりついた。それは手のひらサイズに丸め上げられ、ハムがはさまれていた。いや、ハムではなかったかもしれないが、同等の何かだ。味はまあまあ、慌てて食べたものだから、喉につまる。
トレンチが苦笑しながら木のコップを差し出して、「ア ガー」とゆっくり発音した。ヨウはそれを飲み干す。トレンチは軽く笑い声をあげた。一方、カリカは不審そうにしているし、ゲントは考えが読めなかった。エリアスのことはよくわからない。可愛すぎて、ヨウにはとてもではないが直視できなかった。この世のものとは思えないくらいの美に直面すると、人は反射的にそれを神格化して、心の祭壇に祭り上げてしまうものらしい。
とりあえず、アガー=水。陽生はしっかりと頭に単語を刻み付けた。アクアではなくアガー。ラテン語で水のことをアクアという。これは偶然だろうか? この人たちはたぶん、インド=ヨーロッパ語族のどこかの出身なのだろう、とヨウは推測した。
頭の片隅で、天空の小さな月や、この奇妙な人たちの存在を説明できそうな仮説はないだろうか――そう思案しながらコーンを食べていると、ふと背筋に冷たいものを覚えて、背後を素早く振り返る。今までヨウが生屍から無事に逃れてこられたのも、幸運と、なにより気配に対する鋭敏さのおかげだ。いまでは世界中の誰もが持っているスキル、というか持ってなければ生き残れないスキル、というべきか。陽生はあぐらの状態から、一挙動で素早く立ち上がると、「生屍かもしれない。ここは危険だ」と皆に告げた。
ヨウに対する警戒を解きかけていたエリアスが、ビクリと身を震わせた。
その直後、白銀に輝く光の矢が宙に舞った。ちょうど陽生が振り向いた方向で。ヨウは本気で叫んだ。「逃げろ!」