□17 踏み抜いた地雷
ヨウは手元に置いたゴワゴワした紙に、文字の練習がてらこの世界で学んだことを書き留めていた。書き留めるといっても、つたない単語の羅列に過ぎないのだけども。
「はぁ、ここでも戦争か」思わず溜息がでる。気分が落ち込むのには、原始的な酸化反応照明――つまりランプ――による、ゆらめき移るほの暗さが一役買っているような気がした。昨日までは、ランプの明かりの下で字の練習をするのは、一種独特の静謐な雰囲気があって、気に入っていたのだが。
コンコン。廊下を渡る足音が、ヨウの部屋の前で止まり、ノックされた。
「ニシミヤ様、ランプに不都合はありませんか」
その幼く聞こえる声は、新入りメイドさんのものだった。
「ああ、お願い」
失礼します、と小柄な女の子が、蝋燭の束を提げて現れた。
「いつも悪いね」
少女は驚いたようにヨウを見て、すぐに視線をそらせた。「ヨウ様くらいです、私たちなどに丁寧に接してくださるのは」
「そんなことないだろう、エリアスなんかいつも丁寧語を忘れないじゃん」確かそうだったはずだ。違っただろうか。最初はものめずらしく感じた使用人たちのことも、慣れとはおそろしいもので、ヨウにも次第に空気のように感じられてくる。
「きみ、いつもどうしてランプの油が切れかけてるのがわかるの?」
「ええと、その、それが私の役目ですから」少女は、それですっかり説明がつくと考えているようだった。
「そうか。役目だとしてもすごいよ」
「そんな」疲れのためか栄養不足のためか、血色が悪い頬がわずかに赤らんだ。褒められるのに慣れていないらしい。「私は前にお勤めしていたお屋敷でも火の番をしていました。それでなんとなく判るんです」
「ふうん」
どうやら彼女は何年もこの作業をしているらしい。いったい、何歳からランプの炎ばかり眺めているのだろう。「ねえ、少し教えて欲しいんだ。僕はこの世界のこと何も知らないから」
――まずは、ええと……そういえば知らなかった。
「君の名前は何ていうの」
少女はつっかえながら答えた。「ア、アルティマです」
元の世界で、どこかのメーカーが作っていた車のような名前だった。アルティマは、なにか言いたそうにしている。ヨウは手振りで促した。
「他の方は私達の名前など気にしません」
「そうかな。そういえば君の名前、よくある名前なのかな。前にも聞いた気がするよ」
「はい。よくある女の名前です。“最後”という意味です」
「そうなの?」
アルティマがかすかにうなづいた。「もうこれで最後の子になりますように、と願ってつける名前です」
ヨウは絶句した。21世紀の少子化時代しか知らないヨウには、そんな名前を付けるセンスが理解できなかった。でも、と思いなおす。日本にだって、もうこの子が最後になりますように、という願いを込めたスエやタエ、キエという名前があった。そんなに昔の話じゃない。
「わたし、もう行かないと」アルティマは申し訳なさそうに、ぎゅっとエプロンを握っている。彼女は背後の扉の方を、チラリと盗み見る動作をした。
「ごめんね、仕事の最中に呼び止めちゃって。でもちょっとだけ、仕事切り上げる前に、この世界の農業手法について教えてくれないか」
「のうぎょうしゅほう? も、申し訳ありません。わたし、難しい言葉はわかりません、ニシミヤ様」
「そっか。じゃあアルティマや他の子供たちが通っていた学校は何年制だった? 学校制度の概要が知りたい」
「…………行ってません」消え入るようにつぶやきうつむくと、アルティマは唇を噛んで涙をこらえた。
「あ、ごめん、悪いこと聞いたか、聞いたよね」
「ぐすっ、わたし早く下に行かないと。おこられるんです。古い燈芯草を抜いて、蝋を溶かして、新しい蝋燭を作らないといけないのに、まだやってないんです。うう、だからごめんなさい。せっかく聞いてくれたのに役に立てなくて」アルティマの、褐色をした粗紡毛織スカートが揺れる。
天啓のように、一つの可能性がヨウに降ってきた。ひょっとして、いつもこの建物で一番遅くまで起きている自分のために、アルティマは、眠ることもできずに待機しているのではないのか。彼女の疲れた横顔を眺めていると、その考えがますます正しいように思えた。
「いや、いいんだよ。邪魔して悪かったね」ヨウは心底申し訳なく思った。
「ううん、わたし達の役目はご主人様が命じた仕事をすることですから」少しだけ、笑顔が戻りかけたアルティマは、ヨウの次の言葉を聞いたとたん、無表情になった。
「せっかくトラクトで言葉や一般常識を転写したはずなのに、役に立たなくてさ。元になったヤツはデニスっていうんだけどね……どうしたの」
ただ耐え忍ぶことだけを知っていて、恨みや嫉妬といった反発心が薄い少女。彼女の瞳は、一度はこらえたはずの涙で、再びいっぱいになった。
「もう、これで、失礼します」震える声でそれだけ言うと、アルティマは身を翻して、部屋を出て行った。
「なんだろう。地雷、踏んだかな」妹以外の女の子をはじめて泣かせてしまったという衝撃から、その独り言は、ヨウが自分で想像したより、ずっと弱々しく響いた。