□10 分岐点
ふっ、仕事しないのは天下り役人だけじゃないんだぜ……
じんわりと筋肉痛の兆しが感じられる足を引きずり、ヨウは歩き続けていた。距離的には、目的地まであと十数トエル程度らしい。荷物もだいぶ負担が減ったし(保存食を節約する必要もなくなったので、大部分食べてしまった)、村の青年が半分持ってくれている。その青年はというと、村の境を越えた辺りから眼に見えて寛いでいるように思えた。村の境界内で厄介ごとを起こさないか監視していたのかもしれない。
峠を越え、川が流れる平原にさしかかると、エリアスがなだらかに続く緑の稜線を指差した。「あの丘を越えたら城に着きます」
カリカも同意した。「もうすぐ城の尖塔が見えるぞ」
丘陵に続く夏の木々は豊かに葉を茂らせて、街道に日陰を投げかけている。今回の旅にみるべき成果はなくとも、住み慣れた故郷に近づくにつれ、エリアスの表情は軽くなっていた。時にはうつむいて、その顔に暗い影が差すこともあったが、そのたびに、ヨウは声をかけて慰めるべきか思い悩んだ。うじうじと思い悩みはするが、結局優しい言葉ひとつ、エリアスにかけることもできずにいた。
ヨウは気まぐれにたずねた。「あのさ、カリカ」
「なんだ。というか、お前どういう権利があってのあたしに対するタメ口だ」
敬語の崩し方おかしかっただろうか。ちょっと心外に思ったヨウは、やんわりと抗議する。「大して歳変わらないじゃん。せいぜい22、3歳でしょ」
カリカは、さも呆れたかのように顔をしかめた。「あのなあ。19だよ19歳。レディーに向かって逆にサバ読むってありえないだろ。ったく」
ヨウは19に見えねぇ~。という感想を胸に秘めた。そう言われてみれば、日焼けした肌は、きめ細かく柔らかそうだ。その健康そうな滑らかな肌に、汗が薄くにじんでいる。
「じゃぁレディー様、質問です。今から挙げる単語で聞いたことあるのがあったら教えて下さいますでございましょーか」
カリカは馬鹿にしたように鼻をならした。「ふん、皮肉とは上等だな。質問してみなさい」
「地球、生屍、フィデス」
「なんだって。地球?」いきなりカリカが重要キーワードに反応したものだから、ヨウは期待して彼女の顔を見た。
「聞いたこともないわ」
それなら思わせぶりな反応をしないでくださいよ。ヨウは心で突っ込んだ。「そ、そう。それじゃあ……電気、石炭、蒸気機関、飛行船、原子、細菌、進化論」
「うーん、ないね。エリアス、聞いたことある?」
首を振るエリアス。
ヨウはそれらの単語を英語で繰り返してみた。
エリアスは少しうつむいて考える素振りをみせた。「ヨウ、あなたはアトムと言いましたか。それに似た言葉で、アトーモという言葉が古代の魔法用語にあったと聞いたことがあります」
「ああ、そういやあったな。『アトーモを成す2つのバリオス、8つの色、6つの味』というやつだろ」とカリカ。
「ふーむ。じゃあさ、ケプラーの――いやこれじゃだめか」ヨウは固有名詞を排して言い直した。「地動説、万有引力、微分・積分、羅針盤、三角関数……」
「羅針盤くらい知っている。他はよく聞き取れないぞ。お前がいた異世界では、そのチドウセツってのは何に使うんだ、もしかして食べ物か?」
エリアスは、唇に人差し指を軽く重ねて、視線をさまよわせていた。「私の家庭教師が三角関数という言葉を使っていたと思いますけど……でも算術は苦手なので……」と語尾を濁す。
ヨウは青空に浮く積雲を見上げ、嘆息した。ひどく人口密度が低い感じなのに、この世界の住民がこれほど貧しいことを妙に納得した。人影疎らなアクターボに隣接した村に比べ、領主の城に近づくにつれ、人家と、往来を行き来する人は増えていった。とはいえ、その暮らしぶりは一向に良くならない。一体何を生活の糧にしているのか不明の若者が、胡坐をかきながらヨウたち一行をぼんやりと眺めているのに頻繁に出くわす。ヨウには、あの恐ろしくも懐かしい世界が急に遠くに感じられた。このローテク魔法世界が、ヨウの世界に役立つことなどありそうにない気がした。科学技術だけを比較すれば、地球の方がどう見ても5、6世紀は進んでいる。
――いやいや、魔法がある。地球になくて、この世界にあるもの。これこそ、故郷を救う鍵なのかもしれないじゃん。
そんなヨウの打算的な内心など知るよしもないエリアスとカリカは、こころよく魔術について教えてくれた。なんだか騙すようで悪い気もするが、危機に瀕した自分の故郷のためならば、どんな悪事でもジャスティス! ヨウはそう覚悟した。
魔術力量、すなわち魔力は術者の技量・訓練・体調によって変動する。しかし、どの術者にも共通している項目もある。たとえば、回復速度だ。自然の回復速度は遅々としたもので、通常は一晩寝ても回復しない。それどころか魔力大量消費の翌日から翌々日は、酷い体調不良と苦痛で、まともに魔術を使えない者がほとんどだ。そうした欠点をカバーし、魔術の連続行使を可能にするのがトラクトである。
トラクトは大規模な魔術行使後の魔力枯渇状態から程度回復させてくれる。どの程度回復させられるかは、トラクトの値段によってまちまちで、値が張る特殊な加工を施した(例えば翻訳トラクトとか)ものは2000セツル、補充用トラクトでも800セツル程度は余裕でするのだそうだ。オムニ歴32世紀における、人族によるオムニ王国建国以後、長足の進歩を遂げたトラクト技術だが、万能からはほど遠い。1週間に2個以上のトラクト使用は、どのトラクト製造ギルドも厳禁しているのが現状だ。
カリカは傭兵らしく、トラクトについて進歩的かつ実戦的な考えかたを持っていた。
「もし複数トラクトの使用が可能になれば、魔術集団戦の様相は大変貌を遂げるに違いないんだけどね」
「集団戦? 戦争に魔術を使うのか。うん? ってことは、この世界にはオムニ帝国の他に国が幾つもあんの?」とヨウ。
「ああ、ある。アクターボに割拠する蛮族を除けば、一つだけ。魔王が支配するテクサカ――」
カリカは最後まで言うことができなかった。熱気で乾燥した道の先に、蜃気楼のごとく現れた者たちの強い魔力を感知したからだ。不意に周囲がすうっと薄暗くなる。太陽を雲が遮ったわけでもないのに。
「これは……人払いの術」エリアスが緊張した面持ちで周囲に視線を巡らせた。こんな街道のど真ん中で、ブラインドの術を改造した魔術が発動していた。これ使われるところ非合法活動ありと言われるほど、犯罪者御用達の不吉な術だった。しかも、この魔術を行使した魔術師の姿がエリアスたちに確認できなかった。遠距離から有効な術を使えるとなると、数人の魔術師が協力しているか、相当な魔術の使い手か、どちらかだろう。
「みんな、このまま進むよ」とカリカ。
「でも」エリアスはしり込みした。「あなたもまだ魔力量が回復してないでしょう。もし刺客さんが攻撃魔法を使ったら、太刀打ちできません」
カリカは厳しい表情でうなづいた。「だったらこうするまでさ」彼女は緑のトラクトを手に取ると、おもむろに胸の谷間に押し付けた。ゆっくりと結晶体が皮膚に沈みこんでゆく。
カリカの指を握って、エリアスが言う。「なんて無茶なことを。後悔するわよ」
片頬をひきつらせ、くいしばった歯の間から、搾り出すようにカリカがこたえた。「後悔はいつものことだよ」
ヨウは二人に何も声もかけられず、トラクトが体を駆け巡る、あの表現しようもない感覚を思い出して、ただ背筋を震わせた。
「あんのー、ではこれにて失礼します」
そのとき、荷物持ちの青年が乱暴に荷物を放り出して一目散に逃げ出した。その弾みで三角形のコーンが転がり出て、耳障りな音をたてた。ヨウは、自分の足下にそれが転がってくるのを目で追った。
トラクトを使った苦痛に苛まれているのだろう。不自然な早口で、カリカがヨウに告げた。「あんたも逃げていいよ」
ヨウは内心で頭を抱えた。それはないだろう。ゲームなら、ここはデッドorアライブの重要な分岐点に違いない。こういう場合、背中をみせる卑怯者には、死亡フラグがスゴイ勢いで立ち上がるのがセオリーというものだ。ちょっと黙り込んで、ヨウは決断した。そして、適切な言葉を慎重に選び、自分の行為をスマートに正当化しようと努力して、あきらめた。どんな表現をとうろうと、いずれにせよ、彼がしようとしていることは、赤面モノのアナクロニズムなのだから。
どんな救いの手でもありがたく受け取るほど、落ちぶれた地球人類のために、異世界人にうまく取り入って利用するために恩を売るのだ。ヨウがそう自分に言い訳するのは簡単だが、実際のところ、エリアスやカリカのような女の子が危険にさらされているのなら、利害に関係なく、助けて感謝されたかった。
それに、心の奥底では迷信めいた因果応報の論理も渦巻いていた。異世界で知り合って間もない少女に力を貸せば、こちらの世界に来られなかった千華も、危険から守られるような気がしていたのだ。
ヨウは、不純な自分が偽善者めいたことを言うのに対して、恥かし紛れに皮肉っぽい苦笑を浮かべた。そして、鼻につく台詞を搾り出した。「僕も男だ。姫君と自称レディーを放って行くわけにはいかないよ」
カリカは呆れたように乾いた笑い声をたてた。「はあ? なにを格好つけている。魔術も使えないくせして。お前が居たところで、足手まといだ。安全なところに逃げていろ」
ヨウは短く返した。「いやだ」
他のことに考えを巡らせていたエリアスが顔を上げ、まじまじとヨウを見た。そして静かな口調でたずねた。「どうして、逃げないのです?」その表情は、純粋な疑問だけを湛えている。皮肉や非難の色はない。
ヨウは唐突に頭を下げた。「願いを聞いてくれますか?」
「え?」エリアスは面食らい、小さく驚きの声をあげる。
「エリアスさん、あなたは領主様の娘ですよね、偉いんですよね。もし今から戦いになって、エリアスさんの勝利に僕が役立てたら、願いを一つ聞いてください」
カリカが横で笑っていた。「やるなヨウ。お前、傭兵向きだよ。無料の奉仕じゃないと言い切るところが、いっそ潔い。ポイント高いぜ」
カリカからヨウに視線を戻して、エリアスはしかめつらしい表情で小さくうなづき、おっとりと厳かに付け加えた。「承知しました。汝の献身に期待します」そして、エリアスはついに、押さえきれずに吹き出した。肩を震わせて笑う。「ああ、とうとう言っちゃった。いつかわたしもこういう科白を言うことになるのかしらと思っていたの。これ本当は、配下の魔術師が出征するときの決まり文句なのですよ」
ヨウははじめてエリアスの顔をまともに見つめた。烏の濡れ羽色の髪を持つ少年の、真剣な顔がエリアスの瞳に映る。
「できる限り頑張ります」
「ヨウ、そこは命に代えて、というのが決まり文句なんだよ」とカリカが口を挟む。
カリカとエリアスは揃って小さく笑みを浮かべた。ヨウも笑みを浮かべた。一方で、内心では緊張が高まっていた。
――約束したとはいえ、僕になにができるのだろう。
なぜか、人払いの術に支配された空間は、空気が濃密に変化したように感じられた。ヨウは、うるさいほどの蝉の声が消えていることを不意に意識した。木々の下生えや茂みに淀む薄暗がりに、不安な視線を彷徨わせた。