□24 邂逅
地上から星海を見上げる者がいたならば、星が右から左に次々と消え失せ、そしてまた星が現れるのを目撃していただろう。まるで天の一角を、得体の知れない巨大な何かが、ひっそりと横切っているかのように。果たしてその危惧は現実であった。天と地のはざま、夜の大陸上空を飛翔する影が、確かに存在していた。3つの月に照らされた雲海が束の間途切れ、青白い月明かりが、闇に潜むそれを照らし出した。つややかな外皮をまとったそれは、地上のどのような鳥よりも疾く空を翔る。
やがて、雲を割って地上に近づいたその物体は、数度ちらつきを見せてから背景に溶け込んだ。低い風切り音が寝静まった地上に響いたが、それを気に病む住民は誰もいなかった。厳しい農作業で疲れきった農民たちは、深い眠りの中にあったからだ。
◆
然るべき伝達事項を手短に伝えると、女はアルギラに背を向け、執務室のドアノブを回した。アルギラの好奇心に満ちた視線が、背中のあたりを、チラチラとさまようのを感じる。
ドアを開けるのと、アルギラの私設衛兵が飛び上がるほど驚いて立哨の定位置に戻るのは、同時だった。あのいかにも堅物といった感じのアルギラの部屋に、最優先で招かれた女に興味があったのだろう、彼は室内の物音に耳を澄ませていたのだ。好奇心は猫をも殺すという諺を知らないのかもしれない。衛兵の、汗が伝った横顔を一瞥すると、女は外套を波打たせ、薄暗い石の通路を足早に進んでいった。
衛兵の驚いた顔を思い出して、女の顔に忍び笑いがこぼれた。その笑い声に惹かれて、通路半ばのドアが開き、メガネの男が半身を乗り出して確認する。彼は「ひぃっ」という悲鳴と同時に、素早くドアを閉じた。臆病なプレーリードック顔負けの早業だ。余計なことには眼と耳を塞ぐのが、この商館のルールなのだろう。
帝国の標準的体格からすれば、彼女は長身で豊満なアマゾネス、という表現がぴったりの目立つ女性なのだが、困ったことに本人にあまり自覚がない。その服装も独特だ。黒系のリネン・アーマーと、クロテンの毛皮製コートの外套を身につけた女など、帝国中探しても(たぶん)他にはいないだろう。リネン・アーマーからはみ出さんばかりの胸元は、ヒールが石畳を打つたび、悩ましげに揺れている。基本的には慎ましい女性がほとんどの帝国においては、もはや目の毒に近い。
女が陰鬱で巨大な建物の裏口から外に出ると、夜はまだ浅かった。帝国有数の大都市の中心街を、残業帰りの官吏や商人が行き交っていた。わずかに躊躇してから、女は大通りを城壁に向けて歩いていった。時間はまだあるし、女はちょっと羽を伸ばしたい気分だった。
ふと酒場の前を横切ると、酔った男たちが飲み物の入った杯を掲げ、ウインクしてきた。食べ物の香りに誘われて、酒場の入口をくぐろうとすると、入口の傍にいるぶ厚い胸板の男が、女に通せんぼした。
「まて、その格好はなんだ。ここで営業はできん、他所にいけ」
女はつかのま困惑した表情を浮かべた。「営業って何のこと?」
「ん、なんだ妙な訛りだな」顔からつま先までじろじろ眺める男の視線は実に無遠慮だ。ふと、その仏頂面にいやらしい笑みが浮かんだ。「ほーお。ぐふふ、そうだな入ってもいいぜ、でも営業するならこれを頂かないとな。いちおう決まりなもんでね。もし安くあげたいなら、俺の部屋で現物払いでもいいぜ」
男の親指と人差し指が、小さな円を描いている。それが示す万国共通の意図に、女は遅ればせながら、この男が言わんとしていることを理解した。女は汚い捨て台詞を吐いて酒場を立ち去った。背後からは、数人の客が発する、失望のブーイングが追いかけてきた。店番をののしるような声も混じっている。
「まったく、人間集団というやつは」女は呆れてもいたが、少し嬉しそうだった。「せいぜい逃がした魚の大きさに尾ひれをつけるがいい」そう誰にともなく言い放ち、大股で石畳の道を大学の方向に進んだ。
教会の尖塔の位置からするに、もうここは大通りの外れだとわかった。大学の敷地と道を仕切る壁が鉄柵に変わり、柵の隙間から長い門道が見て取れた。手入れされた庭園には、そこかしこに円柱が並び、聖者や偉人の石像を頭上に戴いている。
都市という名の舞台を彩る建造物たち。石と木の巨人は宵闇に包まれ、昼の明るい日差しを浴びているときよりも、不思議に重厚な存在感を備えている。足元を行き交う小さな人間たちを、灯りの消えた虚ろな窓から、黙々と観察しているのだ。その証拠に、人気のない夜の学舎などは、謎の視線に満ちているものだ。女は自分が学生だった頃のことを思い出して、独りでうんうんとうなづいた。
内部の四角い空洞から人が離れ家に帰ると、建物と建物の合間に淀む闇は、いっそう深まって見えた。善良な市民がそうした暗い路地に迷い込んだならば、壁に反響する自らの足音にせき立てられ、闇に潜む何者かの視線を背後に感じ、足早に走り抜けたい衝動に駆られるだろう。だが女にとって、そこは安全そのものだった。なぜなら、善良な市民から見れば、彼女自身が闇の方に属する存在だから。
街路を吹き渡るひんやりと心地よい夜風が、首筋を撫でていく。女は時間を確認して、そろそろ戻らねば、と考えた。通りを横切ってもと来た道を引き返そうとして、それに感づいた。何事か叫ぶ若い声と、金属が触れ合う音。
直後、路地の暗がりから、後ろを振り返り必死に走る若者が、女――サインめがけて突進してきた。
「ぐほあ!」
サインが身を引くと、若い男はサインの足につまずいて派手に転んだ。男のポケットから、何かが転げ落ちて地面を転がってゆく。
「なに、あんた」サインがそう言い終えた刹那、防衛機序が立ち上がり、サインは体から意識が遊離するような感覚を覚えた。瞬く間に、視界が無駄な画像処理負担を省いたモノクロになる。
何者かが放ったボウガンの矢が、サインのよく発達したムネ目指し、スローモーションで迫るのを意識する。体内の戦闘時反射機構が生体神経線維を流れるのろまな活動電位を追い越して、左腕を人間には不可能な速度で矢に突き出した。ゆっくりと矢がてのひらを貫通し、手の肉とこすれて運動エネルギーを失ってゆくのが感じられた。視床下部がインプラントに促され、モルヒネ様ペプチド前駆物質を生産、堰を切ったように放出された。脊椎では、同時に痛覚ブロックが実行に移る。そうした防衛機序の恩恵で、矢傷の痛みは炭酸飲料が口中で弾けるのに似た、“刺激的な感覚”という程度にまで減じられた。
襲撃者は4人。うち武器を構えるのは2人。1人は路地の向こうで通行人の監視に当たっている。そいつが指揮者のようだ。視野の片隅に、“所属不明”と敵の識別情報がスクロールする。戦術プログラムが、熟練の流れる動作でサインの右手にステルス銃を握らせ、その威力インジケーターが“致死”にセットされるのをぼんやりと意識した。
ほとんど静止しているも同然の襲撃者たちを、透明な打撃が襲う。たちまち、襲撃者3人は糸が切れた操り人形のように、次々と倒れ伏した。外傷は一切ない。帝国の誰ひとり、襲撃者の死因を特定できないだろう。遠方にいる監視役も、命だけは守れたものの意識を失い、昏倒する。
索敵システムがオールグリーンを宣言すると、ようやくサインの管理下に肉体が戻ってきた。しかるべき神経ブロックのおかげで痛みはないが、左手は見るも痛々しい状態だ。
何の脈絡もなく襲撃者と共に現れ、サインを厄介ごとに巻き込んでくれた若い男が、膝をついて立ち上がろうとする。この実に迷惑極まりない男は、「おー痛ってぇ」とすりむいた膝を手でさすっている。
「そんなことで“痛い”だと?」サインは急に腹が立った。
その幸運な男――というか少年だろうか――は、怯えた表情で背後を振り向き、唖然とする。襲撃者がみな、小汚い路地に倒れ伏していたのだから当然だ。
「あいつら、どうして――」少年はまさか、と女を見上げた。
なかなかカワイイ顔立ちをしている。サインは、蒙った迷惑が少しだけ軽くなった気がした。
「あなたがやったんですか?」そう言って、少年はサインの左手に突き刺さった矢に気付き、早口で数語だけ喋った。何語かはわからない。全く聞き覚えのない語調だった。
そんな少年の様子を、感情などという余計な機能を持たない戦術プログラムが、冷たい論理で刻々と再評価していた。戦術プログラムが“少年を始末する”という提案を持ち出す前に、サインはこの場を立ち去ることにした。人通りが少ないとはいえ、そのうち誰かにみつかる危険も大きいし。
背を向けたサインを、少年が引き止めた。「ちょっと待ってください。怪我、大丈夫ですか」
片足をかばうようにして追いすがる少年を、振り切るようにサインは大股で歩く。左手のむずむずする感覚は、リペアー機序が働いている証拠だ。すぐに傷口から押し出された矢が、地面に落ちた。石畳で乾いた音をたてた矢のそばに、何かが転がっている。金属でできた円筒、その一端は透明な物質で覆われている。それは。
「ハンドライト……」いましがたの戦闘では小揺るぎもしなかった、サインの脈拍が跳ね上がった。屈んでそれを拾い上げると、脇についているボタンを押した。すんなりと、白銀の光線が虚空に伸びる。
やっとのことでこれだけ言えた。「……お前は何者だ」
女の緊迫した低い声に驚いて、少年は目を丸くした。
「何者かと聞いている!」サインの大声に呼応するかのように、遠くから犬の遠吠えが届いた。
少年は怯えたような早口で告げた。「ニシミヤ ヨウです」
「ニシミヤ……」その響きは異質な感じがした。なぜ、こんなところに明らかな技術文明の所産があるのだろうか。見たところ新しい製品のようだった。帝国の技術水準から、明らかに数世紀はズレた代物だ。
逆に少年が静かに問う。「あなたは?」
考え込んでいたサインは、意表を突かれた。「……サイン」一拍置いて、サインは好奇心を放つヨウの目を、まじまじと見つめた。「あ……」自分の本名をさらしていることを唐突に悟った。「も、もう帰らないと。失礼」ハンドライトをヨウに抛り、サインは一目散に駆け出した。
サインの背中が見えなくなるまで、ヨウは路上で見送っていた。