□29 交戦
打ち鳴らされる銅鑼の音も、怒号のような突撃命令もなく、魔王直隷の2部隊は一斉に突撃を開始した。対する帝国軍までの距離は約3トエル。これは帝国軍の攻撃魔法の射程ぎりぎりの距離だ。これからは時間との競争になる。なぜなら、1秒でも早く帝国軍の隊列に斬りこまなければ、手も足も出せないまま、敵の放つ攻撃魔法で、テクサカ軍は一方的に撃ち減らされるからだ。
一方、高台から戦場を見下ろす位置にある帝国軍司令部からは、矢継ぎ早に伝令兵が出入りする。軍用の折りたたみ机を縫うように走る彼らの多くは、少年といってよい年齢だ。
また、司令部の天幕の片隅に設置された三角形の“祈りの座”で、集中力を研ぎ澄ましているのはフェンリルたちだ。フェンリルの役割は帝国軍の通信業務だ。遠く離れたスリミアの総司令部や、帝国等族議会それぞれに、戦況報告をやり取りしている。
フェンリルたちは、中性的な幼い外見をしているが、実は大人である。ひどく小柄で痩せた顔――幼形成熟している――なのは、フェンリル共通の特徴だ。
目立つ赤マントに白銀の軍服を着用しているのは、フェニックス・ブラッド・デラーだ。彼は血走った目で司令部に陣取っていた。実際に決戦がはじまったいま、彼は落ち着きなく歩き回る。民衆向けのアジテーションの際に、いつも装っている泰然自若とした態度も、政財界の要人向けの無意味な微笑みも、今は忘れていた。そのどちらもが通用しない敵に阻まれて、いつもの自信を失っているためだ。政治手腕や好感度など、戦場での勝敗には何の関係もない。
苛立った声音で、フェニックスが副官の言葉を反復する。「テクサカ軍先鋒まで距離1000エルなんだな!」
「はっ、間もなくモノプティックの初回斉射に移ります」
「うむ。しかし勇猛で鳴る我が3個連隊がああもあっさり打ち破られるとはな」
フェニックスがいっているのは、敵前での偵察任務を負った“神聖威力偵察軍”のことだ。戦術的には全く無意味なことだが、うるさい若手将校や愚かな貴族を黙らすために、フェニックスが許した作戦だった。
実際のところ、“神聖威力偵察軍”などというご大層な名を冠した部隊は何の成果を挙げるでもなく壊滅した。それはそうだろう。たった3個連隊で、テクサカ軍の数百エル手前までノコノコと飛び出していったのだから。
確かに当初は、成り行きを注視するテクサカ軍の慎重さに助けられて、神聖威力偵察軍は痛烈な攻撃魔法をテクサカ軍前衛に放つことができた。しかし、幸運もそこまでだった。神聖威力偵察軍の魔法攻撃が一段落したのを見てとったテクサカ軍の一団が突進して、3個連隊を瞬く間に引きちぎってしまったのだ。
人の身長の倍はあるギガスが太い腕で歩兵をつかみ宙に放り投げた。トロールは巨大なハンマーで兜ごと頭を粉砕した。モンスターに包囲された魔術師は、デフレクトを張ったはいいが敵中に孤立した。
デフレクトは物理攻撃を退けるが、完全に外界から密閉されているわけではない。結局、魔術師たちは煙でいぶされ、術者の疲労が極まって結界が破けたところで、なぶり殺しの目にあった。逃げ惑う兵たちが、次々と薄気味悪いパペットに捕らえられて手足を引きちぎられ、食べつくされた。帝国人3000人を特別招待しての死の饗宴。フェニックスは連隊が壊滅するのを、指をくわえて眺めるしかなかった。
「しかし、あの3個連隊が……」とフェニックスは同じ言葉を繰り返す。
既に何度も同じことを聞いていたフェニックスの副官は、かすかに眉をひそめた。総司令官の精神状態が少しばかり心配になってきたのだ。とはいえ、彼は上官の機嫌を損ねて余計な火の粉を被るほど、世慣れしていなくはない。口をつぐんでいた。
「勇猛で鳴らしたあの3個連隊が……」
とり巻きたちが不安げに視線を交わし、そのうちの一人が勇気を振り絞り、フェニックスを励ます。「デラー閣下、我が軍伝統の勇猛果敢さに従い、身命を散らしたスパイスフル伯は、身を以って我らに神のご期待に沿う振舞いを示したのです。今度は我らが範に従う刻ですぞ」
フェニックスは、遠い目付きで取り巻きたちを眺め、どこか気の抜けた演説をはじめた。「そうだ、我らの傍らでは、今は亡きスパイスフルをはじめ、3000の勇敢な英霊が見守っている。各員臆するな。我らはテクサカ軍の突進を阻む神聖なる鋼の壁となるのだ……」
フェニックスの独演が終わった直後、中央軍集団の最前列からまばゆい閃光が放たれた。それは、中央軍集団の2万人近い魔術師が放つ攻撃魔法の、最初の一撃だった。どよめきが帝国軍に走る。
遥か南北方向では、芥子粒のように小さな北方・南方軍集団の軍勢が、遅々とした動きながらも方向転換する。彼らの任務は、中央軍集団がテクサカ軍を受け止めている間に、テクサカ軍を包囲することだ。彼らの突進にこそ、作戦の運命がかかっていた。
数千条ものモノプティック第2射が、遠雷のような地響きを伝える。以後、攻撃魔法の咆哮は休みなく続き、一拍おいてテクサカ軍の前衛が走るあたりを、火炎が薙ぎ払う。土ぼこりと共に、モンスターどもが軽々と宙に吹き飛ぶ。
着弾地点では焦げ臭い匂いが充満するが、モンスターたちはまるで気に介するそぶりもみせずに突進する。攻撃魔法の一斉射撃が繰り返され、やがて魔法小隊が魔力量を使い果たし射撃を終えた。魔術師たちはトラクトを使用し、補充された魔力が体に馴染むのを待つ。禍々しい敵の姿が、次第にはっきりと各自の目に映るにつれて、帝国兵たちの緊張は高まってゆく。
魔術師を守る歩兵たちは、魔術師がこう呟くのを聞く。「もっと引き付けるんだ、そうだ、もっと近くに来い。強烈なのをお見舞いしてやる」
既に300エル程度にまで接近したテクサカ軍の前衛を、散発的なモノプティックの閃光が貫く。攻撃魔法が直撃したモンスターはあっけなくバラバラに爆散し、着弾地点周辺のモンスターが苦痛に絶叫をあげる。跳ね飛ばされた地面の土や、刃物のように尖った小石が突き刺さったのだ。
ギガスが帝国軍の設置した移動防柵にとりつき、地面に杭で固定されたそれを引き抜こうとする。防柵を乗り越えようとするギガスの鋼のような肉体に、杭の影に潜んでいた帝国歩兵たち(ほとんど生還を望めない過酷な任務に挑んでいる)が、槍を突き刺す。
幼い子供が悪夢に見るような、恐ろしげな形相をしたテクサカ兵が投槍を放つ。放物線を描いた槍や石つぶてが降り注ぐ前に、帝国側の多くの魔術師ペアは、デフレクトを張り巡らせた。デフレクトに阻まれ、原始的な投擲武器は弾かれた。
多くの魔術師ペアはモンスターの攻撃が緩むと同時に、危険を冒してデフレクトを解除する。反撃するためだ。デフレクトに隠れ続けていては、オムニ教会が約束する戦士の休息――つまり、死後に天上の楽園に召される希望が叶わないに違いないからだ。それに、貴族の多くは、臆病者の汚名を着ることを極度に恐れていた。
デフレクトが解除されると、魔術師たちの多くは消費魔力量が少なくて済むサンダーを放った。サンダーは“直進性が悪く狙いがつけづらい”という欠点があるわけだが、どこを狙っても外しようがないほど、至近距離に敵がうじゃうじゃいる場合には、その欠点は無視できた。
魔術師の魔力が回復するまで、彼らを守るのが、魔術小隊の歩兵の役割だ。歩兵は魔術師の前面で長大な槍を掲げ、モンスターが振り回す刃物を防いだ。テクサカ軍の装備は西方戦役時よりもずっと改善されていた。武器も力任せに叩きつける棍棒よりもマシなものになっている。オムニ帝国で流布している“発明の才に乏しいテクサカ”というイメージは、もはやあてはまりそうにないことを、帝国軍の将兵ははっきりと悟った。
中央軍集団が攻撃に押され、中央部がお椀のように弓なりに歪む。切り、突き、叩きつける血生臭い戦場に、次々と帝国軍歩兵が斃れてゆく。死者数ははるかにテクサカ軍が多いはずだが、屍を踏み越えて迫るテクサカ軍の迫力を見れば、誰もが現時点ではテクサカ軍有利と判断するだろう。とはいえ、前衛部隊はほぼ魔力を使い果たしている。第2列を投入すべきころあいだ。
「第1列は防御体制をとれ」
フェニックスが命じるまでもなく、各魔術小隊の防御担当魔術師の周りには、疲弊した歩兵たちが集まっていた。傷つき疲れた歩兵たちが、堅固なデフレクトに守ってもらえるチャンスを逃すはずはない。
魔術師ペアの連携不足のせいだろうか。なかには、デフレクトに包まれた瞬間に、愚かにもモノプティックを放ったらしく、内部がまばゆく輝いた次の瞬間、はじけるデフレクトもある。デフレクトの中で術者が死んだのだ。
このような魔術師たちの不幸な行き違いによる自滅は、周囲にも災いをふりまく。デフレクトの中での自爆事故は、通常のモノプティックの攻撃力を、はるかに上回る爆発力を示すからだ。大爆発が周囲の小隊を巻き込んだ。デフレクトが一種の密閉容器の役割を果たして強烈な圧力波を生み出し、術者が死ぬと同時に、爆轟となって周囲に広まった――ヨウならばそう解説したことだろう。
最初の一斉射撃から魔力を温存していた第2列が、第1列のデフレクトの間を縫い前面に進出、魔術師たちが危険に身をさらす。このリスキーな切替局面を援護すべく、後方から強烈な攻撃魔法が飛来した。中央軍集団付属の重攻撃魔法大隊の一斉射撃だ。トリプティックの3条の光輝が、テクサカ軍に降り注ぐ。
こうした支援にも関わらず、少なからぬ数の第2列魔術師たちが、踊りかかるモンスターに叩きのめされていた。ペアの魔術師が、慌ててウォルカをブートする間に、トロルの投槍が貫く。あるいは数十体のパペットが躍りかかり、魔術師が細身の小刀でずたずたに切り裂かれる。
中央軍集団を食い破ろうと迫るテクサカ軍は、頑強に抵抗する帝国軍と入り乱れた乱戦となっていった。いつしか魔王の本陣も前線に接近する。そのテクサカ軍を、両サイドから包みこむように、北方・南方軍集団が迫っていた。
◆
戦場は帝国軍司令部から直接見られないほど、広域に広がっている。通信兵からの膨大な報告に応じて、司令部の作戦展開図には各連隊を抽象化した駒がおかれた。司令部で混乱した情報に耳を傾けていたフェニックスは、次第に興奮してきた。戦闘開始から1時間後、北方・南方軍集団の兵10万が、作戦計画通りにテクサカ軍を挟みこむのに成功したのだ。100万近いテクサカ軍のほんとんどが、帝国軍の包囲に落ちようとしていた。これほどの大勝利は空前絶後のものだ。
テクサカ軍はというと、ほとんど包囲の網が閉じようとしているにも関わらず、中央軍集団の突破を諦めていない。テクサカ軍の動きによって、彼らはますます帝国軍の包囲に落ち込んでいるというのに。
勝利を確信したフェニックスのもとに、恐ろしく良いタイミングで腰巾着の将軍たちから祝いの言葉が届いた。フェンリルが結ぶ軍用通信網を、私用に使うのは厳禁のはずだが、誰もが見て見ぬふりをした。
「デラー閣下、将軍Aより“勝利は閣下の手中にあり”との連絡です」
「デラー閣下、将軍Bより“大勝おめでとうございます”との連絡です」
フェニックスのもとに、司令部の通信要員の手を経て、次々に祝いの言葉が贈られる。なかには、「今も無数の将兵が命を落としているのになんとした不謹慎さか」と表情を曇らせる司令部要員もいたが、そのような者は少数派だった。
己が帝国中から歓呼の声に包まれて凱旋し、人気に任せて政界の階段をかけ上る様が見えているのだろう、フェニックスはニヤニヤと相好を崩している。「帝国の強き腕に敵う者なし。我らの……」フェニックスが上機嫌でいつもの説法をふるいはじめたそのとき、緊迫した声音の報告が舞いこんだ。
「閣下よろしいでしょうか。いえ、急を要するかと判断しましたので失礼いたします。気になる通信を受信しました。報告は次のようにはじまり、途中で途切れています。“コチラ ホヘイ ダイ 113 レンタイ カンク ユウセイ ナル テキ ノ コウゲキ ヲ”以上です」
「なんだと? はぐれモンスターの仕業じゃないのか」
報告に参上した真面目そうな将校は、苦しそうに眉根を寄せている。「申し上げにくいのですが、はぐれモンスターが襲ってきただけで通信が途絶えることはないと考えます」
不快なことを口にする勇敢を持つ、善良な将校にむかい、フェニックスは冷酷に告げた。「考えるのは結構だがね、別の考えかたもできるだろう。フェンリルが通信に失敗しただけという説明が最もありえると私は思うね」
「しかし……」と将校は口ごもった。
フェニックスは既に通信担当の将校に背中を向けていた。「引き続き状況確認に勤めてくれたまえ。私は忙しいのだ」
「……」将校は返すべき言葉もなく黙りこんだ。その様子を、数人の司令部要員が目撃していた。
通信にあった“第113連隊”のように、ただ番号だけで呼びあらわされる歩兵連隊は、帝国本土との間の補給線護衛任務についている。歩兵第113連隊は帝国軍本隊が行軍の最後の野営地付近に残置してきた連隊だから、帝国軍本隊から帝国本土方向に、わずか10トエル程度しか離れていない場所のはずだった。このような重要な情報を無視するフェニックスが英雄足りうるのか。通信担当将校の人が良さそうな顔の上を、疑念の雲が覆っていく。
将校は再びフェニックスに意見する勇気を搾り出した。「後背地の安全は補給線維持に不可欠です。補給線が切れれば――」
「そんなことはわかっている!」不機嫌さが滲んだフェニックスの大声により、司令部が凍りついた。「いつから貴官はわたしの副官になったのだね?」フェニックスは、言葉だけは表面的な慇懃さを保ちつつ、にやけた顔を将校に向けた。「戦略レベルの判断はわたしの仕事だ。この戦争は短期決戦を指向している。補給線の維持などは副次的な問題に過ぎん。追加の指示は副官に聞くといい。立ち去りたまえ」
将校の表情から苦しそうな影が消え、無表情になった。高貴な家柄に生まれ、幼い頃から秘蔵っ子として大切にされてきたこの将校にとって、英雄が示したあからさまな嘲笑は、“英雄”を彼にとって過去の歴史に追いやるのに充分な衝撃だったのだ。
残念なことだが多くの場合、相手に無条件に愛や敬意を捧げることができるのは、九重の雲の上に相手を据えて、彼なり彼女なりを間近で評価できないでいる間だけなのだ。 将校の心に密かに築かれていた壮大な崇拝序列において、天使の次の位置を占めていたはずのフェニックスは、あっという間に天上の雲間から転落して地に墜ちた。願望の眼鏡を外してみれば、将校の目の前にいるのは、単なるくたびれたオッサンだった。将校は首を振り、肩を落として司令部の天幕のもとを去った。
司令部の片隅で、フェンリルが受け取った最新情報が、フェニックスのもとに次々と届けられる。その全てが、彼の不安をかきたてた。フェニックスは粗雑な動作で椅子に腰を下ろし、唐突に呼び鈴を鳴らした。予期しないタイミングでの呼び出しに驚き、慌ててかけつけた少年兵に、フェニックスは覇気のない顔を向けた。「何か食べ物を持ってきてくれないか。どうも腹が減ってしかたがないのだ――」