第一章 存在しない記憶
人が記憶を売るようになってから、自殺者は半分になった。
少なくとも政府はそう発表している。
統計が正しいかどうかは知らない。
だが、人間が人生の苦しみを切り売りできるようになったのは事実だった。
失恋の夜。
父親に殴られた日々。
事故の瞬間。
愛する者の死。
そんな記憶を脳から抜き取り、市場に流す。
代金を受け取った人間は、その出来事を思い出せなくなる。
感情だけがうっすら残ることもあるが、多くの場合はそれすら消える。
嫌な過去を捨てて生き直せる。
それが二十一世紀末の文明だった。
そして俺は、その文明の後始末を仕事にしている。
記憶鑑定士。
売りに出された記憶が本物かどうかを判定する職業だ。
偽物は珍しくない。
安物の感動体験を編集し、初恋の記憶として売る業者もいる。
戦争映画を脳編集して従軍経験として流す連中もいる。
だが本物の記憶には独特の重みがある。
痛み。
匂い。
皮膚感覚。
言葉にならない恐怖。
そういうものは簡単には偽造できない。
俺はそれを見分ける。
少なくとも今までは、そう信じていた。
その日も仕事は退屈だった。
雨が降っていた。
記憶市場管理局第七鑑定室。
窓の外では無数の広告ドローンが空中を漂っている。
『忘れたい過去、買い取ります』
『幸福な思い出、高価販売中』
『人生をアップグレードしませんか』
見慣れた宣伝文句だ。
俺はコーヒーを飲みながら次の案件を開いた。
依頼主不明。
闇市場経由。
差出人匿名。
それだけで面倒な匂いがした。
データ容量は三・二テラ。
個人記憶としては異常に大きい。
「何だこれは」
端末を操作する。
警告表示。
【精神負荷注意】
【閲覧推奨時間 三分以内】
俺は舌打ちした。
こういう案件は大抵ろくでもない。
再生を開始する。
視界が暗転した。
そして俺は別人の目になった。
夜だった。
風が吹いている。
冷たい。
砂埃の匂いが鼻を刺した。
広場が見える。
巨大な石造りの広場。
周囲を高層建築が囲んでいる。
見たことのない都市だった。
数万人の群衆。
老若男女。
叫んでいる。
泣いている。
逃げている。
何かから。
次の瞬間だった。
銃声。
ひとつではない。
何百。
何千。
雷鳴のような連続音。
人が倒れる。
子供が倒れる。
老人が倒れる。
女が叫ぶ。
地面が赤く染まる。
広場全体が地獄になる。
逃げ惑う人々。
上空から降り注ぐ光。
爆発。
炎。
肉の焼ける臭い。
絶叫。
絶叫。
絶叫。
記憶の持ち主は走る。
誰かの手を握っている。
小さな手だ。
少女。
娘かもしれない。
その手が突然離れる。
群衆に飲まれる。
見失う。
叫ぶ。
声にならない。
探す。
探す。
探す。
だが見つからない。
代わりに見えた。
山。
死体の山だった。
俺は端末を切った。
胃液がこみ上げる。
冷や汗が背中を流れた。
しばらく椅子から動けなかった。
こんな記憶は初めてだった。
残虐だからではない。
本物だったからだ。
あまりにも本物だった。
編集痕なし。
合成痕なし。
人工生成痕なし。
脳波パターンも完全。
一人の人間が実際に体験した記憶そのもの。
だが。
そんな事件は存在しない。
少なくとも俺の知る歴史には。
俺は端末を呼び出した。
世界事件データベース。
都市暴動記録。
戦争記録。
テロ記録。
映像検索。
位置照合。
建築照合。
何も出ない。
一致率ゼロ。
検索結果なし。
ありえない。
数万人規模の虐殺だ。
隠せるはずがない。
だが記録は存在しなかった。
まるで最初から世界になかったかのように。
そのとき端末の隅に小さな表示が出た。
【所有者情報:不明】
俺は眉をひそめた。
記憶には必ず元の持ち主がいる。
法的義務として識別コードが埋め込まれている。
それがない。
完全な空白。
そんなものは存在しない。
記憶は人間から生まれる。
人間のいない記憶などありえない。
しかし画面には確かに表示されていた。
【所有者:なし】
俺は急に寒気を覚えた。
窓の外では雨が降り続いている。
誰かが俺を見ている気がした。
振り返る。
誰もいない。
だが胸の奥で何かが囁いた。
逃げろ。
今すぐ。
この記憶に関わるな。
そう告げていた。
そして、その直後だった。
鑑定室の通信端末が鳴った。
非通知。
発信者不明。
俺はゆっくり受話ボタンに触れた。
雑音。
沈黙。
やがて女の声が聞こえた。
かすれている。
怯えている。
泣いているようにも聞こえる。
「それを見たのね」
俺は黙った。
女は続けた。
「お願い」
息を呑む音。
そして。
「私を見つけて」
通信は切れた。
画面には再びあの表示だけが残っていた。
【所有者:なし】
だが俺には分かっていた。
この記憶には持ち主がいる。
そしてその人物は今もどこかで生きている。
いや――。
本当に生きているのだろうか。
雨音だけが窓を叩いていた。
その夜、俺はまだ知らなかった。
この「存在しない記憶」を追うことが、自分自身の過去を崩壊させる旅の始まりになることを。




