□21 呪い
「ああ、聖油の既成概念が崩れた。どんな既成概念だったかと問われても困るけど」
「ふふ、そうでしょう。慣用表現で、傷口に聖油を塗る、という表現もありますよ」
彼女は適当な布片を細長く縒り、ぎこちない所作で手の傷を覆ってくれた。ヨウの両足の間に屈み、かいがいしく世話をする、エリアスの形の良い頭を見下ろす格好になった。淡い金髪から漂う良い香りに、ヨウは心臓の上あたりにぎゅっと痛みを覚えた。気をそらすためだけに喋りかける。
「まだ僕を神からの使いか何かだと思っているんですか」
ヨウを見上げるエリアス。彼女は黙ったまま、キュッと応急の包帯を結んだ。ヨウのてのひらに軽く痛みが走る。束の間黙って、彼女ははっきりとした口調で言った。「わたしは……あなたがこの世界と帝国に何か良いものをもたらしてくれると信じています。そういう意味では、今でもオムニ神からの使者だと思っています。――なぜなら、あなたが最初だからではないからです」
古くは32世紀――もちろん、聖暦(オムニ歴)での話だ――つまり500年ほど昔、アケチという神の遣いが現れたという記録をはじめ、1世紀に1人程度の割合で、帝国のどこかに流れ着く男女がいるそうだ。
そうした“御遣い(みつかい)”に関する最も新しい記録は、3630年に遡る。目撃者の話では、見たこともないほど大きく、檣楼も、帆すらもない鉄の船に乗って現れたらしい。ポンポンという奇妙な音と、煙を放つその船は、船首と船尾が削り取られていたため直ぐに沈んだが、たった一人だけ生き残った者がいたという。
アクターボの果ての海岸でのことなので、その男は蛮族に捕らえられた。帝国領内に連行された時点で、男は瀕死の状態だった。実際、言葉も交わせぬままに、その後すぐにこと切れたという。
エリアスの視線は、遠い記憶を見据えていた。「当時のヒレンブランド連隊が沿岸地帯のアクターボ浄化に参加していたの。それで、偶然にも捕虜になっていた彼に会う機会があった。名前は忘れたけれど、ヨウと同じ、烏の濡れ羽のような黒い髪と瞳をしていたわ。彼は何も伝えることられずに天に召されましたが、神の成すことに意味はあるはず。わたしは、ずっと彼の悲しげな瞳のことを忘れられずにいました。末期の息の合間に語ろうとした、不思議な響きの言葉が、今でも耳に残っています」
その場にいるエリアス、ヨウ、カリカの3名の間に短い沈黙が流れた。どこかの通路を歩む歩哨の、帷子の擦れる音がかすかに漏れ聞こえてくるだけ。この世界の夜はとても静かだった。
「そう。僕だけじゃなかったのか。しかし……いや、それより、ちょっとわからないことがあるんですけど。今年はオムニ歴3696年だよね」
カリカは重々しくうなづいた。「……そうだな」
話の流れを察したエリアスが、露骨に方向転換を図る。「ええと、その、今日は良いお天気でしたね」
「曇りだったけど……」とヨウ。
「ぐぅっ」エリアスが言葉に詰まる。
ヨウは話のベクトルを元に戻した。「3630年ってことは66年も前のことじゃん。エリアスのお父上の話しかい?」
「え、いえ、その」エリアスの視線が泳ぐ。そして、意を決したように、というか、諦めたように彼女は顔を伏せた。「私自身が会いました」
「まさか、だって66年前……」
「もう……私は104歳なのよ」とカムアウトしたエリアスは、すねたように横を向いた。
いやいやちょっと待て。ヨウの頭の中で、デニスのものらしい記憶の断片が騒いだ。貴族の途方もない長命と健康に対する、羨望と憎悪の念が、ヨウの心中にざわざわと吹き渡った。
――なんてこった、エリアスが言ったことは、誰でも知ってる常識だったんだ。
「そんな馬鹿な。だって」
ヨウがデニスの記憶を手探りすると、それらしき単語までもが、飛び出してきた。
「メトセラ? そんな寿命延長の秘術がありますね。それですか?」
エリアスの表情が全てを物語っていた。指先を膝において、神妙に頷くエリアス。「カリカには、わたしから口止めしていました。だって、その、わたし、恥ずかしくて」
「恥ずかしい?」
「この魔法――いえ、呪いのせいで、わたしはみんなと同じ時を生きることができないのです」
なるほど、とヨウは納得した。エリアスが使用人にも妙に他人行儀なわけだ。エリアスにとってはどうということはない10年は、年頃の娘たちには長い長い時間だろう。少女たちは成長して、やがて結婚する。子を身ごもり、親しくしていた友人は次第に生活に疲れ、いつまでも若々しいエリアスのそばを離れてゆくだろう。それはとても辛いことに違いない。どうせ離れてゆくものならば、はじめから表面的な付き合いに止めた方が、気が楽だろう。
「にしても、寿命の延長までできるとは恐るべし、魔術。だけどそれにも、やはり“原料”が必要なんだろうね」
ヨウが思っていたよりも、遥かにこの中世的ファンタジー世界の闇は深く、そして隠された悲劇はそれこそ無数にありそうだった。
エリアスはうつむいたまま告白した。「ときどきわたしはわたしを――人を食べて生きる怪物のように感じます。オムニの神は、わたしにどのような役割を求めているのか、もう何十年も、それが頭を離れないのです。ヨウ、あなたがあの日、空から降臨したとき、わたしは期待したのです。長い長い待機時間が終わって、わたしの役割が、ついにはじまったのではないか、と……」
聖歴3584年、治癒魔法の研究の結果、寿命を延長する魔術“メトセラ”が完成。貴族など富裕層を中心に利用が進んだ。当初は貴族の世代交代と資産の相続に悪影響があると懸念されたが、メトセラ処置をすると繁殖能力を失うことが判明し、相続にまつわる問題の半分は解決したかに見えた。た。だが、世代交代の静止は新たな問題を生んだ。いつまでも若いままの旧世代が資産を抱え込み続けたのだ。所得再配分の硬直化。ヨウの世界の経済学ならば、状況をそう表現しただろう。
エリアスのお父上もそうだったが、貴族の子弟は子を早めに成してからメトセラ処置を受けたそうだ。ヒレンブランド当主はメトセラ処置を受けた最初期の世代で、その治世は1世紀以上にもなるという。エリアスも同じ頃にメトセラ処置を受けた。もちろん非常に高価な魔術だし、定期的な再施法も必要なため、エリアスのような立場にでもない限り、不老不死の秘術を受け続けるのは難しいことだった。
今夜の出来事は、やはりエリアスの“人生相談”みたいなものだったのかもしれない。ヨウは話が終わったあとも、しばらく席を立つことができずに、光に恵まれない石の壁を見つめていた。エリアスによそよろしい田舎の領民、敬遠する城下の市民たち。
闇から目をそらし、ランプの黄色い光に見入った。その情緒的な明りの中に、アルティマの哀しげな横顔が見えた気がした。