□28 テクサカ軍
その日、魔王の使い龍は金属の外皮をきらめかせ、恐ろしい咆哮とともに地に降り立った。龍の両腕からほとばしる白炎が地を焼き、緑に覆われた岡の頂上は焼け爛れた。主の到来に備え待機していたテクサカ軍首脳の面々をも、龍の熱風は容赦なく襲う。周辺に自生する丈の短い雑草は、焦げ臭い熱風で激しくはたいめいている。
地に舞い降りた龍の咆哮は、次第に高音のうなりを弱め、低く鎮まっていった。近くから観察すれば、龍の外皮は年月を経てくすみ、あちこちに小さなへこみがある。それは、使い龍が幾星霜もの時を経た、古い存在であることを暗示していた。
奇妙な文字が描かれた龍の腹部に、開口部が開く。そこから、黒のレザースーツに無骨なブーツという、シンプルな中にも威厳を感じさせる魔王が姿を現した。
一人の老齢の人族が前に進み出た。「お待ちしておりました、サイン様」少し遅れて現れたエルモにも、男は深く頭を下げた。エルモの服飾はサインと同じもののはずだが、与える印象は哀れなほどに異なる。
「出迎えご苦労。状況に変化は?」エルモが簡潔に質した。
「は、前回のポピュロス通信から変化ありません。全軍、準備が整っております」
小高い岡からは、日差しに照らされた平野が広く見渡せる。そこには数十万のテクサカ軍が灰色の絨毯のように布陣していた。その兵たちの全てが、天空より舞い降りた2人の魔王に注目していた。
燃えるような視線の集中砲火の焦点に立ち、エルモとサインは並び立った。やがて、テクサカ兵の頭の中に、魔王が直接語りかける、言葉なき言葉が湧き出した。その言辞には、隅々まで威がみなぎっている。言葉を理解できる兵は、テクサカ市民や帝国亡命者、それにセンティア処置を受けた者から成る少数だ。理解できないモンスター種族たちにも、荘厳な出撃のセレモニーとして心に残るようにするため、暗示的心理バイアスが仕込まれている。
「忠勇なる我がしもべたちよ。今や時は満ちた。我らはこれより、オムニ氏族連合帝国の圧制と戦うのだ。今までも、そしてこれからもテクサカを守り抜くであろうしもべちよ、我らの導きを喜べ。理想と決意の他には何も要らぬ。突然変異原の土とまじり合う希望を抱け。利己的な安逸をこそ懼れよ。立ちて、我に従いきたれ!」
最初はかすかに、やがて地をゆるがす歓声が、テクサカ軍の野営地を満たした。
◆
陳腐だが重要なデモンストレーション――古めかしいアエロプ、つまり大気圏航空機で、さっそうと天から降下する支配者。その役回りを完璧にこなし、魔王一行はテクサカ軍首脳や各種族の代表者と挨拶を交わした。決戦を控えた状況でも、そんな形式はもちろんなくなったりはしない。
数時間後、様々な雑事をこなし、エルモとサインはティーブレイクを楽しんでいた。戦争において、兵士が実は移動か待機ばかりしていて、戦闘などめったにないのと同じで、魔王の仕事もハカリゴトを巡らしてばかりいるわけではない。
「あいたた……ちょっと失礼」
「大丈夫なのエルモ。また下痢でしょ」
「違う、小の方だ。失礼な。断じて液体の方を排出しにいく」とのたまいつつ、エルモは切羽詰った様子で内股で走り去る。
エルモの大きな背中を見送り、サインはティーカップをテーブルに置いた。「はぁ、まったく。人前に出ると、必ず下痢なんだから」インターフェースで自律神経系を操作しても、なお収まらない重度のストレス性下痢。魔王が下痢だなんて、帝国人が知ったらどう思うのだろう。想像すると笑えてくる。
今は見ての通りの状況だが、もともとサインやエルモが就いていた仕事は、人前で雄弁を揮うより、孤独に耐える能力が重視される性質のものだった。むしろ、目立ちたがりのサインのような性格の娘は、あの懐かしくも閉鎖的な職場では、少数派だったのだ。
サインの視野の片隅では、インターフェースが表示する情報が次々とポップアップしては消えていた。「傀儡化優先命令……履行率99・86%か。おおむね満足できる数字ね」
魔王直隷軍は、アクターボに棲息する各種種族から成る軍隊だ。そこにはモンスター種族も含まれる。オムニ帝国においてはモンスターと呼ばれる者たちの多くは、自発的にではなく、強制的に魔王がその支配力によって統制下においている。つまり、テクサカ軍は半ば戦奴なのだ。まあ、形はどうあれ軍隊に変わりはない。
サインのリクライニングが揺れた。肩越しに振り返ると、エルモが片手を置いていた。
「またチェックしていたのか? 今さら何かがトラブッたとしてもどうしようもないぞ。君もAIには異常時だけ報告させた方がいい」
「早かったわね。手は洗ったんでしょうね?」視線を上げることもなく、サインが尋ねる。
エルモは何も言わずに手をひっこめた。
「心配でしょ。あのでっかいギガスが傀儡化から抜け出して、襲われたりしたら大変じゃない」
「君を襲う? そんな自殺行為に及ぶギガスがいるとは思えないね。そもそも身長5エルのモンスターだって、俺たちの防衛機序の手にかかれば普通の人間と変わらないよ。俺たちに敵うはずがない」
「不意打ちを食らわなければ、その通りだけどね」そう呟いて、サインは左手の甲をさすった。そこが数ヶ月前のオムニ領内での任務中に、サインが怪我を負った場所であることを、エルモは鋭く見抜いた。
「気になるのか?」
「……まあね。不確定要素があるのは、気に入らないから」
明らかな技術文明の産物を持っていた少年。あの少年を眠らせて拉致ってこなかったことを、サインは今更ながら後悔していた。
「その気持ちはわかるよ。今回の作戦は、オムニ帝国の連中が、今回も俺たちが昔の作戦行動に沿った行動をとると予測する、という前提から成り立っている。つまり我々が2部隊しか動かせないと思い込んでいるという前提だな。それが崩れたら、俺たちは負けるだろう」
「そう? 連中は兵力22万でしょ。正面からの決戦で勝てるかもしれない。それに今回は亡命者がいるから、少しだけど攻撃魔法も使えるでしょ」
エルモはゆっくりとティーカップを置いた。「連中の魔術は年を経るごとに強大化している。それに連中との兵数差は5倍足らずだ。我々が押し負ける可能性はかなり高い。集合知性が出した勝利確率を話したろ?」
「そうだったわね。こちらも基本的な武器はなんとかそろえたけど、帝国軍の戦列に半分でもたどり着くかしら。はあ、胸が悪くなる」背もたれに体をあずけたサインが嘆息した。
「突撃しないわけにはいかないよ。今まではそうしてきたのだから。うかつにテクサカらしくないところをみせれば、作戦が崩壊しかねない」
「私達がもっと戦術に詳しければ、こんなことにはならなかったのにね」
アマチュアの軍隊を組織して、過去1世紀以上もオムニ帝国と戦ってきた。うまく立ち回っていれば、とうにアルトゥリ・ムンディを手にしていただろう。
「それは言っても仕方ないことだ。俺たちは軍人じゃなかったからな」
いつしか辺りはすっかり暗くなていた。天幕が引かれた仮設司令部の前では、大きなたいまつが赤々と燃えている。暖かなオレンジ色の光が踊ると、サインのティーカップの影も踊る。
「ちょっと冷えてきたわね。あの中に戻りましょう」
様々な種族から成るが、共通して屈強な体つきをした衛兵たちも、魔王に従いぞろぞろと移動した。サインは歩きながら星が瞬く夜空を見上げ、あの冷たくて空っぽな空間のことを思い出した。「あそこにいた頃、こんなことになるなんて想像もしなかった」
「……」エルモは無言で同意を示した。オムニ帝国との決戦は、明日にも始まる。
◆
いま、テクサカ領東部辺境の緑の平野にオムニ・テクサカ両軍が静かに対峙している。
テクサカ軍の兵力の主役モンスター種族がおよそ80万。それぞれがきらめく鉄製の武器を手にしている。テクサカ軍は、これまで魔王が傀儡化した兵に、最低限の装備しか与えられなかった。だが今回は違う。この15年の戦間期に、テクサカ領奥深くで新設された精錬工場や武具工場が、良質の鉄製武器や防具を量産していた。珍しく長い戦間期の賜物だった。今では多くのテクサカ兵が、黒光りする金属製の防具を身にまとう。直撃は防ぎきれないが、攻撃魔法着弾時の微細な破片には、ある程度抗しうる。
軍編成面でも同じくらいの質的変化があった。これまでは魔王の“傀儡化”によってバーサーカーのごとく戦ってきたモンスター種族たちは、少数のセンティア処置を施された同族指揮官に率いられ、分別を持って戦うように改められた。同時に小隊編成も取り入れられ、戦闘の役割分担がある程度可能になっていた。
これら改革の成功は、帝国亡命者の力によるところが大きい。戦術・戦法を一から独学した魔王に戦術の基本を教え、テクサカ軍に系統立った戦術という骨格を与えたのも、亡命者の仕事だった。
亡命者が行った改革はそれだけではない。亡命者である彼らはテクサカの防衛をより真剣に考えていたのだ。亡命者から成る志願者たちは、テクサカ軍の中心に将校階級にあたる“ノード”を形成し、テクサカ軍の戦力向上に寄与していた。将校階級を上級・下級ノードに分けて編成し、軍隊である以上は避けて通れない人員損耗に、柔軟に対応できる軍制に改めたのだ。また、亡命者は煩雑化した補給活動や通信などのサポート業務に加え、臨機応変な行動が命を左右する、斥候としても活躍していた。
テクサカ軍別働隊には、亡命者志願兵から選抜した、数少ない魔術師が編入されている。魔術師1人につき200人もの歩兵が、宝物のように魔術師を護衛していた。亡命者たちはひたすらに爪を磨いていたのだ。帝国軍が、彼ら十八番の攻撃魔法をその身に食らい、その威力をたっぷり味わう日が来るのを心待ちにして。
上記のような亡命者部隊に加え、補給部隊を合算すると、帝国軍を迎え撃つテクサカ軍の総兵力は、100万近い。テクサカ側でも、補給は帝国軍に劣らず重要だ。いくら傀儡化がかけてあるとはいえ、飢えたり傷ついたりしてイラつけば、モンスターは味方同士襲いはじめる。軍隊において、飢えこそは最も忌むべきものだった。