ヤカンヒコウ
蒸し暑い夜。窓という窓を開けて、扇風機をつけてもまだ寝つけない。
真夜中の空腹に耐えられなくなって飛び起き、とっておきのカップヌードルを棚から出した。
つけっぱなしのテレビでは、お馴染みの国営放送が、どこか遠くの砂漠の国で延々繰り返されている惨劇を、飽きもせず報じている。
1Kの狭いアパートだ。真鍮のヤカンに水道水を注ぎながら、その陰鬱な映像をぼんやり眺めた。
「枯れてるな」
ヤカンが言った。
画面に映る、虐殺で荒廃した村。砲撃の痕も生々しい瓦礫を背景に、一輪の花が枯れかけている。
アザミだろうか。色褪せた細い花びらに、乾いた茎、しなびた葉。
「うん、枯れかけてるね」
やんわりと訂正すると、ヤカンの底からごぽりと泡が立った。
「水をやれば、枯れない。なぜ、誰もそうしない?」
「水がないからじゃない? 水をあげようと思う人も」
「つまり――必要なのは、二つあるな」
だいぶ重くなったヤカンが体を揺する。フタを閉めながら、曖昧に頷いて続きを促す。
「水と、ヒーローだ」
吹き出した。
それが、気にくわなかったらしい。ヤカンは指を振り払い、ステンレスの流し台にどすん、と着地する。
「水はここにある。ヒーローはどこにいる?」
挑むように言われて、苦笑した。
なんだ。はるばる紛争地域まで行って、雑草に水をやれだって?ばかばかしい。
「旅費と日当と生命保険が出れば、考えなくもないけどね」
「そうか」
冷え切った声で、しかし穏やかに、ヤカンは言う。
「仕方あるまい。ヒーローに、道連れはいらない」
「何言って……」
「ここで、お別れだな」
ヤカンが、浮いた。
キッチンの窓の高さまで、くるくる回りながら。
ヤカンが、飛んだ。
真鍮の安っぽい輝きを残して、残暑の夜空へ吸い込まれていく。
呆気にとられて言葉を失う主人のことなど一顧もしないまま、ヤカンは姿を消した。
映画に出てくるヒーローのように、夜の都会を飛び越えて。
「ヤカン、飛行……」
そんなことをつい呟いてしまって、少し後悔。ごまかすように、照れ笑いをした。
―――――
砂漠の果てに咲く、アザミのような小さな花。
その花びらは初々しい薄紅で、その葉は柔らかい若緑だ。
日本人ジャーナリストの頑丈な靴の下で、その花は簡単に潰れて地面に横たわる。
花には気づかなかったジャーナリストも、強い日差しに輝くものを見つけて、顔を引き締める。
「これは、砲弾の破片でしょうか」
がれきに埋もれて輝く、真鍮の丸い側面。
軍手に包まれた手が、慎重にがれきを押しのける。
「……ヤカンです。地元住民が使用していたものでしょう。ご覧ください、半分に破断して、銃弾の痕が……」
痛ましげにかぶりを振るジャーナリストの顎の下に、言った言葉をそのままなぞるようなテロップ。
そして、すぐに場面は切り替わる。がれきの中の、壊れたヤカンなんか映したって、退屈なだけだ。
テレビを消した。
カップヌードルに、電気ポットからお湯を注いだ。
三分待てば、飢えを満たせる。蛇口を捻れば、水が出る。
(何でそれを、負い目に感じなきゃいけないんだ?)
百均ショップの塗り箸を手に、そんな意味のないことをひとりごちた。
声には出さなかったけど、声に出しても、きっと、変わらない。
それでも、空を見上げた。ヤカンの飛ばない空、砂漠の国へ続く空を。
2ch創作発表板に投稿したものです。