□15 月におわす神々
「もうすぐです」
「本当に神様が?」
「ええ。月を見て。ほら、今」
オムニ教会の鐘が鳴った。凍月の背後から何か、白いものが湧き出してくる。「あれは……」
月の左右からゆっくりと広がる、形も定かではないモノ。
エリアスの肩がヨウの腕に触れた。「あれが光の翼です。13の月におわす神々が羽を伸ばしておいでなのですよ」エリアスの指差す重月からも、純白の翼が伸びていた。それはまるで、そう、まるで蒸気のような。目をこらすほど、それは小月から排出された蒸気のように思えた。だが、ヨウの故郷でも見慣れた大月からは、白いものは出ていなかった。
「大月からは羽が生えてないみたいだけど。あそこには神様が割り当てられていないんですか?」
「いいえ、あの月は境界の神テルミヌスの家よ。天球の一番外側で結界を張る役割を果たすのが大月。その向こう邪神“アイ”の領域です」
「天球の向こう?」
「そう。大月は天球の表面を28日毎に巡回して、天に開いた無数の穴を、そうね、点検している」
ヨウは、どこかの古代文明に似たような話があったな、と考えた。「天に開いた穴ってのは、ひょっとして星のことですか?」
何を当たり前のことを、と思われただろうか。いや、思い過ごしだったらしい。エリアスは嫌な顔一つせずにヨウに答えてくれる。「正解です。天球の向こうは白熱の炎に満たされているわ」
そこまで言って、エリアスは少し改まった口調になる。「ヨウ、あなたはオムニ教のことも帝国も知らなかった。あなたは――」
二人の声が重なった。「僕は」「あなたは」
ヨウは微笑み、身振りで先を促した。
エリアスは、なぜか橋の下に捨てられた子猫のように、寄る辺ない表情を浮かべている。そして、決心したのか、真摯な面持ちでたずねた。
「あなたも――あなたは、不死ですか」
「え?」
「あなたは、神々が遣わした――ではありませんか?」
「なんですって?」うまく聞き取れずに、聞き返すヨウ。
エリアスは、もはや悲愴なほど真摯な表情だ。「えと、その、だから、神々が遣わした、その……“救世主”ではないかな、と……」エリアスの語尾は小さくなって途切れた。
「なんでまた僕が? エリアスみたいに魔術も使えないし、何もできないのに」
「でも無から出現したでしょう。だから」
「消去法で、僕を神様が地上に放り出した天使だかメシアだか、そういう存在だと思ったんですか?」
――なんてこった。そんな期待を寄せていたから、僕がエリアスの近くにいるのを許してくれたのか?
ヨウは面くらった。もしその勘違いこそが、エリアスがヨウにみせる厚遇の理由なのだとしたら、ヨウの現在の立場は、はなはだ脆い基盤の上に成り立っているということになる。
「違うのですか? あなたは超越した場所、稲妻の走るという天界からいらしたのだとばかり思っていました」
「違いますって。以前話した通り、僕は地球の日本と呼ばれる地域から来ました。フィデスという悪い奴らから分捕った部品で、なんとかでっちあげた装置を使って、偶然この世界に来ただけなんですよ」
エリアスは一拍おいて、こう尋ねた。「この世界はお嫌いですか?」
なぜそうなる。ヨウは困惑しつつも答えた。「いえ、素晴らしい世界だと思います。生屍もいませんし、いや、モンスターや魔王はいるんですよね。でもあちらよりかなりましです」
オムニ帝国の宿敵、テクサカを統べる並び立つ魔王。それは、邪神アイのから力を得た存在らしい。
「そうですか、ではこの世界を見捨てて天界に帰ったりはしませんね?」
「もちろん帰りません。天界に、じゃなく地球に、です。むしろ故郷に帰る方法がなんとか見つからないかと、探しているくらいです。申し訳ありませんが救世主でもありません。人間です、ごく普通の」
「本当に?」エリアスの持ち上げられた眉が、言葉に依存しなくても、立派に疑問を伝えていた。
「本当です。実際、魔術も使えませんし」
エリアスはふらりと数歩動いて、バルコニーの手すりの間から顔を出した花を、指先でもてあそぶ。「ただの人間でしょうか? あなたが現れたとき、確かに魔術の波動を感じました。それに――」
まあいいわ、とでも言うように、彼女は軽く肩をすくめる仕草をした。「来年。ヨウには言ってもかまいませんね。ええ、そうに決まっている。来年の春分、敵の油断をついて、オムニ氏族連合帝国は“イウビレオ”を発動します」
「イウビレオ?」
「そうです。明くる3697年、来年は魔王率いるテクサカとの長い戦争がはじまって、ちょうど100年目なのです。来年こそ邪神アイの目論見を崩すため、我が国はテクサカに侵攻しようとしています」
「100年!? そんなに長く?」
「テクサカとオムニ帝国は、互いを滅ぼそうと100年にわたって争っています。あら、このことにに触れたことありませんでしたか?」
「たぶん、そうですね。聞いたことないです。でも、なんでイウビレオ、でしたっけ? そんなことを――」
「知っているのか? ええ、だってわたし、こう見えても私は辺境領北部タイル防衛軍の将校ですもの。正確にはヒレンブランド連隊の連隊本部付大尉です。……意外でしょうか」
「ええ。――あ、すみません。でも連隊ですか。3000人を従えているんですね。軍人さんだったとは驚きました」
「いえ。3000人なんて。連隊といったら1000人くらいですよ。それにわたし、お飾りみたいなもので、だから連隊本部付、なのです。だから、魔術師だけど魔術大隊には所属していません。わたしの従兄弟が指揮をとっています。来るべき戦いでは、わたしも魔術大隊に志願しようと思っています」
ヨウが興味を示すと、エリアスはさらに説明した。「連隊の兵たちは、普段は別の仕事をして自らを養います。カリカも普段は傭兵をしていますが、ひとたび召集がかかれば、連隊に編入されます」
「予備役みたいなものですか。下っ端中の下っ端だったけど、僕もいちおう軍人だったんですよ。はは、ほんの数年前まで戦争なんてプロのすることだったんですけどね。世界が生屍のせいでめちゃくちゃになってしまって、とにかく人手が必要でした。だから、僕のような高校生にまでお呼びがかかっちゃったんです」
「では、本当にヨウの本業は学生さんだったのですか?」
ヨウはうなづいた。少し遠い目をしていたのだろうか。実際、ヨウはこの世界の軍事制度について物思いしていたのだが、沈黙をどう捉えたのか、エリアスがこう言った。
「ヨウは魔王を滅ぼすために、この世界に遣わされたのではないのですね。では、何のためにあなたは……いやだ、ごめんなさい。違うのです」
ヨウはわざとおどけて言った。「いいんですよ、どうせ僕は無駄飯喰らいの役立たずですよ」
「そういう意味ではありませんからっ。なんでこんなく話をしているのかしら、わたし。せっかくの休息日なのに……」
戦争。この世界についてずいぶん詳しくなったと思っていたのに、こんな基本的なことを知らなかったなんて。1ヵ月近くこの世界で暮らしていて、戦争中だなんて誰も言ってなかった。ただ、邪悪なテクサカ、凶悪な魔王という表現は、慣用句のように使われていた。もはや終わりのない戦争が生活の一部になっていれば、ことさら戦時というものを意識もしなくなるのだろうか。
しかし、100年続く戦争とはどんなものなのだろう。少しでも故郷の戦争と似たところがあるならば、それは心胆寒からしめる現実だろう。この世界の細部に淀んだ暗部を思い起こせば、思い当たることだらけだ。垢じみたボロの衣服を大事そうに着る民衆、木組みの粗末な家々、やたらといる傭兵、目を瞠る驚異的な攻撃魔法。
――そうか、ここは戦争が生活の一部になった世界だったんだ。
ヨウは改めて、魔法が幅を利かせるファンタジックな世界の夜空を不安な面持ちで眺めた。厚い雲の群れが、羽を生やした月たちにいまにも覆いかぶさろうとしていた。