第74話 ぼく貴丸さんだよ、はちみつだーすき! 03
人が揃うと、先ほどまで納屋に満ちていた蜂蜜の甘い熱気とは別種の、張り詰めた静けさが場へ落ちた。
慶久を上座に、琴、元伯、空然、銀四郎、慶光、久秀、敦丸、希丸、実右衛門、助九郎、八田屋、修平――それぞれが腰を下ろし、あるいは壁際に控えながら、自然と中央の幼子へ視線を向けている。
先ほど交わされた守秘の約定。あの場で見せられた蜂蜜と蜜蝋。そして、それが持つ利。
それらが、この集まりを単なる話し合いでは済まない空気へ変えていた。
そんな中で、当の貴丸だけはいつも通りだった。
部屋の中央へ出ると、皆をぐるりと見回し、妙に満足げな顔で両手を広げる。
「ついに――!貴丸式、不労収入ゴロゴロ食っちゃ寝未来永劫計画を発動しまーす!」
沈黙。何人かが眉をひそめ。何人かが視線を逸らし。
敦丸と希丸だけが「おおー」と何となく盛り上がっていた。
意味はよく分からない。だが、“ろくでもないことを言い始めた”という認識だけは、その場で完全に共有されていた。
慶久が深々と息を吐く。
「……で、結局何をするつもりなのだ」
貴丸はけろりと肩をすくめた。
「来年から、この領で養蜂を広める」
その瞬間、場の空気がわずかに動く。
貴丸は続けた。
「やりたいって言う領民には、基本、養蜂については教えるつもり。巣洞の作り方も、蜂の扱いも、蜜の集め方もね」
そして、ひょいと修平を指差した。
「よろしくな、修平」
「……え?」突然名を呼ばれた修平が固まる。
貴丸は平然としていた。
「お前が頭だ。まあ、“養蜂頭”でも、”リーダー”でも“兄貴”でもいいけど」
少し考えてから、「ナベさんでも可」と、よく分からないことを付け加える。
修平はますます困惑した顔になった。
その空気を割るように、八田屋が口を開く。
「……それは、いささか早計ではございませんか」
商人らしい慎重な声だった。
「そのような肝要な技術や知識、むしろ限られた家だけへ教えた方が、利は守りやすいかと」
慶久も琴も静かに頷く。他の者たちも、おおむね同じ考えだった。
普通なら秘匿する。囲い込む。それが当たり前だ。
だが貴丸は、その反応を見回して小さく息を吐いた。
「うん。普通はそうするよね。作り方を抱え込んで、自分の家だけで儲けようとする。でも、それだと増えるのが遅いんだ」
指を一本立てる。
「量が増えない」
もう一本立てる。
「領民にも広がらない」
さらにもう一本。
「結局、一部だけしか儲からない」
そこで、貴丸は少しだけ顔をしかめた。
「それじゃ駄目なんだよ」
声は静かだった。だが、先ほどまでのふざけた調子とは少し違う。
「蜂蜜ってさ、“あるから使う”んだ。薬も、保存食も、甘味も、蜜蝋も。量が増えれば、使う人も増える。使う人が増えれば、もっと必要になる」
そして、少しだけ笑う。
「だから最初は、広げる方が大事」
そこで肩をすくめた。
「それに――」わずかに目を細める。
「どうせ、そのうち漏れる」その一言で、場の空気がぴたりと止まった。
貴丸は気にした様子もなく続けた。
「こういうものは、隠し続ける方が難しい。見られるし、盗まれるし、真似される。だったら最初から、こっち主導で広めた方がいい」
視線をゆっくりと巡らせる。
「先に広まったものが“基準”になるんだよ」
「基準……?」
「そう。例えば後から別の奴が蜂蜜を売り始めても、みんな結局は“大和田の蜂蜜と比べてどうか”で見るようになる」
貴丸はそこで、指先を軽く振った。
「甘いとか、香りが良いとか、色がどうとか。当然値もね。そういう“当たり前”を最初に決めた奴が強い。だから、最初のうちにうちが“蜂蜜の定め”を作るんだよ」
その言葉に、皆が静かに聞き入っている。
「そうなれば、後から養蜂を始めた奴らは、その定めの中でしか勝負できなくなる。だったら、うちが真っ当な値で、ちゃんと美味い物を出し続けてる限り――」
そこで言葉を切る。そして、わずかに口元を上げた。
「勝ち続けられる」
静かな声だった。だが、その場にいた者たちは思わず息を呑む。
幼子の口から出るには、妙に現実的な話だったからだ。
貴丸はさらに続ける。
「要するに、“真似されても困らない場所”に先に立つってことだな」
そう言ってから、ふと思い出したように言う。
「例えば宇治の茶だ。茶なんて別に宇治だけで育つわけじゃない。でも、“宇治の茶”って付くだけで別物みたいに扱われる。値だって上がる」
「堺もそうだな。あそこを通った品は、それだけで値打ちが増す」
貴丸はそこで膝を抱え、少し楽しそうに笑った。
「うちは蜂蜜でそれをやる。作り方は広める。でも、本当に儲かる部分はこっちで握る。そうすれば、量も増える。名も広がる。利も残る」
静かに言い切った。しばし沈黙が落ちる。
その中で、誰かが恐る恐る口を開く。
「……では、何を隠すのです?」
貴丸は少しだけ考えた。そして、指を一本立てる。
「最初から全部を出さないってことだよ。広めてもいいこと、絶対に外へ出さないこと、そういうのを分けるのが大事なんだ」
そして、その場の意識が自然と貴丸へ集まっていく。
貴丸は養蜂譜を指先で弄びながら言った。
「巣洞の作り方とか、蜂の性質とか、蜜を集めるところまでは教える。そこは誰でもできるようにする」
そこで言葉を切る。わずかに声が低くなった。
「でも、蜜の取り方と、蜜蝋との分け方。ここだけは絶対に外へ出さない」
修平が僅かに顔を上げる。
貴丸はそのまま続けた。
「蜂を集めて巣を作らせるだけなら、そのうち誰でも真似する。でも、本当に差が出るのは“どれだけ取れるか”なんだよ」
そう言って、手元の紙を広げた。
そこには拙いながらも妙な図が描かれている。
木枠。棒。円。何かを回す構造。
八田屋が目を細めた。
「……これは?」
「ぐるぐる回して分けるやつ。俺は遠心分離機って言ってる」
貴丸はあっさり答えた。
「まだ試作だけど、これを使えば、いちいち圧搾しないで巣を壊さず、もっと楽に蜜が取れると思う。たぶん今の倍近くはね」
その場の空気が変わる。
八田屋は紙を覗き込み、低く呟いた。
「……なるほど」
貴丸は紙を軽く叩く。
「これは大和田館で管理する。門外不出。村の人には巣をここへ持ってきてもらう。そして、誰にも見せずここで分ける。で、取り分を返す」
琴がゆっくり口を開く。
「……つまり、元締めになるのですね」
「そう。ただ、搾り取る気はないよ」
貴丸はあっさり頷いた。だが、すぐに肩をすくめる。
視線を巡らせながら続ける。
「自分でやるより、“館へ持ってきた方が得”って形にする。量も、質も、値もね」
そこで少し笑った。
「じゃないと、絶対隠すやつ出るから」
何人かが思わず苦笑する。否定できない話だった。
「持ってきたやつには、ちゃんと分け前を出す。損はさせない。むしろ増えるって分かれば、勝手に広がる」
さらに貴丸は続ける。
「それに、巣洞とか道具はうちで貸し出すつもり」
慶久が腕を組む。
「……横流しはどうする」
「出るだろうね」
貴丸は即答した。あまりに迷いがない。
その返答に、場の空気が少しだけ張る。だが貴丸は気にした様子もなく続けた。
「最初は放っておく」
「なに?」慶久の眉が動く。
「どうせ効率で、うちへ持ってきた方が得になるから」
さらりと言う。
「それでも隠してやるやつは、その時に締めればいい。でも最初から縛ると広がらない」
元伯が、くつりと喉を鳴らした。
「ほう……甘く見せて、後から締めるか」
「いや、違うかな。ちゃんとやった方が得って状態を作るだけだよ」
貴丸は軽く首を振る。だが、その視線だけは真っ直ぐだった。
言葉は平坦だ。肩の力も抜けている。だが、その理屈だけは妙に揺るがない。
「そうすれば、無理に縛る必要なんてなくなる。人は勝手にこっちへ流れてくるから」
そしてぽつりと言った。
「みんなから買い取って、うちで売る物だけを、高品質な“大和田蜂蜜”として世に出すんだ」
静かだった。だが、その場の誰もすぐには口を挟めなかった。
幼子の口から出るには、あまりに形が出来上がっていたからだ。
しばし沈黙が落ちる。
やがて琴が、静かに息を整えた。
「……契約の形はこちらで整えましょう」
すでに頭が実務へ切り替わっている声だった。
慶久は腕を組んだまま、しばらく貴丸を見ていた。
やがて低く言う。
「面倒なことを考えるのだな」
すると貴丸は、けろりとした顔で答えた。
「俺が将来楽するためだからね」
その瞬間。慶久が深々とため息を吐き、元伯が吹き出し、琴はこめかみを押さえた。
結局この幼子は、“不精者”を突き詰めた先で、妙な仕組みを作り始めているのだった。
やがて、八田屋がゆっくりと息を吐いた。
「これは……大きくなりますな」
その声には、呆れと、それ以上に抑えきれない高揚が滲んでいた。
商いを生業とする者として、今語られた意味が分からぬはずがない。
技術を抱え込むのではなく、あえて広める。
量を増やし、人を巻き込み、その上で最も利の出る部分だけを握る。
ただ品を売るのではない。“市場そのもの”を押さえにいっている。
八田屋は内心で舌を巻いていた。
(この童……)普段は評判通りだ。
剣の鍛錬は嫌がる。暇さえあれば寝転がる。気づけばどこかで怠けている。
それなのに、一度本気で口を開けば、ここまで筋道だった話を平然と組み立ててくる。
大店の主が語ったとしても違和感はない。いや、年齢を考えれば異様ですらあった。
(この方についていけば……)そこまで考え、八田屋は小さく目を伏せる。
自然と口元が緩んでいた。自分の商いも、まだ先へ行ける。
そう思わせるだけの何かが、この少年にはあった。
一方で。場が解け、それぞれが下がった後。
自室へ戻った慶久と琴は、ほとんど同時に深い息を吐いていた。
しばらく沈黙が続く。やがて慶久が、苦笑とも呆れともつかぬ顔で言った。
「……本当に、面倒な子だ」
琴も静かに視線を落とす。
「ええ……普段は、あれほどまでに不精なのに」
言葉の後半には、わずかな疲れが混じっていた。
転がる。寝る。逃げる。面倒事を嫌がる。
思いつきで動いては、周囲を振り回す。
それなのに――
「結果だけは、決して外しませんね」
琴の静かな声に、慶久も小さく頷いた。
「適当に見えて、その実、全部どこかへ繋がっておるな」
それが偶然ではないと、もう理解してしまっている。
だからこそ厄介だった。
慶久はふと天井を仰ぐ。
「……廃嫡せよ、と言われたことも一度や二度ではない」
低い声だった。
境の土豪とはいえ、家を率いる以上、嫡男への不満は当然耳に入る。
武を嫌がり。礼を崩し。妙なことばかり考えている。年寄り衆が顔をしかめるのも無理はない。
だが。
「あれを、捨てられるか」
ぽつりと落ちたその言葉に、琴は答えなかった。ただ静かに目を伏せる。
その問いの重さを、同じように理解していたからだ。
可愛い我が子であることに疑いはない。だが同時に、ときおり貴丸は、親としての情を越えた“得体の知れなさ”を見せる。
幼子の姿をしていながら、時折ひどく遠い場所から物を見ているような目をするのだ。
それは琴にとっても、時折ぞくりとするほど不思議な感覚だった。
しばらくして。どちらからともなく、小さく笑いが漏れた。
「……結局、また貴丸のことで悩んでおりますね」
「そうだな」
短い返事。だが先ほどまでの重さはもうない。
そこにあるのは、呆れと、諦めと、少しの苦笑だった。
悩みの種で。頭痛の元で。
放っておけば何をしでかすか分からない。
それでも。どこかで期待してしまっている自分たちがいる。
そのことを、二人とももう理解していた。
部屋に流れる空気は静かだった。重苦しさではなく、どこか穏やかな温度がある。
結局のところ――あの子は、手に余る。
扱いに困る。だが、それでもなお。
手放すには、あまりにも惜しいのだった。
なんでだろう。。
もう70話越えたのに、、
全然話が進まん!!
まぁ、原因は私なのですが。。




