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春が近づくにつれ、慌しい町の空気は次第に不安と興奮の奇妙な混交物に取って代わりつつあった。もはや誰も知らぬものもいない対テクサカ戦争――誰が言ったのか、“戦争を終わらせる戦争”が始まろうとしているからだ。
この数ヶ月、あらゆる商人や物流業者が激しく国中を動き回っていたおかげで、この世界の基準ではちょっと変わった顔立ちをしているヨウも、特段注目を浴びることもなく旅を続けることができた。残念ながらこれからはそうもいかないだろう。必要な軍需物資はとっくに前線の集積所に送られるかして、この大都市クワナを通り過ぎていった。ときおり通りを走り抜ける伝令任務の将校がいるくらいで、街にはある時期からすっかり人影が少なくなっていた。
見たところ仕事もせずにプラプラしているヨウは、世間様からあからさまな不審者の烙印を押されてもおかしくないだろう。この半年、戦争準備に追われるファンタジー世界をうろつき回った結果、彼の手帳はびっしりと新たな見聞やアイデアで埋め尽くされていた。商事移動許可証と、ヒレンブランド印の紹介状の神通力で見て回った場所は、工業を中心にあらゆる産業分野に及んでいた。ギルドの規制や秘密の壁はあったものの、実物の作業工程を見学する機会は幾度となくあった。
クワナ大学からは有難い援助も受け取っていた。中世ルネサンス期イタリアの大学もかくやと思える柔軟な頭脳を持った御仁が、驚くべきことに何人もいた。彼らはヨウの示す腕時計や空のペットボトルに感嘆の声をあげた。大学の教授たちはヨウの価値を認め、間違ってもヨウの存在が異端者としてオムニ教会に通報されることのないように、様々な助言をさずけた。
教授の中には、数学や歴史学、魔法学、修辞学など多くの学問分野に精通した人々がいて、ヨウの周りに群がった。中には、知識の代価として金銭を提供しようとする者もいたため、有難く頂き、幾つかの高校物理レベルのヒントを提供したこともあった。微分記号や積分記号を使って数学を伝授したりもしたため、もしこの世界で ∫ こんな演算子をみかけたら、それはヨウの仕業ということになる。
天体運行の現実や万有引力の法則、メンデルの法則、ヨウがあまり重要だとは思えなかった英語のアルファベットの文字表記などについても、なぜか歴史学や紋章学の教授が卒倒するほど喜んでくれた。
ヨウが貪欲に学ぶうちに、この世界にもたらせる知識や発明品もかなり見えてきた。例えば印刷技術やソロバンだ。ソロバンがあれば、暗算に頼ることなく大きな数字を計算できるだろう。
また、ヨウは商業簿記については無知だが、商人たちが使う計算方式が呆れるほど効率が悪いことだけはわかった。この世界ではアラビア数字ではなく、ローマ数字に似た表記法が一般化していた。
ヨウが以前から思っていたことでもあり、誰でもそう思うだろうが、ローマ数字の4と6はⅣとⅥになり、紛らわしい。しかも、ローマ数字は大きい数字の表記が余りにも苦手だ。アラビア数字での9はローマ数字ではⅨだが、たとえば3999はMMMCMXCIXという長ったらしいものになってしまう。
もっとも、帝国の表記法は、長い歴史で幾つかの減算則が取り込んだらしく、地球のローマ数字ほど面倒ではない。例えば66000はLXⅥ*Mと表記されていた。Lは50、Xは10、Vは5、Iは1、*は乗算を意味する演算子だった。Mは1000に対応するため、(50+10+5+1)*1000 = 66000 となる。これではこの世界の帳簿はさぞかし難解だろうと、ヨウは同情した。十進記数法なら簡単なのに。
そこでアラビア数字を試しに教えると、考古学者が死ぬほど驚いてどこかに飛び出し、ぶ厚い本を携えてすぐに現れた。そして、興奮ぎみにあるページを指差し、黒鉛で転写した文字列を指し示した。そこには、多少形が崩れてはいるが、ヨウが教えたばかりのアラビア数字のようなものが記されていた。
考古学者は震えるかすれ声で宣言した。「それは、“分裂”前に使われていた、失われた古代文字だ」
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学問の府では多くの学者を大混乱に陥れてしまったヨウだったが、彼の教えた地球の知識は静かに広がっていった。新しい表記法もしかり、商人の間で爆発的に流行していた。アラビア数字は一度覚えれば簡単だったし、あらゆる徴税吏や会計士も、数字の扱いにはこれまで頭を抱えていたのだ。幾人かの学者は一躍時代の寵児となったし、アラビア式計数法に適した新しい帳簿を開発した実業家は大金をせしめた。
そういった受益者の中には、いつかヨウが自分の知識の代価を取り立てるようになるのではないかと恐れる者もいた。全ての基本的な発想がヨウからのものであるならば、当然、発明や特許の正統な権利がヨウにもあるはずだからだ。
ヨウにとってそれらは義務教育で当然のように得られる知識だったし、地球では常識だったから、それでカネを取ろうとは想像もしていなかった。しかし、疑心暗鬼にかられた教授のひとりが、ついにヨウをオムニ教会に告発してしまったのだった。
その罪状は“神への冒涜”。つまり、昔からいいように利用されてきた、陳腐な呪いの言葉であった。