□16 歴史
この日、「歴史を学ぶなら教会」ということで、ヨウはエリアスに連れられてヴィア魔道教会に顔を出すことになった。ここはハム魔術同盟とは別系統の魔術組織で、貴族の子弟や教兵が多く所属している。
エリアスは嬉々としてシンプルな衣服に装いを改め、庶民に変装した姿でヨウの前に現れた。そして、驚いたことにヨウの手を引いて城の抜け道から市街に出た。なんだかローマの休日っぽい展開だった。
行き先に迷うことはない。低い建物ばかりの街にあって、その建物はランドマークだったからだ。この街随一の高さの尖塔を誇るヒレンブランド・オムニ教会。その敷地内にヴィア魔道教会の建物があった。付属の教会墓地には、真新しい墓石が処狭しと並び、そこはかとなく空気が冷たく湿っていた。
教会の敷地に足を踏み入れてしばらくすると、ヨウは教会に来たことを後悔しはじめていた。
「あのー、エリアス、これ教会だよね。なんか、あからさまに邪教の神殿っぽいんだけど……」
邪教、という単語が耳に入ったのか、近くに控えていた神官らしい男が、立ち止まって振り返る。
「じゃーきょうの夕食は何にしましょうか!(ヨ、ヨウ。あなた正気ですか。こんなところで。邪教は邪神アイを信奉するテクサカでしょ)」そうささやくエリアスの頬は、ピクピクと引きつっている。
ヨウは心から反省した。「じゃーきょうはお肉料理がいいな(エリアスごめんなさい。違くて、そういう意味ではなくて!)」
うさんくさそうに、ヨウとエリアスを交互に睨んだ神官が、首を振って立ち去った。それを確認して、ヨウは教会を再度見上げる。
「でもさエリアス、この壁一面の白骨なに?」
「モンスターの骨です。中央に埋め込まれているのは大型のモンスター種族、ギガスの頭骨です」
「両サイドのオプションみたいのは猿、じゃないね」
「ええ、トロルですね」
不気味な骨の祭壇。オムニ教の教会と知らなければ、間違いなく、極めてヤバイ邪教崇拝者の巣窟だと勘違いするところだった。本当にここでまともな話を聞けるのか、ヨウには疑問に思えてきた。
そんなヨウの危惧などつゆほども知らず、エリアスは教会の扉に手をかける。正面扉が重々しく鳴って、うつろな音が響いた。明るい室外に慣れた目が、ゆっくりと薄暗い室内に暗順応してゆく。
ヨウは感嘆の声をあげた。「これはすごい」
「嬉しくおもいます」エリアスの口調はいつもより堅苦しい。
「エリアス、まだ怒ってますよね。さっきはほんと失礼しました」
「本当に反省しているのかしら」
「本当ですよ。この壁画の素晴らしさも本当にすごい」科学技術が発達していないからといって、芸術を生み出す工芸技術が劣るわけではない。そんなことはわかっているつもりだったけど、この細密な壁画には驚いた。「でも、あれは何でしょうね。城の食堂にもあったけど」 斜め45度上を指差す。そこには、ゴージャスな額縁に小太りなオッサンの肖像画が。
「何って、オムニ教の始祖に決まっているじゃないですか!」
「ああ、ですよね、やっぱり」こういう肖像画を飾る心理がヨウには異質に思えた。ついつい、こう言いたくなった。「キリストはこいつに比べれば相当美形と言えるな」
そんな不敬な考えを知らぬが仏と言うべきか、ヴィア魔道教会の守衛がいなくなったのを確認して、エリアスは饒舌に説明をはじめた。ヨウもあわてて入口付近の壁に向き直る。
「入口から歴史が綴られています」オムニ歴、つまり聖暦ゼロ年が、オムニ教の出現した年だった。「いきなりで申し訳ありませんが、この時代のことは、実はよくわからないのです。紀元2000年頃から後のことは記録にあります。“分裂”によって天人と人の系統が分かれました。以後、人は更にナチュレとリモデルドに分裂したのです。このナチュレが人族の直接の祖先です。各地に残る聖遺物はこの時代の末期のものだと言われています」
小さな人間が天を見上げる絵が描かれている。
「あるとき、天人は幽界に潜む邪神アイにナチュレの居所、つまりわたくしどもの世界を教えました」“アイ”と言うとき、エリアスは汚いものを見たかのような口調になった。次の壁画は、天も地も赤く染まっている。
「アイは天空から人々を脅しました。そのとき、リモデルドは脅しに屈し悪魔の手先としてみじめなモンスターとなることを自ら選択しました」リモデルドの体が右から左に向けて変形する様が描かれている。それは人に似た姿からおぞましい化け物への変化だ。ほの暗い壁面にうつろうランプの陰影が、この上ない演出効果をかもし出している。
「天人にも故郷を思う気持ちがわずかとはいえあったのでしょう。彼らの一部がオムニの神々に助けを求めましたが、全ては遅かったのです。地上は焼かれ、13の神々のお力によってアイが天の向こうに追いやられた時には、ナチュレはほとんど死に絶えました。また、常々神々を軽んじてきた罰か、天人も、彼らを偉大たらしめていた力を失っていたのです。アイの放った毒は大地と空気に呪いをかけ、異形の者を生み出す元となったのです。アイは穢れた天空の向こう側から、必死にわたしたちの祖先を攻撃しました。しかし境界の神テルミヌスが13神の指示に従い、大月の姿をとって世界を守ってくれたので、無数の穴はあきましたが、世界は守られました。その名残りはいつでも見ることができます。星々です」
それから1000年分の空白は、人族や人に似た姿形の存在が相争う光景が広がっている。近くに寄ると、油彩だろうか、ひび割れた塗料が、小さな山脈のように盛り上がって塗られていた。そして、次の場面では“MMMCLXXIV”と、後光が輝くローマ数字が、地上を照らしている。これにはどういう寓意がこめられているのか。
「聖歴3174年、スリミア大教国の教化兵団、つまり今の教兵ですね。彼らがオムニ王国を建国しました。スリミア以外にも幾つか国があったようですが、今でははっきりしません。この時代に炎冷系、治癒系、防御系、通信系魔術が誕生して、わたくしたちの生活はより安全で豊かになりました。そして35世紀半ば頃、エルフ女王セレスを中心にまとまった三氏族連合軍と人族軍が不幸にも激しく戦いました。もちろん今は皆仲良くしていますよ」
壁画の中で人に向かって剣を構えるのは、エルフ族やドワーフ族なのは明らかだ。
「オムニ氏族連合帝国の“氏族”というのは、人族、エルフ族、ドワーフ族と、ええと――」
「フェンリル族です。この4氏族が帝国を形作っています」とエリアス。
「この街のあたりには全然いませんよね。人族しか見かけたことがない」
これは、エリアスには意外だったらしい。わずかに仰け反ってヨウを見た。「知らなかったのですか。いえ、あなたにとってはそういうものかもしれないですね」エリアスは長い髪をかき上げ、片方の耳をあらわにした。「ほら、この通り。ヒレンブランド家はエルフ族の有力氏族ですよ」
エルフと聞いて誰もが想像する通りの耳が、そこにはあった。ただ、アニメやなんかのエルフ耳よりは控え目な形をしている。
「この数百年で混血した結果、エルフ族の特徴は薄れる一方なんですよ。わたしは昔ながらのエルフの特徴を比較的多く残していますけれど」
「え、えるふだったとは……」とかな表記になるのを抑えきれないほど、ヨウは混乱していた。
「意外でしたか? カリカの氏族は、大昔に東方から北部タイルに移住してきたらしいです。ドワーフ亜種とエルフ族の血を引いた、めずらしい一族なのですよ。まだ聞いていなかったのですね」
ヨウは額の汗を拭った。いまさらながら、自分がファンタジー世界のど真ん中にいることを実感した。
エリアスは壁画の解説を続けた。「いよいよテクサカが登場します。邪神アイの一の腹心、並び立つ魔王エルモとサイン。3585年のこと、魔王は傲慢にもわずか数人を従えて帝都スリミアに乗り込み、聖遺物アルトゥリ・ムンディを差し出せと、オムニ教会に求めました。もちろん教会はこれを拒絶しました。
当時は今のような要塞教会もなく、アルトゥリ・ムンディは全ての民衆の前で、むきだしのまま偉容を誇っていたそうです。事件以後、聖遺物は要塞教会の奥に隠されました。本当に危ないところでした。当時の教会が博愛の心から魔王たちを招き入れていたら、今頃帝国は滅亡し果て、大地にわずかな痕跡を残すだけになっていたでしょう」エリアスは雄弁だった。その声は聞く者の耳に滑らかに響いた。
「すると、魔王エルモは得るものもなくすごすご帰ったわけですね」
「ふふ、そうですね。でも、それで大人しく引き下がるわけがありませんでした。何しろアイの代理人、悪の権化たる魔王ですからね。3597年、突如として魔王率いるテクサカ軍が当時の辺境に現れ、帝都目指して侵攻をはじめました。これがいまも続く聖戦、オムニ-テクサカ戦争です」
「テクサカ」ヨウは繰り返した。
「テクサカは魔王の手足として貢献する悪魔の国です」壁には、恐ろしい風体のモンスターの大群が、人族の兵士を圧倒する様が描かれている。やがて周りから異形の者の援軍が人族に駆けつける。「そして、それまで人族と反目しあっていた異形の者たちも、徐々に真の信仰に目覚め、紆余曲折を経て帝国に加わる道を選びました。ヒレンブランド家もこの時期に帝国に加わったのですよ」
最も新しい壁画には、団結した人々が武器を掲げ、銀の鱗に覆われた、奇妙な形をした龍に対抗する様子が描かれている。「時に3605年、主要4氏族が協力し、テクサカに当たることになりました。これがオムニ氏族連合帝国の成立です。あとは説明するまでもありません。偉大なる神に見守られ、わたしたち帝国軍は勝利に勝利を重ねて今に至るのです」最後のほうは、エリアスの息づかいは興奮したように荒くなっていた。「あと一息で邪悪な企てを阻止できます。そうです、勝利の最後のページは、わたしたちが記すことになるのです!」
ヨウは激しい言葉に驚いてエリアスを見た。「よく……わかりましたです」
まる1世紀もの間、オムニ氏族連合帝国は勝ち続けた、と彼女は説明した。しかし、ヨウは言い知れぬ不気味さを感じていた。あのたおやかなエリアスを狂女のようにさせるこの戦争は、他の人々の精神にも食い込んで、じくじくと血を流し続けているに違いない。いや、ひょっとしたら傷口は化膿して毒素を撒き散らしているのかも。エリアスは帝国が勝利に勝利を重ねていると言っていたが、狂信的な精神の見る大勝利とは、本当に額面通りのものと言えるのだろうか。大本営発表なのかもしれない。
天井の高い魔道教会の室内が急に涼しくなった気がした。主要4氏族がまとまるためには、精神的基盤としての共通項、すなわちオムニ教が必要だったのに違いない。異なる外見の人種や文化が混じった多民族社会が円滑に機能するためには、誰にでもひと目でわかる単純なイデオロギーの信奉を、必要とするのだから。