第6話 日向館へ
日向館へ向かおうとした、ここで突発的な出来事が。段取りとしては申し分ないはずだった。
船は葦に隠し、龍長おじさんは船で待機してもらい、あとは城下へ紛れ込むだけ――のはずが、現実はそう都合よくは運ばない。
敦丸が、完全にグロッキー状態。
舟縁にぐったりと身を預け、顔色は土気色を通り越してドドメ色に変わり、呼吸だけが細々と続いている。
声をかけても返事はなく、揺すればかすかな呻きが返るばかり。
もはや戦力どころか、もう生ける屍だ。生きながらにして屍とは、これいかに。
妙なところで感心しつつも、現実は非情である。
「とにかく、無理ポ、だな…」心の中であっさりと結論を出す。
「仕方がないので、仕方がないので――」大事なことなので二度言ってみる。
「この俺様、貴丸が行くしかないか………いやだなぁぁぁぁ…」
つい本音が溢れて、も一度、めんど、と胸中で付け加えた。
視線を横へ流す。そこには、もう一人の駒――希丸がいる。
こちらは対照的に元気そのもので、今も落ち着きなく周囲を見回していた。単純で、力があり、何より言えばやる。実に扱いやすい。
貴丸はその肩に手を置き、周囲を一度だけ見回してから、声を潜めた。
朝の空気は静かであったが、人の耳というものは思いのほか遠くまで届くものだと知っているのだ。
「希丸、これから申すこと、よう聞け――いや、難しく考えなくていいから、ちゃんと聞いてね」
「おう!」
返事だけはやけに良い。貴丸はわずかに口元を緩めたが、その目はすぐに細くなり、軽さを引き締める。
「城下を歩きながらでよい。気取らず、何でもない顔でな――“さきほど武士の者がな、富岡様の家中に裏切り者がいると、道端で密かに囁いておったらしい。あれは如何なることか”と、そう誰でもよい、聞こえるように尋ねて回れ」
一度言葉を切り、わざと肩の力を抜く。
「まあつまりさ、“なんか変な噂聞いたんだけどさ、あれ何?”って感じでいいからさ」
そして、わずかに顎を引き、もっともらしく続けた。
「噂というものは、広めようとして流すと鈍る。されど――人は、自分で拾った話にはよく食いつくものだ」
少し間を置き、ふっと鼻で笑う。
「……って、まあ、それっぽいこと言ってみただけなんだけどね」
希丸は一瞬だけ眉を寄せて考えたが、すぐに顔を明るくした。
「なるほど、話せばいいんだな!」
「そうそう、そこは単純でいい。でもね――」
貴丸は指を一本立て、今度はやや現実的な声色に戻る。
「相手は選べ。身なりの良い武士はだめだ、勘ぐられる。狙うのは――井戸端の女衆だ。洗い場でも水汲み場でもいい、“おばちゃん”ってやつね」
「おばちゃんだな!」
「そう、おばちゃん。ああいうところが一番、話が回るからな」
妙に歯切れのよい返事に、貴丸は満足げに頷いた。
「それと、もう一つ。これは男衆に言え」
わずかに声を低くし、今度は意図的に重みを乗せる。
「“昨年は不作にて、さらに今年は戦も重なり、岩城領では米が足りぬやもしれぬ。ゆえに年貢を上げるとの話が、殿様より出ておるらしいが……さて、如何なることになるや”――と、そう振ってみよ」
すぐに砕けた口調に戻る。
「要するにさ、“米足りないらしいぞ、年貢上がるかもって聞いたけど、どうなるんだろうな”って、軽くね?」
「うん、それも分かった!」
「うまくやったら、あとで腹いっぱい食わせてやる」
「任せろ!」
即答であった。あまりにも迷いがない。貴丸は一瞬だけ遠い目をしてから、肩をすくめる。
これで自分より一つ年上とは、にわかには信じ難い。だが、こういう単純さこそが、時に最も鋭い刃になることもある。世の理とは、まことに皮肉でできている。
役割を振り終え、貴丸は自らの仕事へと移る。
「これで広がるといいんだけどな」
そうぽつりと零す。聞く者がいれば耳に残り、いなければ風に流れる程度の声で囁く。
軽い拳を打ってみる。打つべし、打つべし、打つべし。って感じで、軽く、しかし確実に。そしてその噂が蜂のように刺す! となればいいけど、まぁ、あまり期待しないでおこう。
親父様に前に聞いたら、この地は妙に真皆が面目だと聞く。
謀略とかはあまり行わないらしい。正々堂々を良しとするのは結構だが、裏を返せば“疑うことに慣れていない”。
それならば、こちらは疑いの種を落とすだけでよい。あとは勝手に育つ。
(楽して利益をたんまり得る。最高じゃないか)
そう考えつつ、龍長おじさんに手を振って別れた。
貴丸は希丸を伴い、富岡川に沿って上流へと歩を進めた。
朝の光が水面に細やかな揺らぎを落とし、岸辺では若い男がひとり、黙々と網を打っている。水滴が弧を描いて落ち、乾いた土に静かな音を残していた。
(ちょうど良いかもな)
貴丸は迷いなく声をかけた。
「よう、兄ちゃん。息災か。日々の糧、滞りなく口にしておるか――まあつまりさ、ちゃんと飯食えてる?」
軽い。自分でも呆れるほどに軽い。だが、軽さは時に刃より鋭く、時に羽より頼りない。
声をかけられた若者は、網を引き寄せる手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
年の頃は十代後半に差しかかるあたりだろうか、背はすらりと高く、骨ばった印象の細身の体つきが、濡れた衣の上からでもはっきりと分かる。
華奢と言ってしまえばそれまでだが、漁の仕事で鍛えられた筋が無駄なく通っており、頼りなさとは別の、しなやかな強さがあった。
顔立ちは派手さとは無縁で、やや細めの目が印象に残る。
日差しを避けるようにわずかに伏せられたその瞳は、どこか警戒と諦めを同時に宿しているようでもあった。
額にかかる髪は湿気のせいか、あるいは生来の癖か、ゆるく波打つようにうねり、無造作に落ちている。
総じて、目を引く華やかさはない。だが、水辺に馴染むその姿は妙に自然で、気づけば視線を留めてしまう類の男であった。
男はぴたりと手を止め、そのまま言葉を失ったように貴丸を見つめた。
網から滴る水の音だけが、場違いに大きく響く。
(……少々、やりすぎたかな? でもおかしくないよね)
貴丸はすっと希丸の頭を押さえ、その場に座らせると、自らも膝を折って頭を垂れた。反省の型である。
昔に流行った反省猿の真似。まぁ、でも、今の時代ならば、最先端だろう。
妙に形だけは整っている。ついでに希丸も巻き込まれているのは、もはや流れであった。
それでも男は口を開かない。むしろ、わずかに距離を取りたそうな気配すらある。
貴丸は顔を上げ、今度は調子を改めて、仕方なく、もう一度口を開いた。
「――失礼つかまつった。で、よっ! オラ貴丸! にいちゃんは何て言う名なんだ? ぱんぱんしてやっぞ?」
少しだけ砕けた調子も混ぜる。
「まあ、名前教えてくれってことね」
男はようやく瞬きをし、ぎこちなく口を開いた。
「オラ……修平っていうだ」
「『修平っていうだ殿』か」
貴丸はベタなセリフで頷き、そのまま言葉を重ねて、にやりと笑う。
「して『修平っていうだ殿』は、田畑を耕す者か、それとも海や川を生業とする者か――それとも、オラと同じく、何もせぬ道を極めしニートの求道者か?」
修平の眉が、わずかにひそめられた。
「いや、『修平っていうだ殿』じゃなくて、修平だよ。それに、”にいとのきゅうどうしゃ”?って何?」
そういうと、貴丸はようやく気づく。
「あー、どうりでおかしいと思ったよ。『修平だよ』殿!」
「いや、違うだろ、 しゅ・う・へ・い! 修平!」
そこで、貴丸は言う。
「そんなの知ってるよ、修平殿。でだ、修平殿は何の仕事の人?」
修平の眉がぴくりと動いた。さも面倒な人間と出会ってしまったという視線を貴丸に投げかける。
「漁師だよ。それに今のは何だ?」
「いやいや、気にせんでいいぞ」
あっさりと流し、貴丸はすぐに本題へと移る。
「ところで修平殿、ひとつ頼みがあるんだが」
声を落とし、少しだけ現実的な調子に変える。
「これから城下へ向かうんだ。道に不案内でな、案内してもらえぬだろうか。要はさ、ねぇ、バイトしない? バイト?」
そして、すぐに言い換える。
「あ、バイトわからんよね。えーとね、まあ、町まで連れてってくれたら助かるって話」
修平は露骨に警戒の色を浮かべた。
貴丸はそれを見て、懐に手を入れる。取り出したのは、擦れの少ない永楽銭であった。陽光を受けて、鈍くも確かな輝きを放つ。
「無論、ただとは言わぬ。これを十文、礼として渡そう」
軽く振って見せる。
「案内してくれたら、これやる。どう?」
修平の目が見開かれた。この辺りでは滅多にお目にかかれぬほど状態の良い銭である。疑いと欲とが一瞬でせめぎ合い、やがて後者が勝った。
「……案内してやる」
短く、だがはっきりとした返答だった。
貴丸は小さく頷き、その奥でわずかに口元を歪める。
(よし――ここからだ)
川の流れは変わらず穏やかであったが、その水面の下では、確かに何かが動き始めていた。
ということで、
この辺りから、文章を現代語にしますね。




