第8話 日向館城下町02
どれほど時が流れたのか、定かではない。数時間くらいだろうか。
柵に背を預けたまま、土の温もりと人声の遠ざかりに身を任せていた貴丸の肩が、ぐらぐらと揺さぶられた。
「おい、貴丸。起きろよ」
耳元で響く声に、まぶたが重たげに開く。
視界に飛び込んできたのは、覗き込む希丸の顔と、その背後で腕を組み、いかにも何かを言いたげに眉を寄せている修平の姿であった。
貴丸は一度だけ大きく瞬きをして、ゆっくりと起き上がる。
「……よし。じゃあ帰るか」
あまりに自然に出た言葉に、希丸は「おう!」と元気よく頷き、修平は「は?」と小さく呟いた。
空を見上げれば、太陽はすでに高い。昼はとうに回っているだろう。と、そのとき。
ぐうぅ――
腹の虫が、遠慮なく鳴いた。(……そういえば、何も食ってないな)
貴丸はゆっくりと顔を修平へ向ける。
「なあ修平、腹が減った。何か食わせてくれ。銭なら払う」
「呼び捨てかよ……」
ぼやきつつも、修平は肩をすくめる。
「お前らに連れ回されて町まで来たが、こっちは朝から漁してたんだ。刺し網に、アイナメかカレイくらいは掛かってるはずだ。浜で焼くか?」
貴丸が返事をするより早く、希丸が勢いよく頷いた。
「俺、魚好きだ!」
「……まあ、いいか」
貴丸も軽く頷き、わざとらしく声を張る。
「修平! 魚を所望!」
その調子に、希丸が吹き出し、貴丸もつられて笑う。修平は大きくため息をついたが、口元だけはわずかに緩んでいた。
やがて三人は、朝に網を上げていた浜へ戻る。潮の香りが濃くなり、波が小さく砕ける音が耳に心地よい。
修平が海に入って刺し網を手繰ると、ぴちぴちと光る魚が次々に姿を現した。
「ほらな、掛かってる」
引き上げられたのは、丸々としたアイナメに、平たいカレイが数匹。水滴が陽光に弾け、きらりと光る。
アイナメの透き通るような飴色の身は、鼈甲のようで、まさに海の宝石だ。
カレイは複雑に混ざり合う褐色や黄土色の斑紋は、地味なようでいて、水に濡れた瞬間に浮かび上がるその模様は、自然が描いた精巧な芸術品のようだ。
「希丸、龍長おじさんを呼んでこい。あと火起こしの道具があれば持ってきて」
「おう!」
走り去る背を見送りつつ、修平は手際よく魚を締め、串に刺していく。十分も経たぬうちに、息を弾ませた希丸と、その後ろから龍長おじさんが現れた。
「俺も昼にしようと思っててな、火は、起こしてあるぞ」
龍長が差し出した壺の火種を受け取り、修平は枯れ草と流木を寄せて火を広げる。ぱちぱちと乾いた音を立てて炎が立ち上り、やがて魚の脂がじゅうと弾けた。
香ばしい匂いがあたりに満ちる。
「そろそろいいかな? 新鮮だから、美味しいぞ!」
修平が言ったので。貴丸がそれを覗き込んだそのとき、軽やかな足音とともに、小さな影が駆け寄ってきた。
「修平にいちゃん! 遅いから来てみたよ!」
振り返れば、貴丸と、年の頃もそう変わらぬ少女が肩で息をしながら立っていた。
修平の妹――お佳である。走ってきたのだろう、頬にはうっすらと紅が差し、乱れた呼吸の合間に小さく胸が上下していた。
「お佳か。ちょうどいい、一緒に食うか」
貴丸が何気なく声をかけると、お佳はぱっと顔を明るくし、迷いなく頷いた。
「うん!」
その仕草はあまりに素直で、どこか場の空気を軽くするものがあった。色の白い肌に、大きく丸い瞳が印象的で、長いまつ毛が瞬くたびに影を落とす。
ただ――この時代の目で見れば、どこか落ち着きに欠ける造作でもある。端正に整い、静かで“薄い顔立ち”こそが美とされる中では、お佳のそれはやや賑やかに映るだろう。
だが逆に言えば、その愛嬌は強い。後の世の感覚であれば、間違いなく「可愛い」と評される類の顔立ちであった。
ふと視線をやれば、希丸がわずかに顔を赤らめているのが分かった。
気づかれぬよう視線を逸らしてはいるが、そのぎこちなさは隠しきれていない。貴丸はそれに気づきながらも、あえて何も言わず、口元だけで小さく笑った。
結局、五人で火を囲むことになった。焼き上がった魚は、皮がぱりりと割れ、中から白い身がほくほくと湯気を上げる。塩も何もないが、海水の味がほんのりと感じられて、十分に旨い。
「うまっ……」
貴丸が思わず呟き、希丸は無言で頷き続け、お佳は夢中でかぶりつく。修平は苦笑しながらも、どこか満足げであった。
昨日の深夜に出港して、朝から動き続けた疲れと、腹の充足、そして焚き火の暖かさ。春の陽気がそれに拍車をかける。
「……ちょっとだけ、横になるか」
誰ともなく言い、三人――貴丸、希丸、お佳は、その場にごろりと寝転んだ。
龍長おじさんは船に戻るという。
修平は網や道具をまとめながら言う。
「片付けたら戻る。寝ててもいいけど、火の始末には気を付けろよ」
その言葉を最後に、意識はふっと遠のいた。
どれほど眠ったのか。
じり、とした熱で、貴丸は目を開ける。
「……あついな」
視界に入ったのは、赤く揺れる光。焚き火の火が、周囲の枯れ草へと燃え移り、じわじわと広がっていた。
風が吹く。
海から山へ向かう風が、炎を押し広げている。
「やばいぞ!」
飛び起きたときには、すでに火は線となり、面となり、あたり一帯を舐めるように走っていた。
そこへ、息を切らした修平が駆け込んでくる。
「煙が見えて……って、何やってんだお前ら!」
「知らん! 勝手に広がった!」
風はさらに強くなる。
「この時期は、この風が来るんだ……止まらねえぞ!」
炎は草を伝い、音を立てて広がる。空気が歪み、視界が揺れる。
遠くから、馬の蹄の音と具足の擦れる音が響いた。
「兵だ……!」
貴丸の声が焦りを帯びる。
「まずいぞ、富岡の兵に見つかる! 船に戻るぞ!」
お佳が怯え、修平の袖を掴む。
貴丸は一瞬だけ考え、すぐに叫ぶ。
「修平! 一緒に来い! ここにいたら相馬の間者と思われて斬られるかもしれんぞ!」
その言葉に、修平の顔が強張る。
炎を避けながら、一行は浜へと駆けた。背後では兵の声が上がる。
「こっちに人影があるぞ! 相馬の襲撃かもしれんぞ!」
だが、炎が壁となり、すぐには近づけない。
砂を蹴り、船へ飛び乗る。龍長が素早く縄を解き、櫂を押し出す。船はきしみながら水面を滑り出した。
岸から離れる。
十、二十、三十――距離が開いたところで、ようやく兵の姿がはっきり見えた。
弓が引かれる。
ひゅ、と矢が飛ぶ。だが、届かない。
船はさらに沖へ出る。
風を受け、波を割り、一路、請戸へ。
振り返れば、炎はまだ陸を舐めている。煙が空へと立ち上り、その向こうで城下の影が揺れていた。
修平は何も言わず、ただその光景を見つめていた。目にはうっすらと涙が浮かぶ。
お佳は状況が分からぬまま、不安げに兄を見上げる。
貴丸はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「……ごめんな、修平」
それだけ言って、視線を外す。
船は何も言わず、ただ前へ進む。
春の海は穏やかで、その穏やかさだけが、妙に胸に重く残った。
――そのときである。
船尾のほうで、かすかな物音がした。
ぎし、と板が軋む。
誰もが一瞬だけ顔を向けるが、波の音に紛れて、気のせいのようにも思えた。龍長は櫂を操り、修平はなおも岸を見つめ、貴丸も何も言わない。
だが――
「……さむい」
小さな声が、確かに聞こえた。
「……おなか、すいた……」
今度ははっきりと。
全員が同時に振り返る。
積まれた網と木箱の陰、その隙間から、もぞり、と何かが動いた。
そして、ひょこりと顔を出したのは――敦丸であった。
「……あ」目が合う。
風に吹かれて髪は乱れ、頬は冷え、目は今にも泣き出しそうに潤んでいる。
「……ここ、どこ……?」
ぽつりと呟き、辺りを見回す。見えるのは海、海、そして遠ざかる陸。
理解が、ゆっくりと追いついてくる。
「……え、あれ……みんな……? 人が増えてる?」
誰も答えない。
敦丸の顔が、みるみる歪んでいく。
唇が震え、目に涙が溜まり――
「うわあああああん!!」
ついに大声で泣き出した。
「なんでぇ!? なんでおいていったのぉ!? おれはただついてきただけなのにぃ!!」
手足をばたつかせ、板の上でじたばたと暴れる。
「さむいよぉ! おなかすいたよぉ! くるんじゃなかったよぉ!!」
その場にいた全員が、言葉を失った。
しばしの沈黙。
やがて――
「……誰なんだこいつ」修平が真顔で言った。
「知らん」貴丸も即答する。
「いやお前の弟だろうが!?」
龍長おじさんが思わず叫ぶ。
希丸は腹を抱えて笑っていた。
「はははは! なんだよお前!」
「わかんないよぉぉぉ!!」
敦丸は泣きながら叫び返す。
しかたがないので、貴丸は敦丸の頭をポンポンと撫でた。
船は変わらず進み続ける。
春の海は穏やかで、空は青く、風はやわらかい。
ただ一人、場違いな敦丸の泣き声だけが、やけに遠くまで響いていた。




