□20 神は細部に宿る
「やめろ!」
エリアスがはっとして振り返った。そこには、たったいま扉に半身を滑り込ませたカリカがいた。彼女はいつも身に着けている、傭兵御用達の派手な色彩の服ではなく、珍しいものを身にまとっていた。町娘が着飾ったような、ヒラヒラした丈の長いドレスと、短いケープ。彼女にしては、どえらくフェミニンな装いだ。
「エリアス、あんた――」カリカにしては珍しいことに、言葉がみつからないようだった。
逆に、エリアスが質問する。「どうしてここにいるの、カリカ。とっくに城から出たはずじゃないの?」
「ど、どうでもいいでしょ。それよりあんたそれ、攻撃魔法じゃない」
エリアスは決意を秘めた者の平静さで答えた。「仕方なかったのよ。私はヨウの正体を確かめなくてはならないの」
そのとき、ヨウは机の上の携帯電話のスピーカーが、ピーピーパリパリとくぐもった音を立てていた。
――これは。
カリカが呪文の続きを唱えると、彼女の周りにも光輪が出現した。同時に携帯が発する雑音の音色も変わった。
――攻撃魔法の発動前に電磁波が出ている?
近頃では、ヨウの世界にある携帯メーカーは、新しい製品を開発する余力を失っていた。だから、この携帯電話は、何年も前に買った古い第3世代携帯だ。その使用周波数は2GHz帯だったはず。
このときヨウは、自衛軍での座学で学んだことを思い出していた。教官いわく。
「フィデスどもは高度な技術を駆使したナノマシンを日常的に使っている。連中の隠れ家からは、ナノマシンの動力源に使う2・4GHz帯の電磁波が漏れていることがある。連中は、携帯型電子レンジのような機械をつかって、草木に水をまくように、飢えたナノマシンに高エネルギーの電磁波を与えているから、その余波と考えられる。それは簡単に言うと非接触型の充電器みたいなもんだ。それを探知するのに特別な装置はいらない。お前達も使っている携帯でも充分に警報機として役立つ――」
フィデスの圧倒的な技術力に、自衛軍の装備はほとんど役立たずだった。ヨウが徴兵された時点で、自衛軍はフィデスに対し、ほとんど逃げ回るしかできないまでに落ちぶれていた。軍事技術に限らず、科学技術の格差が30年でも存在すれば、もはや技術的に立ち遅れた陣営に勝利などありはしない。遅れた者に唯一可能なのは、ベトナム戦争のような遊撃戦か、テロだろう。まあ、その立ち遅れた側の物量が圧倒的に多いならば、また話は別だが。
ヨウは熱と光が肌に突き刺さることで我にかえった。部屋の中心には、魔力を放出して互いに牽制しあうエリアスとカリカ。一触即発だ。
――やるしかないか。
ヨウは机の筆立てからペーパーナイフをつかみとり、密かに手の内に収めた。そして、対峙するエリアスとカリカの間に飛び込み、空いている方のてのひらを二人に向けて突き出す。「やめるんだ」
その気迫にたじろいだのか、彼女たちの魔術発動時特有の光輝と熱気が薄れた。
ヨウは落ち着いた動作でペーパーナイフを握り直すと、おもむろに、あまり鋭いとはいえないその刃で自分のてのひらを切りつけた。
唖然とするエリアスとカリカ。「ヨウ、あなたなんてことをしているのです」「どうかしてるぞ」
ペーパーナイフが音をたてて床に落ち、ヨウは傷を押さえたまま、手を胸元に引き寄せた。そして自分の滑稽さに苦笑いした。「本当にどうかしていると思うよ。ああ、これほど痛いなんて予想外だった」
ゆっくりとてのひらをのぞき込むと、思いのほか深い傷口から、暗赤色のものがあふれ出た。ヨウは手を高い位置に保ったまま、椅子に腰を下ろした。「い、ちちち」
カリカがヨウの手首をつかんだ。「見せてみろ」
エリアスは一定の距離をとり、ヨウに見当違いの激励をする。「ヨウ、自分で魔法を使って治してみせて。あなたは治せます、必ず」
カリカは次期領主様を、「まったくコイツめ、信じられない」という目で見た。「こいつは魔法が使えない。わかっているだろう、エリアス」
エリアスは首を振り、語りかけた。「彼がこの世界に降臨したのには、きっとわけがあるはずです」
「わけならあるさ。叔父が作った量子転換装置が原因だよ。――聞いてくれ。君らには僕を治せない」
2人は顔を見合わせた。
「この世界のどの魔術師にも、本職の治療師にも無理なんだ。僕に治癒魔法は効かない。今から証明してみる。でもその前に、そこの机の上にある機械をとってくれないか」流れ滴る血が、床に点々と染みを落としてゆく。ヨウはちょっとばかり後悔しかけていた。こんなに思いきり切れるとは。もうすこし加減しておけばよかった。
カリカが携帯を差し出す。ヨウが無事な方の手でそれを受け取ると、「カリカ、僕に治癒魔法をかけてみてくれないか」と願い出た。
「ああ、もちろん。あんたもいいよな、エリアス」
エリアスは厳しい表情でうなづいた。
いにしえより伝えられた術式は、魔術師の中で適切な呪文の復唱を待っている。カリカが水神ウォルトをブートし、治癒の呪文を唱えた。ヨウの傷口にかざされた手が淡く光る。同時に、ヨウが右手で握る機械が小さくザザザと鳴った。ヨウはその音に耳を傾ける。しばらくすると、おや、というようにカリカの表情に微妙な変化がみえた。「おかしい、手応えがない」魔術の術者に必ず戻ってくる、ある種のフィードバックが感じられなかったのだ。「そんな、治癒が効かない」
次にエリアスが試すが、ヨウの傷口はそのまま。いや、よく見れば血が凝固しかけていたが、これは誰にでも見られる、ごく普通の止血作用だ。魔術は関係ない。
ヨウは静かに言った。「魔術は効かないんだ。本当に」
「なぜ……そんなことがわかる?」とカリカ。
「僕の体には、この世界の人間――ひょっとしたら動物にも備わっているかもしれない“人工的な”治癒機序が存在しないんだ」
「「?」」
ヨウには、2人の頭上に大きなハテナが浮かぶのが、目に見えるような気がした。
つまりこういうことだ。通常の止血作用では、血小板が傷口にあつまり、フィブリンを放出して止血する。同時にマクロファージが傷ついた細胞や雑菌を排除する。そして、細胞成長因子が放出され、傷口を新しい細胞が覆ってゆく。これが一般的な動物にみられる傷の天然的治癒過程だ。人間も然り。一方、治癒魔法とは――。
「これは僕の推測だけど。部分的には証明できたと思う。この世界では、極微の機械たちを僕以外の全員が飼っている。恐らくね。それは、いつもは不活性なんでしょう。ただし、治癒魔法をかけた瞬間、小さな召使いたちが傷口を消毒し、さらにはサイトカインや細胞成長因子を誘導して、“炎症”という普通の怪我につきものの過程をすっとばして、肉芽細胞を成長させているんだと思う。魔術師たちが使う魔術のうち、すくなくとも治癒魔法に関しては魔術でもなんでもない、これは魔法と見紛うばかりに発達した科学のなせる技ですよ」
魔術師から放出されるマイクロ波は、体内の召使いたちを目覚めさせるトリガーであり、アクセスキーであり、それらを活気づかせる動力源でもあるのだろう。携帯を持っていなければ、でなければフィデスの驚異的なテクノロジーと関わっていなければ、こんな事に気付きもしなかったに違いない。
「これでわかってもらえましたか、エリアス。僕は神のご加護を受けていません。超越した場所からパワーを引き出すこともできないようだし。これでも天界の使いだと思えますか?」
カリカとエリアスは黙っていた。
ヨウは皮肉な笑みを浮かべた。「どうやら、僕は神の奇跡のサポート範囲外のようですよ」
しばらくして、カリカが過剰に顔を近づけて、お願いしてきた。「あたしたち以外にはそのこと、言わないようにね。約束して」
その迫力に少々圧倒されつつ、ヨウはうなづく。「……わかった。あ、それはそうと、やっぱり手が痛いんだけど、どうしよ?」血圧がかからないように、心臓より上に持ち上げた手の傷を、彼女たちにも見えるようにした。
エリアスがすかさず申し出る。「治癒効果抜群のオムニ教会印の聖油ならあります。さっそく塗ってみましょうか」
カリカが目をむいた。「ちょ、エリアス。……ま、いいわ」
エリアスはあの日のヨウの不敬な発言に、罰を与える気らしい。良き信徒としては仕方のない反応だった。カリカは横目でヨウを盗み見た。哀れむように。
エリアスが個性的な懲罰の準備をするあいだも、ヨウは性懲りもなく静かに考えを追っていた。
――そういえば、数ヵ月もこの世界で暮らすうちに、自然界に溢れているだろう目に見えない機械たちを、僕もたっぷり取り込んでいたはずだ。それなのに僕の体内にはナノマシンが巣食っていない。なぜだろう? いくつかの仮説は立てられるが、どれも検証するには、地球にある高度な検査機器が必要だろう。
ヨウの思索は、オムニ教会謹製の聖油が傷口に触れた瞬間、どこかに消し飛んだ。そして、帝国の版図で最もしみる薬を付けられた哀れな犠牲者の悲鳴が、城に響いたのだった。