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□1 絶滅からの脱出

以前連載していた小説「ブランチ・デッドエンド」の改稿・圧縮版になります。

 葉月も末の夕暮れ時。一階が駐車場になっている研究所の周りに、いくつもの人影がひたひたと近づきつつあった。ある者は足を引きずり、またある者は大きく頭を振りながら。そのとき駐車場の照明がまたたいて灯り、それまでシルエットだった人々が明りの下にあらわになる。生気のない白い顔、焦点が合わない目、あちこちがほつれ、汚れきった服。彼ら生屍いかばねは一体一体に限って言えば、動きは鈍い上に知力は鈍い。だが、その数と、損失を省みることを許さない盲目的な渇望が、数々の欠陥を打ち消していた。実際、生屍は人類にとって恐るべき敵だった。

 ある生屍が研究所の正面シャッターを揺さぶりはじめると、お仲間たちも、次々と真似しはじめた。群がる生屍たちの手が、シャッターレールから鉄のシャッターを引き剥がした。内側のガラス製ゲートなどひとたまりもなく割れ、彼らは生きた人間を求めてひたひたと正面ホールにあふれだした。

 天井の蛍光パネルが瞬いて、その場にいた全員が揃って天井を見た。

 「来たな」そう低い声で呟いたのは、白衣にネクタイという研究者スタイルの男だった。「こんなことになってすまなかった。この地区は思ったより早く放棄されたようだ」

 男が苦しそうに謝罪すると、一拍おいて西宮陽生にしみやようはそれを打ち消した。「仕方ないですよ。それより早くこっちに来てください」

 ブラウスの胸元をきつく握った妹の千華も、震える声で「早く来て」と懇願した。

 男は国の研究機関に所属する科学者で、陽生と千華の叔父にあたる人物だ。ぶ厚い強化ガラスで仕切られた実験室は、制御室よりも一段床が低くなっている。明らかに人類の感性の産物ではない、奇怪なフォルムの装置類――フィデス製だと一目でわかる謎の物体――がところ狭しと並ぶ。ただし部屋の中央部だけはきれいに片付けられて、本来の白い床が露わになっていた。

無言でキーボードを操る貴秀叔父さんの眼鏡には、制御盤の緑や赤のランプが映っている。やがて、3つのことが同時にできるくらい頭が良い叔父が、訥々と単語を搾り出すように喋りだした。「もう、少しだよ、陽生君。ここで、研究しているのが、フィデスから、盗んだ、量子デバイス、だってことは、知っているだろう?」叔父は、自分から質問しておいて、まるで返答を期待していないかのように喋り続けた。「具体的な研究内容までは話してなかったな。もう守秘義務もないだろうから言っておく。近々、フィデスに対する総攻撃がはじまる。被害が少なかったこのあたりも、瓦礫の山になるだろう。今日、この施設にも放棄命令が出た。とんでもないことだ」叔父の発した言葉には、隠しようもない怒りが滲んでいた。

 「叔父さん、そこは危ないですよ。早くこっちに来てください」と陽生は実験室から呼びかける。

 叔父の眼鏡に反射していた最後の赤ランプが緑に転じた。彼はやっと肩の力を抜いた。「やっとだ、やっとマクロレベル実験に着手するところまでこぎつけたのに。この量子転換装置は、一定の条件を再現することで、こことは別の宇宙と物質をやりとりできる。これの意味するところがわかるか? 平行宇宙に存在するかもしれない進んだ技術を持った人類と、戦略的な協調関係を結べる可能性がある。これはフィデスとの戦争を転回させる鍵だ。希望だ。だからこそ――」

 叔父の説明に耳を傾けていた陽生の注意を、千華の悲鳴が破った。制御室のスイングドアに黒い人影が現れていた。気休め程度のバリケードにしている純水容器の山がぐらついた。

 「危ない、早くこっちに来て!」千華が悲鳴に似た声で促す。

父を少し若くしたような叔父は、千華にとって父代わりの存在だ。叔父まで失ってしまえば、どれほど傷つくか。妹の繊細な心に取り返しのつかない傷をつけてしまうのではないかと、陽生は怖れていた。

 スイングドアの曇りガラスに、いくつもの顔が押し付けられるのが見えた。喋ることもできなければ、生きていた頃のあらゆる人間らしさも消え去った生屍たちは、獲物を前にして凶暴なうめき声をあげる。

 突然、叔父の背後のディスプレイに数字が表示された。同時に棒グラフが赤いラインに向かってゆっくりと上昇してゆく。

 「そこを動くな、中央の赤い円の中にいるんだ。陽生君、千華ちゃんを押さえてくれ」

 実験室の床に記された印が何なのか、まだ説明はない。だが、叔父の決然とした態度と鋭い語気から、ここで進んでいる事態が重要なものであることだけは、陽生も察していた。

 「なんで、叔父さん、貴秀叔父さん! はなして、お兄!」

 千華は身悶えして陽生の手を振りほどこうとした。時には小学生に間違えられるほど幼く見える妹が、意外なほどの腕力を示したことに驚き、つかむ手に追加的な力をこめた。

キッと兄を振り返った千華の目には、涙が宿っていた。「はなして、はなしなさいよ」

叔父はめったに間違いを犯さない。叔父に請われて、生屍に襲われる危険を冒してまで、ここに来たのは確かに間違いだった。だけど、ほとんど常に叔父は正しい。だから陽生は叔父のいいつけに従い、妹の肩を押さえつけた。

 叔父の広い額の下で、眉間に皺が寄る。「なんの準備もなしに送り出すことになってすまない。もはや逃げ道は――憶測の壁の向こう、あちらの世界だけしか残されていない」

 「あちらの、世界?」陽生は、足下に描かれた赤い円と謎の記号を不安げに眺めた。

 バキン、と何かが壊れる音がした。叔父はドアの方に視線を送りもしないで言った。

 「たぶん……もうおしまいだ」

 叔父の語気が帯びる、真剣さと厳粛さに触れて、千華の抵抗が止んだ。大きく目を見開き、こう叫んだ。「おしまいじゃないよ。大丈夫、ここから逃げようよ」

 「逃げられない。逃げられる場所などないのだよ。私も、我々人類という種も」叔父の表情は蒼白になっていた。硬い表情で、弱々しく首を振る。「わたしはお前たちまで失いたくない。向こうが安全とは限らないが、こちらよりはましだろう」

 「向こう? 向こうって何なの!?」

 千華の腕を陽生は強く握る。叔父さんはいつも正しい。でも、今回だけは正しくあってほしくなかった。

 「家族にだけは助かって欲しいなんて、卑怯なのかもしれないな。そうだ、一つ公明正大な任務を与えることにしよう。どうだろう陽生、千華……できれば向こうの力を借りて、この世界を救って欲しい」

 それは陽生と千華の耳に遺言のように響いた。

 叔父は制御盤から視線を上げると、陽生たちを眺めて穏やかに告げた。「愛しているよ」

 バリケードが崩壊して制御室の床に散乱した。まだ生屍になりたてに違いない、損傷が少ない一体がドアをすり抜け、動物じみた動きで叔父に躍りかかった。実験室のスピーカーが彼の手から離れ、キンと甲高い音をたてた。両手を振り回した生屍が次々に覆いかぶさり、たちまち叔父の姿は消えた。

 そのとき、千華が陽生の手を振りほどき、足下のバックパックをつかんで走り出した。制御室の方へ。

 「待て、千華、戻れ!」

 制御室のディスプレイの数字は最後の一桁をカウントダウンしている。実験室を囲むように配置された円筒形の装置群、その冷却ファンの作動音が跳ね上がった。

 千華が走りながらバックパックをかき回して、護身のために持ち歩いていた海賊版のM92を取り出す。

 「千華!」

 部屋全体が白く輝いた。妹の姿も光に飲み込まれる。ヨウの叫びは反響すべき壁を見失い、底知れぬ虚空に吸い込まれた。そして……世界はブラックアウトした。


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